概説 | 天正元年、佐竹氏は霞ヶ浦北岸の出島の諸城を陥落させた。南岸に位置する江戸崎土岐氏にとっては対岸の火事と悠然と構えているわけにはいかなくなった。土岐氏は佐竹軍がわずか4kmの湖面を渡って一気に南下してくる場合に備えて木原城の増改築を急ぎ、南岸沿いには迎撃用の陣城、砦を急ごしらえする。それらの城・砦から本城である江戸崎城へ緊急事態発生を伝えるために周辺(美浦村・江戸崎町・桜川村の湖岸)の小高い丘には狼火台または物見台が点々と築かれた。
現在までのところ美浦村や江戸崎町の狼火台や物見台について書かれた文献は皆無だと思う。幸い阿見町の郷土史研究家大竹房雄氏の長年に渡る調査研究成果を記録した「戦国末期に於ける木原城を囲む防塁・狼火・物見台図」が、美浦村教育委員会発行の『御茶園遺跡』第二章中世城館跡編に収録されている。したがってここに記載されている狼火台の位置図が唯一の情報と言える。そういうわけでこの図を頼りに狼火台巡りをしてみた。ただし、大竹氏からの追加情報もあったのでこの図だけではないことをお断りしておきます。
狼火台の名称は全て仮称です。小字名で呼ぶのが良いのですがすぐには調べる手段がないので大字で呼ぶことにしました。また、ここでは狼火台という名称にしましたが、これら全てが狼火台だったかどうかは分かりません。物見台だったかもしれないですし、単なる古墳かもしれません。 |