宝篋山

概説 別名、小田山。筑波山塊中の高峰で、山頂からは結城や土浦方面を望むことができる。この山が軍事的に重要なのは、小田城の背後に位置するという点である。たとえば康永3(1344)年2月日付の別府幸実軍忠状写に「同(暦応4(1341)年)6月16日馳向于小田宝篋塔峯致合戦、追落御敵」とあり、宝篋山で合戦のあったことが判る。なお宝篋山という地名は、山頂に宝筺印塔が建てられていることによる。[『筑波町史』より]

 『筑波町史』で紹介されている2つの堀切とは別に、新たに堀切が見つかった。それを伝える『藪ログ』のエントリー記事はこちらから。

 この宝篋印塔は標高461mの小田山頂にあり、南麓にあった僧忍性(にんしょう)の在住した極楽寺と関係があると推定される。山頂には土壇が築かれ、その中央に置かれた石造基壇上に本塔が建っている。この塔の製作は鎌倉時代中期又は文永初期と推定される。[つくば市教育委員会による現地説明板より]
南西側からの遠望(手前は小田前山)
    その他の写真
  1. 林を抜ける登山道
  2. 姿隠しかまたは関門に使われた土塁か
  3. 宝篋山山頂
  4. 北東側の堀切は電波塔下の道路に断端が開いている(電柱の先)
  5. 北北西側の堀切(北側から見る)
  6. 北北西側の堀切(宝篋山側から見る)
訪問記[2003/01/13]前山の藪から一変、まともな登山道になり快調に頂上をめざすが、途中の急勾配に何度も息が切れ切れ。頂上手前では心臓がパンク寸前。普段の運動不足を反省した。この登山道はマウンテンバイクのクロカン練習コースになっているようで5台のバイクと行き会う。彼方で鉄砲撃ちの銃声も聞こえる。また、登山道の整備をされている小田の有志の方々とも出会ったので、前山の藪も払っておいて下さいよ、と一応お願いをしておいたが、皆さん前山を知らなかった。頂上へ着くなり宝篋印塔の前にへたり込み、取りあえず昼食。宝篋印塔の裏側にある「筑波宝鏡テレビ放送固定局」施設の北東側および北北西側へ少し降りたところにある堀切を確認しに行く。少し降りるということは、また帰りに登らなくてはならないということで、降りながら少々憂鬱。今日は真冬というのに3月並みの暖かさで春霞がかかったよう。小田城も霞の下にぼんやりと見えた。昨日は透明度が高かったのでそういう日に登ってみたかった。小田城小田前山城、宝篋山の三者は総合的に見ていく必要があることは登ってみればよく分かる。帰宅後、写真を再生して気が付いたのだが、宝篋印塔の露盤と相輪がずれているのではないだろうか。
所在地つくば市小田。登山ルート案内:国道125号線小田の信号から八幡神社へ向かって登り鳥居の左脇の舗装道路を少し登ると右手に採石場がある。そのあたりに車を留め、少し道路を登ると右手に「小田山頂へ2.5km」の標識がある。そこから登ると、愛宕神社があるのでその左脇のかなり急な山道を登っていけば前山城の主郭東側下を北上する登山道へ通じる。その先に堀切があり、棒杭の標識が立っている。右(東)へ取れば宝篋山へ至る(約50分)。その後分かったのですが、愛宕山神社脇から登るよりも、国道125号線の切り通しの階段から上るのが楽だと思います。この道は小田前山城遺構を通過して宝篋山へそのまま通じています。頂上の電波塔への道路があるので、登山が嫌な方は「表筑波スカイライン」からも上がって来られると思う。ただし、途中にゲートがあるかも知れないので保証はできませんが。
参考書『筑波町史』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』