2 ニューヨーク空港からミネソタへ

9月4日、中井さん一家がニューヨークのアイデルワイルド国際空港まで送ってくれた。切符には午後三時発とあったが、いつか中井さんがデンバーまで飛んだ時、ラグアディア発だったのが急遽アイデルワイルド発になったという例もあったのでゆとりをもって朝早くニューヘブンを出た。ホワイトストンブリッジにさしかかる辺りから車が混雑しはじめ、国際空港に向かうエキスプレスウエイに入ると右も左も車の流れが絶えなくなった。空港の門を入った時、いよいよかと胸が高なるのを覚えた。

“さすがに広くて立派ですね。”

“ここへ来ると色々な飛行機が見られるので楽しいですよ。”と中井さんが云った。色々な航空会社のエアーターミナルが点在している。いくつかのインフォメーションアーチを潜り、やがて車はノースウエストのターミナルビルに着いた。時刻はまだ12時半だった。

“荷物を出したら食事をとりに行きましょうか。”と中井夫人が提案した。私は肉が苦手でトマトとレタスのサンドイッチをかろうじて口に押し込みジュースで流し込んだ。子供達にはチキンサンドイッチを食べさせた。

“何か旅先で困った事が起きたら電報で知らせて下さい。出来る事なら何でもしますから。”と中井さんが云ってくれた。中井ご夫妻にはニューヘブンで大変お世話になったものだったが、遂に最後までお世話をかけっぱなしになってしまった。この日、ニューヨークは高く晴れて暑かった。時間は十分あったのに、いざ搭乗となるとさすがに慌ただしく、挨拶もそこそこに荷物と子供を抱えてやっと右側の窓際の席に落ち着いた時、一度に緊張がとれて急にじわじわと汗が流れ出した。

“マミー、みよちゃんはどこ?”子供達は今まで一緒だった中井美世ちゃんの事をさかんに気にしていた。乗客は50人位か、皆タフないでたちで明るい顔をしていた。飛行機は思ったより早くエンジンの始動を始め、するすると滑走路へ回ると出力を全開にして離陸した。そして右に大きく旋回しながら高度を上げて行った。中井さん達を残した空港は見えなかったが、地図と全く同じのニューヨーク、マンハッタンとその周辺が、ちらっと私の目に飛び込んで去った。セントラルパークの緑の区画が美しかった。

飛行機はデトロイトに向かって飛んでいた。はるか下に森林が続きまばらな家屋が見え隠れしている。子供達はエイムズ夫人が下さった心ずくしの手作りのバッグを開いて、数々の玩具で夢中になっていた。ふと気が着くとバシッ、バシッ、と機体に何かぶっつかっている様な音がする。窓の外は真っ白でそれがすごい速さで流れていた。私は思わず掲示板を見た。シートベルト着用の赤いサインが出ていた。機体が何かの気流に押されてふわりと持ち上げられては急に下がり、その時に機体に加わる力がバシッと云う音を出しているらしかった。水面をたたくような振動が伝わって、不気味だった。幸い暫くすると音がしなくなり、お菓子とお茶のサービスで気分が一転した。途中デトロイトとミルウオーキーに着陸したが穏やかな飛行が続いて、午後7時半予定通りにミネアポリス空港に到着した。イーストタイムからセントラルタイムに移動した為、一時間のずれを生じ、実はニューヨークを出てから5時間半過ぎていた。夕暮れが迫っていたが、大小22の湖をめぐらし、ミシシッピー川が市内を流れるミネアポアリスの景観は空からならではのものであった。

3 ミネアポリスからバッドランドへ

ミネアポリス空港には夫がフォルクスワーゲンで迎えに来ていた。久しぶりに見るフォルクスワーゲンは埃まみれで、タイヤは泥まみれの惨めなものだった。陽の落ちたミネアポリスはとても寒かったので、ごちゃまぜの荷物を掻き分けて子供を入れると私は大急ぎで車に飛び込んだ。

“お前達が乗ると車がぐんと重くなるよ。これでロッキー山脈が越えられるかが問題だね。イエローストン周辺はものすごい雪だってニュースで云っていたよ。HW6は通行禁止だってさ。”

“寒い筈ね。”

“とにかく何処かで食事をとろう。俺は今朝11時に朝ご飯を食べたきりなんだ。”私はあまり食欲はなかったが、久しぶりの夫につきあう事にした。私達は街はずれに一軒の中国料理店を見つけて入った。経験上中国料理が美味しくて安いのを知っていたからだ。

その晩はミネソタ大学に程近いゴーファー(Gopher)キャンパスと云うモーテルに泊まった。名前の示す通り半分は地下で、窓から外を覗くと芝生のスクリーン越しに道を行く車のタイヤばかりが目に入った。ダブルベッド二つ、浴槽付きで12ドルは少し高い。しかしバスルームの電気を付けて戸を閉めると換気扇が回り出すのは気に入った。

“コーヒーは只で貰えるんだよ。持って来て上げようか。”いつもなら私に行かせるのにこの日は特別だった。この夜はずっと体が宙に浮いているような妙な気持ちだった。

翌5日は朝から雨が降っていた。近くのマーケットでパン、ミルク、ジュース等を買って、簡単な朝食を宿で済ませた。夫はミネソタ大学に質量分析界の長老ニーア博士を訪問する予定だった。

“お前達も一緒に大学まで来て、大学の自然博物館(Museum of Natural History)を見物してはどうだろう。”と云うので、皆で9時頃出かけた。エール大学は門がなく街の通りが構内に続いていたが、ここには黒々と覆いかぶさる樹の中にいかめしい門があって、門番が通行する車を見張っていた。

三時頃になってやっと夫が帰って来た。予定していた観光は取り止め、緑の並木がさわやかなコモブルバードを抜けてセントポールへ出た。小高いスロープの上にとても均整のとれた白亜の殿堂がそびえていた。これこそ25種類以上の岩石を使って、特にドームはジョージアから採取された白い大理石を用いたState Capitalだった。先を急ぐ私達はゆっくり見る暇がなく、直ぐにインディアン・マウンズ・パークへ向かった。ミシシッピー川を遥かに見下ろした岡の上にいにしえのスー族の酋長達が眠っている。白人の子供がその円墳の真上で自動車を走らせて遊んでいた。私達も子供達を下ろして暫くここで遊ばせた。真向かいに小さな飛行場があり、ミシシッピー川を行きかう船を眺めるのも楽しかった。次にミネハハ公園とそれに連なる一連の湖沼地帯を見るつもりだったが、知らない土地ですっかり迷い込んでしまい、ミシシッピーに架けられた長い橋を行ったり来たりして貴重な時間を費やしてしまった。辺りは暗くなり子供達は居眠りを始めていた。

“おい、何処かにいい中国料理店はないか?”夫は空腹に弱い。うす暗い車の中で私は必死に案内書の細かい字をたどっていた。そこで見つけたのが‘日本料理不二屋’の名前だった。少々高いかもと覚悟したが、地図を頼りにその店を見つけて入った。疲れきった私達にはてんぷらと味噌汁の日本料理は心の安らぎとなった。

9月6日、ショッピングセンターで食料や必要品を買い込むと西へ向かってHW14を急いだ。道は良く車の調子も良かったが、狭い所にじっとしているのはかなりのストレスだった。子供達は始めのうちは喜んでいたけれど、一時間もすると耐えられなくなり、二時間後には車の中は玩具でごった返し、三時間後には毛布を持って指をしゃぶり出す始末だった。時速70マイルで走っている中で私は前後の座席を行き来して、ミルクを調合したり、おむつを替えたりおやつをやったり、地図を見たり大変だった。途中、セントピーターとパイプストンの公園に寄って自炊した。ニューヨークで買った味噌、醤油を持っていてあちこちで自炊したものだ。この日は324マイル(518Km)走ってスーフォールスでTourist homeを見つけて泊まった。モーテルに泊まるより安く、夫は何度か利用したそうだ。

 

目次

1章

4章