若侍は八木の宿場を出ると、東の甲州街道ではなく、北へ向かう細い道に入りました。そのあとを、ちょこちょこと少年が追いかけていきます。
「師匠、まだ怒ってはりまんのか」
「……」
「師匠、そら殺生やで。さっきから謝ってるやないですかいな」
「……」
「なあ師匠、わいはもうくたくたや。さっきの宿に戻って、休もやないですか」
「……」
「師匠、もう暗くなってきましたで。夜道は物騒やさかいに」
若侍はそこではじめて振り向き、にこりと微笑みました。
「もうちょっとの辛抱だ。ここから一里ほど行ったら、戸吹という村がある。そこの名主屋敷に泊めてもらおう」
その翌朝。
若侍は、名主屋敷の隣にある道場で、ひとりの男と向き合っておりました。
男は五十ほどの年齢でしょうか。がっしりとした体格で、白くなりかかった髭をたくわえています。
「私がこの道場主、天然理心流師範近藤内蔵之助。よろしくお見知りおきを」
「私は楠蓮之進と申します。よろしくご指導お願いします」
若侍がそう名乗ると、ふたりは道場の両端に分かれて木刀を構えました。
そのまわりには、近藤の弟子や近在の百姓などが並んで見物しております。楠のつれている少年も、そこにおります。
近藤は中段、楠は下段の構え。
体格は近藤のほうがひとまわり上です。背は二寸ほど高く、肩幅ときたら倍もあろうかという違い。歳はとっても、長年の修業の積み重ねを思わせる、どっしりとした重厚な姿。対する楠は、小柄でひょろっとして、いかにも頼りなげです。
(やはり、近藤先生の勝ちは間違いないな)
門人も野次馬も、そこにいたほぼ全員が、そう考えていたでしょう。ただ少年ひとりは、にやにやと笑っています。