茂別館

概説昭和57年国指定文化財。嘉吉3(1443)年津軽管領安東太郎盛季が南部義政に十三湊を攻略され、さらに小泊も奪われ、蝦夷地に渡った時、館を造ったのに始まり、のち安東政季、茂別(下国)家政が守備した。長禄元(1457)年5月コシャマインの乱のとき、道南の十館は相次いで攻め落とされたが、ここ茂別館と上ノ国花沢館だけは堅く守って屈せず辛うじて残ったという。大館、小館とも北、東、南の三方に土塁をめぐらしており、各館内にも、仕切状土塁が認められ、道南に存在する同時代の館跡中最も雄大なものの一つである。土塁もよく保存されている。[『上磯町の文化財』より抜粋]
大館東側より入る矢不来天満宮の裏参道
その他の写真
  1. 茂辺地橋から大館(右手)中館(中央)小館(左手)を臨む
  2. 天満宮本殿東側の土塁は幅がある。櫓台か?
  3. 天満宮正面。津軽安東氏とのつながりを感じさせる佇まい
  4. サケマスふ化場施設左手にある中館
  5. 急峻な中館の城壁
  6. 左が小館。右がハリネズミ状の空堀のある高台
  7. ハリネズミ状空堀の最高地点より台地側を見る
  8. 大館東側の大空堀。今年(2002年)は雑草が少ない
  9. 大館南側の丘陵
訪問記[2001/06/25]市村高男氏の縄張図(「茂別館跡についての考察」P28)を見ると大館、中館、小館のそれぞれの台地側にはすばらしい堀と土塁の遺構が残っているように記されている。しかし、ものすごい雑草に圧倒され大館の土塁の一部しか確認できなかった。
[2001/07/02]なんとか小館か中館へ入れないかと見回したが、小館への道は草が深く断念。中館の斜面は下草が刈られていたので一気に登った。頂上の平坦地の周囲はなんとなく土塁のようにも見えるが判然としない。郭内は薮のため詳細はわからなかった。
[2001/07/30]地元の郷土史研究家のO氏に案内してもらって小館の北東側にあるハリネズミ状の空堀群へ上る。雑草が多くて一目で見渡すようには確認できないのが残念。
[2002/07/01]津軽安東氏との深いつながりを感じさせる茂別館の佇まい。今年は東側の大空堀の雑草が少なく、茂辺地煉瓦製造所跡へも簡単に入れた。この付近の地形は煉瓦製造所時代の攪乱があるため茂別館の時代のものとの峻別が難しいらしい。さらに大館南側の丘陵一帯も茂別館関連の何かがあるはずと地元の研究家O氏は言われていました。旧福山街道は今まで考えられていたよりも海よりを通っていた可能性があるとの話も聞けました。茂別館はいままで掘られたことがないそうで、矢不来館のほんの一部分の調査からでもものすごく珍しいものが出ていることを考えれば、来る平成16年からの調査が実に楽しみです。
所在地上磯町矢不来129他。大館には矢不来天満宮がある。
参考書『はこだて歴史散歩』、『図説中世城郭事典第一巻』、『茂別館跡についての考察(地域史研究はこだて32)』