8 サンデイエゴからロスアンゼルスへ

9月18日、予定を大幅に遅れていたがサンディエゴまでは遥かに遠くこの日のうちには無理だろうと思えた。とにかく行ける所まで行くことにして私達は9時にグローブを発った。直ぐに道が二つに分かれ、一つはマイアミを通る広いハイウエー、今一つは狭い昔のアパッチトレイルとなっていたが、私達は後者を選んで進んだ。

なだらかな山道が続き、空気はさわやかだった。巨大なサボテン、サファーロがにょきにょきと生えている。別の種類のサボテンも目につきはじめ植物群は今迄とは変った風貌を見せるようになった。流れる外の景色を私は必死に追って、少なくとも六種類のサボテンを見つけた。真紅の花をつけるオコテーオ、カラタチのとげばかりのようなクルシフィクション、ユッカ、花を着けると枯れてしまうセンチュリープラント等認める事が出来た。アパッチ族の砦に非常に近接したところを走っているようで、スリルがあった。昨夜の道はアパッチ族の城塞の中を走っているHWだった。程なく前方に美しい湖が見えてきた。私達は丘に残されたサラドインデアン(サラドとはスペイン語で塩からいの意、この近くに塩の川があるのでこの名がある。)の14世紀代の遺跡を見る為、ここで道をそれた。ウパツキと同じようなペブロを積み上げて作った家屋が岩のほこらを背にして高い崖の上に建てられていた。ここであわやという事件が起きた。車の中に淳を残して皆外に出て見ていた時、突然車がするすると進み出した。淳が運転席に立って得意そうにハンドルを握っていた。先は断崖絶壁、ひやりとした瞬間夫もこれに気が着いて慌てて車に飛び乗りことなきをえたが、 車を止めるときはハンドブレーキをするべきだと思い知らされた。

湖畔ぞいに道を進もうとした時、旗を持った人が近づいて来て、

“これから先は工事中でとても危険だから行かないほうが良い。”と云うのである。道は行くか戻るかの二つしかなかった。私達は50数マイルを無駄にしてまたグローブへ引き返した。もとの交差点に来た時丁度お昼の時刻になったので、マイアミの郊外と思われる所で車を止めて、シュロの葉をふいたロードサイドテーブルに食べ物を出してお昼にした。

気温は高かったが、日陰を吹き抜ける風は涼しかった。私達は写真を撮ると猛スピードでフェニックスへの道を飛ばした。フェニックスに近づくに従って南国的な並木が目立ち始め都会らしく成って行った。フェニックスにはいる前に私は砂漠植物園を見学した。入園料はただだったが、炎天下に駐車している車の中で待っている夫や子供達の事を思うとゆっくりできずさっと歩き回っただけで残念だった。4時過ぎに市の北部の公園に行き、子供達を水辺で遊ばせ、食事をしたりして、暗くなってからまた西へ向かった。

9月19日、ユマの砂漠を越えてカリフォルニアに入った。

この日は砂漠の中の一本道を私に運転させて、夫はタバコをすぱすぱ吸ってばかりいた。そして“もっと速く走れないのか。”とか“そんなにふらついていては危なくてまかせられない。”と文句ばかり云うのだった。植物が姿を消し、のしかかるような砂丘が続いているところを暫く走った。砂丘の中を道は登ったり下ったり緩やかな勾配で続いている。風でアスファルトが埋もれて消えてしまわないのが不思議なくらいだった。

ユマで私達はもう一度コロラド川を渡った。道はこの辺りからメキシコに隣接したところを走るようになる。ビザがあればメキシコにも入れるのにと思った。午後2時頃から西海岸に至る最後の山越えにかかった。最初にさしかかった山の上に、開拓者達が自分達の通って来た道を振り返って見たと云われる見返りの塔がある。私達もこれまで走って来た砂漠を一望の下に見返すことができたが、砂塵のかなたに広がる大陸が如何に果てしなく感ぜられたことか。

道はそこを過ぎてからもとてつもなく暑く乾いた所が続き子供達の乾いた口を何とか満足させるのに苦労した。山の向こうはサンディエゴと思うのにいくつの山をこんな思いで越えたか分からない。

しかし遂に車は久しく見かけなかったマルチレーンのディヴァイデッドHWに流れ込んだ。折り悪しく夕方のラッシュアワーに入って車の出入りが急にせわしくなり、インターチェンジもややこしかったけれど、どうにか切り抜けてラホイアの先輩宅にたどり着いた時はほっとした。どことなく磯の香がしてこれもかすかに聞こえて来る波の音が心地よかった。

“君達あまり遅いから途中でまた事故でも起こしたのかと思ったよ。”と云って、本田氏は私達を迎えてくれた。その晩の日本料理ほど美味しいものはなかった。

9月20日、夫は本田さんとカリフォルニア大学サンディエゴ分校に出かけて行った。ここには重水素の発見でノーベル賞をもらい、同位体地球化学の基礎を築いたユーリー教授がいて、そこに留学していた梅本春次氏がいた。梅本さんは“近くのスクリップス海洋研究所に堀部さんがいるから行ってみましょう。”と云って案内してくれたそうである。この梅本さんとの接触が後に三朝へ行くきっかけとなった。この日私と子供達は大方本田家でお世話になり、洗濯をしたり、車の中の掃除などして過ごした。この一日が大変私と子供達の休養になったことは云うまでもない。子供達は本田さんのお子さんエリカちゃんと庭でよく遊びそして一緒に食事をしてよく食べた。本田夫人が云われるのに、

“私もエリカが妊娠4ヶ月の時に車で大陸横断して来たのだけれど、どうって事なかったの。お腹の子が丈夫ならどうしても大丈夫なのよ。”

“どうしてエリカちゃんってお名前になさったのですか?”

“アメリカで生まれたからアムを取ってエリカにしたの。”家の子供達と同じような年ごろで、活発なお嬢さんだった。

9月21日、朝食後すぐに、本田夫人の心付くしのお弁当を頂いてサンディエゴの動物園に行った。

ニューヨークのブロンクス動物園も随分大きかったが、この動物園は同時に植物園でもあるかの様に多種多様の植物を集めてあり、動物の種類も多く、かつ見やすく工夫されているので感心した。園内を一巡するバスに乗ったり、芸をするあしか(Sea lion)に興じたり、放し飼いの孔雀にポプコーンを上げたりして一日中思う存分楽しんだ。ここで始めて長い間持ち歩いた乳母車が役に立った。

この日はサンディエゴからロスアンゼルス近郊のパサディナまで走って、また別の先輩立本さん宅に泊めて頂いた。夜遅く着いたのにもかかわらずご馳走までして下さりありがたかった。

9月22日、午前中夫は立本さんとカリフォルニア工科大学へ出かけてしまったので、また私は立本さん宅で洗濯と車の掃除をして時間をつぶさなければならなかった。午後はロスアンゼルスの市内観光をして回り、

同時にカナダ生まれの淳の日本へのビザを取る為に日本領事館を訪れたりした。(淳は日本の戸籍にも入れて貰ってあったが、日本に入れないと困るので念の為カナダのパスポートを作っておいた。)そしてこの日も立本さん宅に泊めて頂いた。

9月23日、子供達をディズニーランドへ連れて行った。広い駐車場がありその先に入り口があった。早速乳母車が役にたった。先ず汽車に乗って一周したが色々面白い場面が出てきて大人の私達にも楽しい所だった。

メインストリートのレストラン、カーネーションで音楽隊の行進を見ながら昼食をとり、未来の国、おとぎの国、開拓の国、冒険の国を次々と回って、面白い乗り物に沢山乗った。淳は終わり頃になると疲れ果てて眠ってしまったが、乳母車のお陰で助かった。5時半頃やっと一回りし終わり、ミッキーの風船を買ってここを去った。とても楽しい一日だった。この晩はロスアンゼルスの日本人街へ行き、別の知人を尋ねて行ったら、日本料理店だったので夕食をご馳走になった。

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