アメリカ大陸横断の記録

(文:定子30才(1964年);写真:均(旅行当時))

1 さようならニューヘブン

 

 三年間のカナダ、アメリカ滞在を経て帰国も間近かに迫った1961年7月、私は自分の体の異常に気付いた。それは全く予期していなかった事で晴天の霹靂であった。

今度出来たらお前は子供達と飛行機で帰ってもらうよ。”とかねてより夫は云っていた。妊娠が事実となると初期の不安定な時の移動は慎重にせねばならない。大分前からオートモビルクラブに足を運んで大陸横断を計画していたのに、私だけ何処も見ないで帰るのは何としても残念だった。夫のほうも行く先々の大学や研究所の関係ある教授連にアポイントメントをとって詳細のプランを立てていたので多いに困惑したようだ。当初の予定で

はニューヘブンからニューヨーク、ワシントン、メンフィスと南下した後シカゴ、ミネアポリスへ北上、そこから西へ走ってロッキー山脈を越えてイエローストーン国立公園から南下してアリゾナまで行き、砂漠をこえてラホイア、ロスアンゼルスに行き、もう一度北上サンフランシスコへ達する約一万マイルに及ぶものだった。世界地図を広げて日本と比べてみたときそれが如何に膨大な計画だったか、この時程深刻に思えた事はなかった。掛かり付けの医者も、エール大学医学部に留学中の尾島さんも、その他誰もが、

“無理しないほうがいいでしょう。”と云った。

このときを逃したら、もうアメリカを見るチャンスは無いだろう。しかし、途中で流産したら大変だ。迷いに迷ったあげく夫の出した妥協案はテネシー行きを取り止めてあとは日数を当初通りにしてゆっくり行ったらいいのではないかというものだった。所が友達がまだ無理だと云い、好意ある進言によって更に変更をすることになった。

“大学回りが目的のラモント、ワシントン、ピッツバーグ、コロンバス、シカゴ、ミネアポリスは酒井君だけで回って、奥さんは観光旅行に入る辺りまで飛行機で飛んで落ち合うようにしたらどうだろうか。その間の宿は家で引き受けるからそうしなさい。”と云ってくれたのは北大から来ておられた西沢敏さんだった。夫も私もありがたくこの案を受けることにした。早速トラベルエイジェンシーに行き私達の飛行機の予約をとった。

軒並みに大木の多いニューヘブンの街も、この頃は夏の盛りでとても暑い日が続いていたが、庭の芝生を越えて干された洗濯物がゆるやかにゆらぎ、ハンモックの上の家主の奥さんは雑誌を見ながら居眠りをはじめる、何もかも昨日と同じの平穏な日だった。8月25日、青いホルクスワーゲンの愛車に次から次へ荷物が詰め込まれた。大きなトランク、箱いっぱいの玩具、携帯冷蔵庫、キャンプ用コンロ、毛布に枕、データの詰まったケース、地質資料採集用具、その他諸々の旅行用品。最後にカートップを取り付けて折り畳んだキャリッジ(乳母車)を紐で縛り着けた。外から見ると座席は殆ど荷物で埋められていて、私達は何処に入れるのかと首をかしげてしまった。そして遂に出発の時がやってきた。午前9時50分、夫は子供を交互に抱き上げキスをし、私には最後の忠告を残して走り去った。後に何とも云えない心細さが残った。

“ダディーは何処へ行ったの?”子供達は大切な縫いぐるみを取られて不服げに私を見上げた。

夫が出発した後の私は忙しかった。9月1日までに部屋を整えて、私達自身の旅支度をせねばならない。二つの急な階段に続くドアーに鍵を下ろし、窓の網戸に子供が寄りかからないように注意しながら仕事をした。そうこうしている間にも悪阻はひどくなるばかりで、時に薬を飲まないと仕事が出来ない程であった。予定では8月末までウインスロープに滞在するつもりだったが、さすがに四日目になると寂しくなって、8月28日に西沢さん宅へ押しかけてしまった。西沢ご夫妻はご自分達のベッドをあけて私達を迎えて下さった。食事も全部用意して下さり、悪阻のひどい私にはこれがなによりありがたかった。日中子供達を奥さんにお願いして、やり残したかたずけと掃除を心行くまですることが出来たのは誠に西沢さんのおかげと感謝している。白い麻のカーテン、ケープコッドの海を描いた油絵のあるベッドルーム、ピアノと皮張りの机、エンゼルフィシュの水槽があるリビングルーム、家具の可愛い子供用ベッドルーム、使いやすいダイニングキッチン、そして小さいけれどよく整理されたバスルーム、皆ぴかぴかにして気持ち良かった。熱帯魚に最後の餌を上げて、部屋の植物に水をかけて、私は家主で階下に住んでいた奥さんに鍵を預けた。

“あなた達は本当に良いネイバーでした。”と下の奥さんは云ってくれた。世間一般のお世辞とは分かっていたが嬉しかった。

8月31日、西沢夫人のこころざしでおしるこパーティーが開かれた。久しぶりに足を延ばして友達と談笑していた時、シカゴで着陸寸前の旅客機が原因不明の空中爆発をして乗客乗員全員が死亡したニュースをラジオが報じた。この当時、世界各地で大きな飛行機事故が続出していた。ニューヨークでも旅客機同士が空中衝突して破片がロングアイランドに落ちた事故があった。トランジスターラジオを聞いていた客がいて、地上からの電波を狂わせたのではないかと想像された。ニューヨークには空港が三つあって、飛行機の出入りも混雑していた。私達はアイデルワイルド国際空港から飛ぶ予定だったので、私の気持ちは一瞬ゆらいだ。

“大丈夫よ。”

“事故の後はどこでも気をつけるからかえって安心よ。”

“そんなことは考えないことね。”とくちぐちに慰めてくれた。

9月1日荷物を最小限に減らして残りを日本へ郵送した。そしてこの日、西沢さん宅から同じ研究室の中井さん宅へ引っ越した。西沢夫人も身重だったので、無理をさせてはいけないと思ったからである。勿論中井夫人の親切な一言“家へも泊めてあげるわよ。”があったからではあるが。

9月3日、夫からオハイオの絵葉書でシカゴ投函の便りが届いた。翌日出発だったので、無事に進行している事が分かって一安心した。

 

目次

2、3章

4章