白旗城

概説 1985年発行の『新版茨城県の歴史散歩』(山川出版社)では竜ヶ崎城について次のように記している。「源頼朝の家臣下河辺政義の子孫が竜ヶ崎氏を称し、白旗城(竜ヶ崎城)を現県立竜ヶ崎一高のある高台に築き、その出丸を現竜ヶ崎二高のある古城に築いてこの地方を支配した。竜ヶ崎氏が結城合戦(1440年)で滅ぶと、江戸崎の土岐氏が竜ヶ崎地方に勢力をのばし、その出丸跡に城を構えた。」[『新版茨城県の歴史散歩』(山川出版社)より]
 白幡台 下河辺政義の子孫で土着して地頭になったもので益子氏・志筑氏は最もあらわれた。竜ヶ崎の地も、常陸南郡の南辺の地として、彼の子孫によって開発が進められた。自然堤防洲に沿って集落が大きくなり、田地がきり開かれた。その館は交通の要衝奈戸岡に近く、前面湿地帯を隔てて小貝川を眼下に見下す平畑の地、現竜一高の台地である。源三位頼政を祀る頼政神社は、この下河辺氏一族の護り神であり、産土神であったと考えられる。源氏にゆかりの白幡の地名は彼等の館址である。[『龍ヶ崎郷土史』P47原文のまま]
 龍ヶ崎城もご参照下さい。
西側からの眺め
訪問記[2002/09/09]『新版茨城県の歴史散歩』を読んでいて龍ヶ崎城と言われる城は二つあったのかと気がつきさっそく出かけた。あいにくスコールのような雨が降る天候だったため周囲を車で回っただけ。それにしても『龍ヶ崎市史中世編』がこの城について触れていないのはなぜだろうか。
[追記]2006年発行の全面改訂版『茨城県の歴史散歩』では白旗城の記述はなくなっている。おそらく伝承以上の裏付けとなる証拠がないためだと想像される。しかし、「しらはた」、「台」などの地名が残ることから何らかの城郭関連地であった可能性は記憶しておくべきであろう。
所在地茨城県龍ヶ崎市平畑。県立龍ヶ崎一高のある高台。
参考書『新版茨城県の歴史散歩』(1985年)、『龍ヶ崎郷土史』(1958年)