4 イエローストーンへの道

9月7日、コインランドリーで洗濯をした後、更に西へ走った。途中ミッチェルと云う街で色とりどりのコーンで飾られた珍しい建物を見た。この辺りはアメリカでも有数のコーン生産地である。この建物はコーンパレスと云って、1921年からずっと毎年壁画を新しくしてこの街の名物にしていると云う。

朝は涼しかったのに、ミズーリ川を越えると気温は一気に38度にまで上がった。ミズーリを境に東側は緑が豊富なのに西側は全く殺伐として、植物群まで違っていた。この様相はバッドランドに近づくに従ってひどくなって行った。丈の低い葉が少ない植物がボールの様に丸くなって黄色っぽい山肌についている。私達は氷を口に入れて逃げるように西へ走り続けた。

幸い子供達はランチの後昼寝してくれたので助かった。道は少しずつ登り坂になっていたがホルクスワーゲンはよくこれに耐え、時速70マイルを保つ事が出来た。空冷式エンジンがよくこの暑さと重さに耐えてくれたと感心した。

セントラルタイムの4時半に時間変更線を通って、時計をマウンテンタイムの3時30分に直した。そして一時間半後にバッドランド国立天然記念地域に着いた。インデアンはこの地をマコ(土地)シカ(悪い)と呼んでいたそうだが、想像以上のすごい所だった。一口に云えば延々と続く広大な荒れ地だが、不気味に浸蝕され、黄土色と灰白色にまだらに染色された岩肌は言語に絶する驚異を覚えさせた。ここが2500万年〜4000万年前は湿原地帯で恐竜や現存動物の祖先の温床地であったとはとても考えられない。サウスダコタの南部一円を占めていたこの地獄谷も年々様子を変えて今はごく一部を残すのみという。黄色い砂煙が舞い上がっている中に鮮やかなオレンジ色の花が揺れていた。私達がここを去る時、太陽が丁度一つの峰の向こうに沈もうとしていたが、それは黄色い日没だった。この日は302マイル走っただけで、西部劇に出てくるような小さな町に泊まった。ここを逃すと55マイルは泊まる所が無いと案内書に書いてあったから。

9月8日ブラックヒルの山麓を迂回してあこがれのワイオミングに入った。ラピッドシティーの鉱山学校、19世紀のゴールドタウン、マウントラシュモアに立ち寄った。山岳地帯を抜けた辺りで野生のバッファローの群れを見た。そしてまた野生の馬が数頭近づいて来て自動車の中に首を突込んで餌をねだったのには驚いた。夕方近くまた殺伐とした不毛の地に踏み込んでいた私達は、埃っぽい道端に車を止めて、途中汲んできたウオーターバッグの水をはたいてご飯を炊き、アイスボックスの氷をとかした水でネギを洗ってスキヤキを作って食べた。幌馬車の時代に戻ったような気持ちだった。ジレットに着いた時、デビルスタワーを見逃した事に気が着いたが、引き返すにはもう時間がなかった。

9月9日、シェリダンを通ってロッキーにいどむ日が来た。オートモビルクラブから別のルートとして示された方をマイル数が少ないのを理由に選んだのだったが、大変な間違いをしたと気がついた時はもう遅かった。

ビッグホーン(海抜4319)を越える道は昨夜からの雨で濡れていた上、断崖を回って続いている道は工事中でとても危険な状態だった。そこは一方通行になってて、反対側から来る車を待っていると

“ついこの間ブレーキの利かなくなったトラックがここで崖下に落ちたけれど、運転手は落ちる前に飛び降りて助かった。”と云う話しが聞こえた。

30分程して引き返して来た誘導車に導かれて、眼下に三千丈にも及ぶかと思われる谷底が口をあけて待っている所を車をゆさぶりながら進むのはちょっと怖かった。幸い傾斜はそれほど急ではなかったので、馬力のないホルクスワーゲンでも登って行く事は出来た。ただ、後から追い付いて来る車の数がどんどん増えて、みんないらいらした様子でブーブー、ホーンを鳴らしていたが、いかんせんそれ以上のスピードは出ず、沢山の車を従えてのろのろと坂を登らざるを得なかった。やっと頂上近くの追い越し禁止区域を脱した時、どの車もさもいまいましげに私達の車にアクセルレイトした排気ガスをかけて遥かなスロープの彼方へ消えて行った。

頂上は一面の草原で、北の方に雪を頂いた岩山が見えて馬や牛が遊んでいた。加奈子が“おしっこ。”と騒ぎだしたのでわき道にそれて外に出たが、外は肌を刺すような寒さで、パンツをとるのもかわいそうなくらいだった。暫く行くと風景が乾きだし、赤土の上に長い影を落として立つブーツ(岩の塔)がそこかしこに見える所に出た。更に行くと岩面が露出して深い亀裂が続く恐ろしい所へ出た。皆が車を止めてその深い渓谷の底をのぞいていた。夫もいそいそと出かけて行ったが、私は夫が帰って来る迄気が気でなく落ち着かなかった。絶壁の間を行く事暫し、やがて西に広々とした緑地帯を望む所へ出る。遥かに陽をあびて映えている断崖のシャープな美しさ、雄大さに見とれていると、“あそこに大きな断層があるらしいな。”と夫が云う。私には良く分からなかったけれど、自然がもたらした景観には感服せざるを得なかった。カットの隙間を縫って谷間に続く急カーブ、急勾配の道を車は一気に走り抜けた。ひやひやさせられたが、スリル満杯で感激の一瞬でもあった。

私達はシェルからイエローストンへの道を急いで、夕方やっとコディーに着いた。コディーはウイリアム・コディー(バッファロー・ビル)に因んで命名された町で、バッファロー・ビルの馬上の雄姿を銅像にして飾ってあるいかにも西部らしい町だった。コディーからイエローストンの東門までは約50マイルだが、夫は“もう少し先まで行こう。”といい更に西へ進むことになった。

ところが暗くなるにつれて道はだんだん険しくなり、はては霧までが出てきた。見ると道の両側は湖か川か、水の音がしてかすかな反射が返って来る。辺りは真っ暗で今にも水の中に吸い込まれるのではないかと云う錯覚が身をこわばらせた。

“泊まる所はなさそうよ。”

“もう少し走ってみよう。コディーから15マイルにモーテルがあると看板に書いてあったからあと5マイルだ。”

程なく前方にモーテルらしい明りが見えて来た。夫が交渉に行ったが、

“暖房装置がないから子供連れは無理だと云っていたよ。もう少し先に暖房着きのロッジがあるそうだけれど、どうする?”

マウントビューロッジに着いたのは8時をだいぶまわった頃だった。丸太作りで広い暖炉にはたき火が赤々と燃えていた。エルク(大鹿)の首を飾り、熊の毛皮をソファに敷いた広いロビーがいかにも西部らしくて印象に残った。宿の主人と奥さんがまたいかにも西部らしく、暖かいスープとハム、グリーンサラダ、マッシュポテト、グリーンピース、ロールパンの夕食も気にいった。

ロッジの朝がまた素晴しい。霧が晴れるに従って前に山が迫っているのが見えてきた。子供達は子羊にミルクを飲ませるのが気に入って見とれていたら、ミルク瓶を渡されて感激していた。一緒にもってやったが、吸いっぷりの力強さには驚いた。

 

目次

2、3章

5章