10 サンフランシスコへ、そして帰国(付あとがき)

9月27日、丘陵地帯を貫いて走る素晴しいディバイデッドHWを私達の車は流れる様に終着点サンフランシスコへむかった。この日も空は高く晴れて私達を祝福しているかのようだった。

オークランドを通りベイブリッジを渡って、白く輝く建物の多いサンフランシスコに入るとせわしげに風を巻いて疾走する大型トラックが目立ち始めめまぐるしかった。大都市ではYMCAを利用するのが安上がりなので私達はそこを目指して走ったけれど、なかなかたどり着けず、同じ所を何度もぐるぐる廻ってやっとダウンタウンの一角に見つける事ができた。しかし、次にパークする所が無くて困った。

宿は決まったものの明28日迄に予約した船に乗せる荷物をまとめて突堤まで運ぶ事になっていたので、場所と時間を確かめる為、プレジデントラインの事務所を探すのにまた時間をつぶした。

行ってみると先にロスアンゼルスが港湾ストライキで入港できなくなった為サンフランシスコから直航するとニューヘブンへ通達があったのに、今度はサンフランシスコの港湾ストライキで当分出航の見込みが無いらしい事が分かって滞在費が残り少なくなっていた私達は慌てた。とりあえずストライキ解除の場合を考えて荷物はまとめて持っていく必要があった。私達は適当なトランクを買うと、ゴールデンゲイトパークへ行き、車のトランクを開いて荷物の整理をした。道行く人が不思議そうに眺めていた。

9月28日、プレジデントラインの突堤には私達が乗る予定だったクリーブランド号が錨を下ろして停泊していた。私達は荷物を倉庫の一角に下ろして、30日までにストライキが解除されるよう願った。

この晩私達はバークレイへ行ってカリフォルニアモーテルに泊まった。

9月29日、夫はカリフォルニア大学で午後2時過ぎまで話しをしていたので私達は車の中でビスケットや果物をかじりながら長い時間を待っていなければならなかった。大学は広い芝生に覆われてとても明るい印象を受けたけれど、駐車場が限定されているようで、ガードマンに注意されたりしていやな思いをした。3時頃サンフランシスコに戻った私達はグレイハウンドの観光バスで市内見学をしてまわった。

9月30日、ストライキは解除の見込みが無かったので、飛行機に切り替えて帰国することにして、旅行案内所に近日中の空席を探してもらった。

幸い翌1日のパンアメリカンエアーラインに二つの空席がある事を知らされたのだった。

この日、ユニオンスクエア周辺のデパートで子供達の洋服と私の靴を買って、夜遅く長い間借りていた車を返して、タクシーで空港近くのインターナショナル・インまで行き、アメリカ最後の夜をそこで過ごした。走行距離約6000マイル、費用約1500ドルの大旅行はこうして終わった。

夜中に日本の夫の両親に国際電話をかけて、明2日に羽田に着くからと知らせた時の感激は忘れる事ができない。

舅の声の明瞭な音色は未だに耳の底に残っているような気がする。

それから六か月後、私は東京武蔵野の日赤分院で次男健を生んだ。3620グラムの正常児だった。この旅行記を書いている今、健は当時の私の苦労も知らないで、天下に我一人と云うような顔をして毎日元気に走り廻っている。 胎教の影響か、大の冒険好きで、海へも飛び込むし、ベッドからも何度も飛び降り、一人で夫の研究室まで歩いて行ってしまうので見張りが大変だ。

あとがき:この旅行記ははじめに書いたように1961年エール大学からの帰途実行したアメリカ横断自動車旅行の記録で、私が3年後の1964年頃、記憶が薄れぬ内にと思って書きつづったものです。

しかしその後の子育てにまぎれて、原稿はいつの間にか眼に触れぬところに押し込まれ、消えてしまいました。子供達も独立し、夫が定年となり時間が出来ると、私も自分史を書いてみようと思い立ちました。この貴重な原稿を家中の荷物を何度もひっくり返して探した結果思いがけない所からやっと見つけたときは天にも昇る気持ちでした。

原稿を読み返してみると、若気の至りとは正にこの事だと思うような大変な自動車旅行をしたのだなと驚くばかりです。沢山の人たちにご迷惑をお掛けしたことを再発見しました。ニューヘブンでの中井さん、西沢さんご夫妻、カリフォルニアでの本田さん、立本さんご夫妻に感謝の気持ちでいっぱいです。

私のおなかにいた健はもちろんのこと、加奈子も淳もこの時のことは何も覚えていません。彼らにとっては苦しみの連続でしたから、これは夫や私にはむしろ救いです。しかし彼らはいずれもドライブ好きで、すでに何回か小さな子供達をつれてアメリカ大陸を走り回っています。”親の因果が子に報い”とはこの事でしょうか。

(1998/12/1、定子)

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