旧植民地ジンバブウェの混迷(2)

優れた中世の文化国家の没落から独立まで


1 世界文化遺産「石の家」の国

 「ジンバブウェ」という国家名は、現地語で『石の家』を意味する。
実に精巧な石造建築であり、その古代遺跡群は世界文化遺産に登
録されている。

 最初にこの遺跡群を発見した欧州人は、「アフリカの土着民がこの
ようなすぐれた建築技術、芸術的感覚を持つはずがない。欧州人の
建築になったものであろう」と考えたといわれている。
 欧州人の優越意識がふんぷんとするが、それだけにアフリカの土
着民が建築したと知った時の衝撃も大きかったであろう。

 歴史的にみると、2世紀バントゥー族が北方より移動して来て定着
した。

 9世紀に、同じくバントゥー系のショナ族が南方から移動して来て、
農業、牧畜、金の採鉱、貿易に従事し、繁栄した。この時期にジンバ
ブウェ『石の家』と呼ばれる古代遺跡群を残した。
(日本では平安文化が栄え、欧州ではフランク王国が封建社会を作
り上げていた時機である。それぞれが多様な民族文化を開花させて
いた時代といえよう)

   当時の繁栄を示す遺品として、中国の陶磁器の破片なども出土
している。つまりアフリカ東岸から中国までの貿易圏に入っていたの
である。

 その後モノモタバ王国、ロズウィ王国は19世紀半ばまで栄えた。
 19世紀には入りヌデベレ族が進入し、ショナ族の王国を滅ぼした。

 この国が激変したのは19世紀後半、英、独、仏、伊、ベルギーな
ど欧州列強のアフリカ分割、つまり軍事力による侵略支配の影響で
あった。

2 西欧帝国主義列強のアフリカ侵略

 理解を容易にするため、まず19世紀のアフリカにおける欧州列強
の野望を概観しよう。

 下の図で歴然とわかるように、19世紀は欧州列強がアフリカ侵略
に文字通り狂奔した世紀であった。
(日、米など後発の先進国は、アジアに進出することになった)



 大英帝国が意識したのは、一歩先んじていたフランスや、後発の
ドイツとの対抗であった。

 フランスはアフリカ北部から西海岸にかけて南下し、勢力を伸ばし
ていた。

 大英帝国のアフリカ侵略政策は、1815年のスエズ運河株式の買
収を契機としている。スエズ運河はフランス政府とエジプト政府の共
同出資で開発されたが、エジプト国家財政の破綻により、その株式
を買い取り、一挙に大株主となった。以降英国はエジプトの政治経
済に大きく関わり、フランスの影響を排除してしまった。

 もうひとつは、アフリカ南端ケープ植民地からの北上戦略であった。
 1815年、オランダの植民地であったケープを取得したが、ここを起
点として、勢力の拡大を図った。

 そのひとつは、アフリカ大陸縦断鉄道の建設であった。

 ドイツは中東に3B政策を取っていた。
 すなわちドイツのベルリンからトルコのビザンチウム(イスタンブー
ル)経由イラクのバグダットに至る長距離鉄道の建設である。

 これに対抗するため英国は3C政策をとった。
 アフリカ南端のケープタウンからエジプトのカイロ、さらにインドの
カルカッタに至る大構想であった。

 3C政策と並行して強引な資源獲得政策をとった。豊富なダイヤモ
ンドや金鉱を有する隣国、オランダ系移民のオレンジ自由国とトラン
スバール共和国の併呑であった。
この両国に1899年から1902年にかけてボーア戦争をしかけ目的を
果たした。

(しかし百年後この戦争の贖罪をしたことは、下記を参照されたい)

スピンコップの激戦の渦中にいた若き日の三雄
注目の英連邦会議(速報)
エリザベス女王、ボーア戦争に遺憾の意を表明
ケント公ボーア戦争100年記念に謝罪

3 セシル・ローズを利用した大英帝国の侵略

 セシル・ローズは、1853年、ロンドンの北にあるハートフォード州で
生まれた。17歳の時、南アフリカにいた兄を頼り移住した。鉱山経
営で財を作り、1870年には地方議員として、帝国主義を奉ずる政治
家になっていた。

 本国では、ヴィクトリア女王と宰相ディズレリーが大英帝国の領土
拡大政策を推進していた。野心家セシル・ローズは本国政府の帝国
主義侵略の意向に副った適材であった。

 鉱山経営者としてのセシル・ローズは、奥地ジンバブウェに目をつ
けた。
 1888年、ローズはヌデベレ族のローベングラ王と協定を結び、金銭
やライフルと引き換えに鉱物資源採掘権を得た。

 1889年、セシル・ローズは英本国政府の特許を得て、採掘のため
英国南アフリカ会社を設立した。英国本国政府の監督下という条件
で軍隊も持った。

 セシル・ローズの個人的欲望、それは大英帝国ヴィクトリア女王と
その政府の領土拡大の野望でもあった。セシル・ローズの野望はエ
スカレートした。彼はジンバブウェの鉱物資源採掘権のみならず全
地域の支配権をもローベングラ王に要求したのである。

 ここにいたって現地部族は一個人セシル・ローズの国内支配に反
対し、蜂起した。1893年ヌデベレ族が、さらに1896―97年にヌデベ
レ族とショナ族が合同し反乱を起こしたが、圧倒的な軍事力に鎮圧
され、大英帝国の支配化に組み込まれた。

 現地議会は、侵略の功労者ローズに因んで、ジンバブウェを『ロー
デシア(セシル・ローズの国)』と命名した。

 世界の歴史で侵略者の名前が国名になったのは、モンゴル帝国
のオゴタイ=ハン国、チャガタイ=ハン国、キプチャック=ハン国、
イル=ハン国などであろう。しかしこれらは13世紀の話である。
 約100年前に、アフリカではこのような国家と個人の合体したよう
な侵略も、世界に容認されていたのであった。

 かくして優れた中世のアフリカ民族文化国家のひとつが消滅した。

 1890年、ローズはケープ植民地首相に就任し、蓄財と権勢を意の
ままにした。

 1895年、ローズはボーア人のトランスバールの金鉱までも入手しよ
うと画策し、友人をトランスバールに送りこんだ。しかしこの陰謀は失
敗した。いかにも私欲が酷いとして指弾され、翌1996年首相を辞任
した。以後彼は南アフリカ会社の経営に打ちこんだ。

 ダイヤモンドと金を産出するオレンジ自由国とトランスバール共和
国を、大英帝国が併呑しようと、英国政府は1899年ボーア戦争を起
こした。この戦争は1902年、英国軍の圧倒的勝利で終わり、英国は
両国を併呑した。

 歴史の皮肉であろうか、野心家セシル・ローズは、その1902年に没
した。しかし、「ローデシア」という国名が残った。

4 白人支配のローデシアの南北分割

 1922年、英国南アフリカ会社は経営不振を理由に、統治権を放棄
した。英国政府はローデシアが南アフリカ連邦に併合されることを望
んだが、現地の白人社会は南アフリカ連邦への併合を嫌い、自立の
道を選んだ。英国政府は現地白人社会の意向を認めざるをえなか
った。ローデシアは南北二つに分かれた。

 1923年英国の自治植民地南ローデシア(現ジンバブウェ)
 1924年英国の直轄植民地北ローデシア(現ザンビア)

 しかしいずれも現地の白人支配であった。現地議会の人種差別法
により土着のアフリカ人は政治参加できず、経済的にも従属してい
た。

 第2次大戦後、全世界で民族独立の機運が高まった。

 1953年南北ローデシアとニヤサランド(現マラウイ)がローデシア・
ニヤサランド連邦を形成した。しかしこの連邦は、南ローデシアが、
北ローデシアの銅資源とニヤサランドの安くて豊富なアフリカ人労働
者を利用したものであり、白人社会は富裕になったが、現地アフリカ
人の生活水準は向上しなかったので、アフリカ人社会に民族主義運
動と連邦離脱運動が起こり、1963年連邦は10年で解体した。
 翌1964年、北ローデシアはザンビア、ニヤサランドはマラウイとして
独立した。

 南ローデシアの少数白人社会は白人支配体制を宗主国英国に求
めたが、英政府は国民の多数支配への漸進的移行と人種差別撤廃
を要求した。少数白人社会はこれを拒否し、会議は決裂した。
英国政府は白人支配体制に経済制裁を行なった。

5 ゲリラ闘争と独立

 1965年白人社会は一方的に独立した。1970年共和制に移行した。
 白人政権の独走に対し、現地アフリカ人は1972年よりゲリラ闘争を
激化していった。この時のスローガンが「ゲリラ闘争の戦士には白人
所有の大農場を開放し分与する」というものであった。
 この時の言質が、今、問題の争点のひとつになっているのである。

 1977年白人政権は、アフリカ人との和解についての英米共同提案
を拒否した。ゲリラ闘争はますますエスカレートしていった。

 1979年白人政権は穏健派のアフリカ人と合意し、白人優位の多数
支配制国家ジンバブウェ・ローデシア成立させたが、これはまやかし
の政治制度であると国際世論の反対にあった。

 1979年英国は、英連邦会議で全当事者(ローデシア政府とゲリラ
代表)会議開催を約束し、ロンドンで開催した。

 最も急進的な民族解放組織であるジンバブウェ・アフリカ民族同盟
(ZANU)の代表者がムガベ(前首相、現大統領)である。
 ZANUは多数派のショナ族である。今ひとつの解放組織が、少数
派のヌデベリ族のジンバブウェ・アフリカ人民同盟(ZAPU)であった。
(その後ZAPUはZANUと合体した)
 紆余曲折は端折ったが、暫定的に英国政府が直轄し、1980年2月
の総選挙が国際的に認知され、ジンバブウェが国家として独立し、ム
ガベが首相に就任した。その後大統領制になり、ムガベ首相が大統
領に就任し、2002年に4度目の改選を迎える。
 彼の政治的反対者に対する行為が、人権問題となっている。

 現地の白人社会は、少数派として一時議会に優先的な議席があっ
たが、これも撤廃され、政治的優位性はなくなった。
 しかし、大農場の私有は改革されぬまま推移しており、この開放を
要求する旧ゲリラ兵士達の、白人大地主への暴行あるいは農場占拠
などの現地白人所有の土地問題が、深刻化している。

 植民地時代のプラス遺産と重いマイナス遺産については、次回に
まとめよう。


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