御茶園城(おさえんじょう)

概説 御茶園館とも。
 御茶園遺跡発掘地は、中世における木原城との関連で推察すると、外郭であり、外の守りの館跡ではないかと言われてきた。木原城は三方が湿地帯や水堀で囲まれ、特に西北方向は幅広な湿地帯で底なし状の泥田堀が最近まで続いていたし、南や北側も急断崖や湿地帯と水堀に囲まれており、簡単に攻め入ることは不可能である。だが、台地の付け根部に当たる東側は、木原城の防衛上最も弱点部といえる地点である。ゆえに、この地域は惜しみない労働力と兵法の粋を凝らした大遺構(二重構造の深い堀や大きな土塁など)が顕在している。御茶園城は、この地点より東方へ500mの地点であり、木原城と舌城台地の突端にある最前線陣地(根火山遺跡など)との繋ぎの位置に当たっている。戦国末この地方の情勢は、年を追う毎に険悪となり、対岸との戦端が開かれれば、敵にとってこの陣地付近は、上陸及び進攻に最高の立地条件である。これは馬の背台地、または間の低地沿いより侵入すれば、自然の湿地帯を避けられる道筋である。なお且つ木原城の弱点部に到達する最短距離を選ぶことにもなる。また、上陸に成功した途端に橋頭堡の確保も容易にでき得る地形でもある。以上の判断より御茶園城は、直接敵の進攻ルートを阻み、最前線の中継に当たる木原城の出城として再構築(遺構・遺物などから南北朝期頃には在城したと思われる)されたものと考えることが出来る。そして構築年代は、木原城構築の頃、強いていえば対岸の火災に脅威を感じた、天正初期以降と推定し得るものである。眠れる遺跡を揺り起こしたが、充分解明できず謎を残す、後々の調査研究を期待する。[『御茶園遺跡』より抜粋]
 しかし、この発掘調査後、工業用地として開発され完全湮滅した。
湮滅した御茶園城の現況(右手の丘の上)
訪問記[1998/04/07]
[2000/11/26]工場敷地となり完全湮滅です。
所在地稲敷郡美浦村木原字御茶園。
参考書『御茶園遺跡』