稲城ノ内(いなじょうのうち)

概説 取手市内には、地名から城館があったことを想定させるような場所が何カ所か確認される。稲の地名は、弘安10(1287)年10月24日付の「関東下知状」にみえるが、これは取手市内で文献史料にはじめてみえる地名であり、古くからこの地に村落が形成されていたことがわかる。城郭関連地名があるが、表面観察するかぎりでは城の遺構らしいものは認められない。[『取手市史』より抜粋]
 「稲村城址は北相馬郡稲戸井村大字稲にあり」[『常総戦蹟』「雁金山」の巻より]
 『常総戦蹟』などでは「稲村城」としているが、明らかな城郭遺構が無いようなのでここでは『取手市史』に従って「稲城ノ内」としておく。ただ、『茨城県遺跡地図』によるとこの台地の南西部の突きだした部分をとくに「古戸城」というようなので、この別称が「稲村城」かもしれない。
稲集落中心部
訪問記[2002/10/7]常総ふれあい道路を挟んで江戸川学園取手中・高の北側集落がかつて稲村とよばれ稲城ノ内のある一帯。これといった遺構らしきものはなかった。
所在地取手市稲。常総ふれあい道路を挟んで江戸川学園北側の台地一帯。
参考書『取手市史』、『茨城県遺跡地図(平成2年)』