山背泊奥台場

概説 その向いの高台(真言寺下側)は、昔、山背泊台場のあったところだ。寛政11(1799)年の幕府蝦夷地直轄以来、いろいろ軍備したなかの一つで、この奥の押付台場とともに、対岸の矢不来台場と相対した湾口の守りだったが、ペリーが来たとき、米兵から「日本ポン、アメリカドーン」といわれて大砲の貧弱さをばかにされたのは、この台場である。[はこだて歴史散歩P35より抜粋]
 これ(註:天光稲荷社)は御台場の下にあり。[「箱館夜話草 全」『函館市史史料編第1巻』p473]
 南部藩は津軽藩とともに幕府から蝦夷地の警護を命ぜられ、箱館湊を固めるために、箱館の押付台場・山背泊台場など箱館市中と函館湾を挟んで相対する矢不来台場(現上磯町矢不来)を守備しました。また、安政4(1857)年成石修の紀行文『東檄私筆』の「函館之内山背泊御台場之図」には崖の上に土塁と柵で囲んだ陣地の中に砲を設置している様子が描かれています。[函館市立博物館五稜郭分館平成12年度特別展図録『五稜郭』より]
 山背泊台場は2ヶ所あったようで、文政4(1821)年『箱館市中細絵図』には山背泊に「大筒場」が一ヶ所描かれているだけだが、天保(1830〜1844)初期の箱館図には山背泊集落の東と西に「砲台」南部家持場および「砲台」ナンブ持場として2ヶ所に描かれている。文政4年図に描かれている「大筒場」は山背泊台場で、『新開調記』で「東風泊奥台場」と呼んでいるのは西側のこの台場のことと推測される。一般に「山背泊台場」といわれるのはここのことである。
真言寺駐車場が台場跡
見取り図(「御國七浦御備立」より)
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その他の写真
  1. てんこの坂下から台場跡を見上げる(ああ、樹木が邪魔で台場が見えない!)
訪問記[2001/06/11]前回来たときはまだてんこの坂の整備も駐車場の擁壁工事もされていなかった。てんこの坂の「てんこ」というのは成田山真言寺西向かいにある天光稲荷の天光が転じたものらしい。
所在地函館市船見町。高龍寺向い、てんこの坂東側の成田山真言寺境内
参考書『はこだて歴史散歩』、函館市立博物館五稜郭分館平成12年度特別展図録『五稜郭』、「御國七浦御備立」(上磯町落合治彦氏所蔵)、『函館市史 史料編第1巻』