司馬遼太郎の人と文学

 ものすごく偉そうなタイトルで申し訳ありません。どうせ話はグダグダになっちゃうだろうから、せめてタイトルだけでもいかめしくしようと思いまして。

 司馬遼太郎の小説の特色といえば、やはり「テーマ小説」ということになるのではないかと思います。
 テーマ小説といえば、菊池寛の小説です。たとえば有名な「父帰る」では、ハンキンの「蕩児の帰宅」という小説を読んで、その父と子をひっくり返したらどうだろうか、と思いついた、と自分で語っています。そのほうが「罪と赦し」というテーマが際立つだろうから、ということですね。テーマ小説というのは、まずこのようなテーマがあって、そのテーマを展開するために登場人物やストーリーを配する、というやりかたです。批判する人からは「こしらえごとだ」「登場人物が操り人形のようだ」と悪口を言われましたが、話がわかりやすいので一般読者からは喜ばれました。
 歴史小説となると、史実の人物が主人公ですから、テーマに沿って勝手に行動させるわけにはいかない。というわけで演繹法ではなく、史実からテーマを抽出するという帰納法的なやりかたでいきます。たとえば「忠直卿行状記」では、乱行のため領地没収となった越前の徳川忠直の行動を書いた文献から、「臣下が大名を人間として扱わないから、大名も人間らしい行動ができない」というテーマを抽出しています。

 司馬遼太郎も同じやり方をしています。本人自身が語っているものでは、「国盗り物語」は戦国時代の革命家の系譜、つまり中世という旧体制のいろいろなしがらみを破って近世を造りあげる人物の系譜ですね。斉藤道三という氏素性のない人物がまず登場して、この人は学問や才芸にもすぐれていたわけですが、これが楽市楽座だとか才能ある人物の抜擢だとか、体制をぶちこわす革命的な政策をとります。本当にそうだったかどうかはテーマ小説では問題になりません。小説の主人公を歴史上の人物そのままだと誤解してはいけません。司馬遼太郎本人も「燃えよ剣」の土方歳三について「あれは、僕のつくった土方だよ」と語っているのですから。今では斉藤道三の事績は、親子二代にわたるものだというのが主流なんですが、それもテーマ小説では関係ありません。ともかく、この道三にはじまる革命の系譜が、明智光秀と織田信長に受け継がれるわけです。光秀は道三の学問才芸などの中世的な教養を受け継ぎ、信長は革命的政策のほうを受け継ぎます。最後には「革命が我が子を食った」ということで、信長と光秀が相討ちのような形で死んでいくわけです。この革命の系譜をさらに「新史太閤記」の豊臣秀吉がひきつぎ、「関ヶ原」「豊臣家の人々」「城塞」で豊臣家が滅亡するとともに革命は終わる。「覇王の家」の徳川家康が始めた徳川幕府による、新しい体制ができるわけです。
 また「世に棲む日々」「花神」は、明治維新の革命家の系譜をテーマにしています。まず思想家が現れ、新しい時代を予言します。これが吉田松陰ですね。思想家は純粋ですから、たいがい死にます。次に革命家が現れ、思想家の思想を実行に移します。これが高杉晋作ですね。革命は危険な行為ですから、これも天寿をまっとうしません。最後に実務家が現れ、革命の成果を体制化します。これが村田蔵六や伊藤博文、山県有朋、井上馨などですね。実務家は危ないことはしませんから、だいたい天寿を全うします。とはいっても村田蔵六は思想家的なところや革命家的なところがありますから殺されてしまったわけですが。司馬遼太郎はそう書いていませんが、「歳月」「翔ぶが如く」もこのテーマの延長線上にあります。「歳月」「翔ぶが如く」はどちらも、体制化された革命に不満をもち二次革命を求める側と、それを阻止しようとするかつての革命家との抗争をテーマにしています。

 それ以外でも司馬遼太郎の小説は、初期のいくつかを除けばテーマがあります。「箱根の坂」では政治がテーマ。政治といってもいまの自民党政治家や、応仁の乱ごろの守護大名が世間をなぶっているような策略や小手先芸ではなく、民衆のための政治、いわゆる経世済民ですね。これを求めて北条早雲は八十八年の生涯を送ったわけです。本当に早雲がそんな人物だったかは、テーマ小説としてはどうでもいいことです。
 「胡蝶の夢」では、テーマが途中で移行している観があります。前半の、松本良順だとか伊之助だとかが活躍するところでは「知識を求めるエネルギー」というのがテーマでしたが、関寛斎が主人公となる末尾では「医学がひとを救えるか」というテーマに変化しています。
 「菜の花の沖」もそんな気がします。嘉兵衛が成り上がっていく過程では、江戸時代に幕府や社会から強制された不合理、たとえば身分違いの恋はできないとか甲板のある船は造っちゃいけないとか船には船魂様を入れろだとか下っ端はいじめろとかアイヌは人間じゃないとか、そういうものが、だんだんと合理主義に破れていくのがテーマですね。ところが書いていく途中でどうも、ロシアと日本の関係に興味が移っちゃったみたいですね。ゴロウニンや嘉兵衛が拉致されたあたりでは、そちらがテーマになってしまった。
 「妖怪」はテーマがあったために失敗した例ですね。中世の不合理から近世の合理主義へ、という移行をテーマにした小説なわけですが、このテーマで伝奇小説を書こうとしたので失敗してしまった。伝奇小説は奔放な想像力が必要ですから、テーマなんかむしろ邪魔なわけです。司馬遼太郎は伝奇小説を書くと失敗するわりに、周期的に伝奇小説を書きますね。「大盗禅師」ですとか、「風の武士」ですとか。なんか手塚治虫が周期的に暗くてグロい話を書くのに通じているような気がして、ちょっと興味があります。
 テーマ小説ではないのかな、と思わせるものに、乃木希典を書いた「殉死」、空海を書いた「空海の風景」がありますが、これらは文献を読みながらテーマを抽出していく作業をそのまま書いたものなんです。テーマが現在進行形なんですね。「殉死」では結局最後のほうで「自分を劇中の人物として美化する人物」という、乃木の人物像が決まるとともに、それにつきあわされる人間、自殺の道連れになった妻の静子だとか尻拭いをやらされる児玉源太郎だとか無駄に殺される兵隊だとかの悲劇がテーマになりました。「空海の風景」のほうは、最後までテーマがわからなかったまま終わった感じですね。

 このように司馬遼太郎と菊池寛の間には、テーマ小説という共通点があります。このふたりには、また別の共通点もあります。あまり文学に親しまない一般人に評判がよく、いわゆる文学通の評判が悪いことです。愛読書が司馬遼太郎なんて言うと、悪ズレした文学かぶれなんかに、「司馬遼太郎なんて読んでんの? ダッセー」なんて言われちゃうわけです。キースさんという雑文書きが昔そんなことを書いてましたね。もっと昔は、菊池寛もそうだったらしいです。
 これはなぜでしょうか。

 テーマ小説だからです。
 「司馬遼太郎はエラいひとがエラいことをする話ばかり書いているから、社長さんに人気があるんだ」という批判を佐高信がやっていましたが、これは正しくないですね。司馬遼太郎の小説はテーマ小説だから、社長さんのような、文学通でない一般人に人気があるんです。社長さんはあまり小説を読み慣れてはいないし、忙しいから、複雑な性格の登場人物が複雑な行動をとる小説は読めないんです。司馬遼太郎の小説はまず最初に明快なテーマが提示され、そのテーマに沿って主人公が行動するから、非常にわかりやすい。数ページ飛ばしたってストーリーがわからなくなる心配はない。だから一般人に人気があったんです。
 あまりに明快すぎるものはマニアにはうけない。だから、司馬遼太郎も菊池寛も文学通や批評家にはあまり評判がよくないのです。ふたりとも小説家としては理知的傾向が強く、話を頭でこしらえた感が強い。もっとわけのわからないドロドロしたもの、文章にしにくい整理できない想念、そういうものがないのです。だから文学ではないと言われる。

 佐高信はこれ以外にもいろいろ司馬批判をやっています。そのほとんどはイチャモンに近いものですが、「司馬遼太郎の小説にはエリートしか登場しない」という批判は、ある程度うなずけるものがあります。
 たとえば司馬遼太郎がエッセイでよく書く話に、「日本の悪しき帝国主義は、日露戦争直後の日比谷交番焼き討ち事件にはじまった」というものがあります。日露戦争はアメリカの仲介により終戦したわけですが、賠償金がひじょうに少なかった。これを怒った新聞が扇動的な記事を書き、それに乗った群衆が暴動を起こしました。この事件について司馬遼太郎は、おろかしいこと、醜いことと一刀両断に片付けています。これは正しい態度でしょうか。
 当時、新聞、まして一般民衆は、戦争についてなにも政府から知らされていなかったことを考えなければなりません。軍部は秘密主義をとっていました。ロシアの軍隊が日本よりもはるかに優勢なこと、日本経済はこれ以上の戦争に耐えられないことは、厳重なる秘密として隠されていたのです。新聞や民衆が知らされてきたことは、日本が破竹の勝利を飾っていることだけです。つまり民衆は、正しい判断をくだす材料を、そもそも与えられていなかったのです。きのうまで連戦連勝大勝利と教えられ、きょういきなり不利な条件で講和となれば、そりゃ暴動も起こしますよ。
 そういう政府を作ったのは、司馬遼太郎が絶賛してやまない大久保利通です。有司専制と称して、ひとにぎりの中枢以外にはなにも教えない政策を作ったからです。
 司馬遼太郎は根本的にエリート意識を生涯持ちつづけた人間だと思います。小説に登場する人物も、身分の軽重はあれ、すべて、「目覚めた人」です。戦国を語っても土百姓は出てきません。幕末を語っても「ええじゃないか」を踊る民衆は出てきません。司馬遼太郎は若いころ、学生運動や労働争議を「ああいうのは義和団みたいなもんだ」と吐き捨てるように片付けていたそうです。そういう行動に移らざるをえない人間の哀しみのようなものは、知ることがなく知るつもりもなく死んだ人間だと思います。

 司馬遼太郎の小説手法について、ちょっと見ていきましょう。
 史実の扱い方ということでは、ちょっとお配りしたものに目を通していただけたらと思います。これは私が以前Webページに書いたものなんですが、「燃えよ剣」「新選組血風録」の新選組ものですね、このふたつの小説を中心に、史実と小説の違う点を挙げていったものです。なんで新選組かというと、新選組は若いファンが多いんで、かなり専門的な本でも文庫や新書になっているんですね。単行本も安いものが多い。だから貧乏な私でも買い集められたんです。
 この中にはあとで発見された史料にあったもので、執筆時の司馬遼太郎が知らなかったこともありますが、たいがいは司馬遼太郎ならとうぜん知っているはずのことです。わかっていて史実を無視した、あるいはちょっと曲げたところがあります。小説だから当然のことだといえばそれまでですが、司馬遼太郎は曲げ方がうまいんですね。ほんのちょっと変えるだけで、大きな効果になっている。
 歴史小説の中で見ても、司馬遼太郎はかなり史実に忠実なほうだと思うんです。たとえば史実無視の巨頭として、「梟の城」のときに忍豪作家としてともに騒がれた、山田風太郎がいますね。あれはもう荒唐無稽。同じようなのに「信長殺し、光秀ではない」「上杉謙信は女だった」とかのトンデモな説を書いた八切止夫がいまして、ノンフィクションと銘打ってこれを出したもんだから、歴史家や批評家が集まった対談の中で「あいつ、なんとかしろよ」なんて言われている。南條範夫もわざわざ偽書をこしらえて、そこから物語を語るなど、なかなかなものです。嘘を書くから小説なんですが、司馬遼太郎はほとんど嘘を書かない。その代わり本当のことを書かないことで、同じ効果をあげている作家なわけです。

 主人公が不快な行動をとる史実がある場合、たとえば無実の人を殺したとか、策略を使って他人を陥れたとか、そういう行動が記録に残っていたとします。歴史上の偉人だって完璧超人じゃないから悪事や失敗のひとつやふたつありますし、政治家となると悪事を避けては通れませんから。それをどう取り扱うかということでも、作者によって態度が分かれます。
 まず弁解というか、それは正しい行動なんだ、悪いことじゃないんだ、と言いつくろう場合があります。これは言い訳がうまくいけばいいですが、たいがい強弁になって、むしろ読者に不快感を与える。たとえば今東光の「武蔵坊弁慶」がそうですね。まあ今東光は文学に志しながら坊主になって戦争をやりすごし、戦後に参議院議員になるくらいの悪党ですから、弁慶の悪事を本当に好きだったのかもしれません。また津本陽の「播磨物語」もそうですが、これは宇喜多直家のような悪辣な人物を正当化しようというのが無理です。この人は「南海の竜」でも、徳川吉宗の暗殺や謀略を正当化しようとして失敗しています。また黒岩重吾の「天の川の太陽」もそうですが、大海人皇子のような複雑な性格を持つ政治家は、なまなかな小説家の手に負えるような存在じゃないですね。
 次に悪事を悪事としてそのまま書く。英雄だって人間なんだ、間違いもあるとありのままを書くいきかたがあります。これはうまくいくと人物造型に深みをもたらして名作になるのですが、話が複雑になりすぎてわけがわかんなくなる危険性もある。これで成功しているのは黒岩重吾の「落日の皇子」ですね。蘇我入鹿という人物を乱暴者ながら智恵深いが、もっと知恵の回る中臣鎌足にしてやられる、というふうに書いて成功しています。
 で、司馬遼太郎はどうかというと、このどちらにも当てはまらない、第三のやりかたです。すなわち、書かない、という方法です。テーマに沿わない史実は捨てる、という方法で、物語が複雑化したり主人公がイヤな人物になったりすることを防いでいるわけです。たとえば土方歳三を孤独な陰のある人物にするために、祇園や島原でさんざん女遊びしていたことは書かない、とか。
 文春文庫の「司馬遼太郎の世界」は大半がファンクラブ雑誌の投稿コーナーのような内容ですが、たまに真面目な分析やまれに批判もあります。そんな中に古川薫の話があります。「殉死」で扱った乃木希典のことなんですが、あれは乃木ボンクラ説をとなえる人の研究だとか、乃木の副官だった伊知地参謀長と仲の悪い将軍の書簡だとかばかりとりあげて、乃木作戦を弁護する批評などはまったくとりあげない、一方的すぎると抗議したり文章を書いたりしたが、まったく無視された、と書いています。もっとも、長州出身で、桂太郎のマンセー伝記「山河ありき」を書いた古川薫の言うことだから、すべてを信じる気にはなれませんが。とにかく司馬遼太郎からすれば、「殉死」は、乃木は自分が無能だったことを知っていたか、知っていたとすればそれをどう感じていたか、というところから出発して乃木のテーマを捜す作業を文章にしたものなんで、「乃木は無能」という前提を崩すことはできないわけです。
 余談ですが司馬遼太郎は長州嫌いで薩摩好きです。乃木将軍はボンクラ扱いだし吉田松陰は書生みたいに書くし高杉晋作は放蕩児に書くし、郷里の英雄をボロクソにしたというわけで、「司馬某が長州に足を踏み入れたら生かして返さぬ」などといわれたと、「街道をゆく」の一巻で書いています。その反対に、薩摩はベタボメですね。大久保利通は不世出の政治家だし西郷隆盛はその巨体のすべてが仁というし、島津家は鎌倉以来栄え続けた希有の家でしかもことごとくが明君と、どこのユートピアの物語じゃい、と言いたくなるような賛辞ばかりです。その一方、島津重豪の贅沢で財政が破綻したとか島津斉興というボンクラのもとでお由羅騒動が起こったとか極端な身分差別政策で足軽は牛馬、農民は奴隷の扱いだったとか沖縄や奄美大島でむごたらしい植民地政策をやったとか戊辰の戦いで会津や越後の兵士の生き肝をとって各地でヒンシュクを買ったとかいうマイナス面はあまり語らないわけです。これは、恩義ある師匠格の海音寺潮五郎が薩摩の出だったことに理由がある、と思います。なんにせよ司馬遼太郎の薩摩びいきは尋常ではない。

 テーマに沿った史実しかとりあげない、それ以外は史実であっても書かない、という司馬遼太郎のいきかたは、必然的に使う史実の量が減少してきます。そこで登場するのが、司馬遼太郎の伝説的な文献蒐集です。司馬遼太郎という人は、たとえば日露戦争について書くとなったら、古本屋に明治時代のことを書いた本をごそっと注文する。その本がトラック何台分になったとか、司馬遼太郎が小説の構想を練りはじめるとその時代の古本が高騰するとか、いろいろ伝えられています。
 本人の話では、「竜馬がゆく」を連載するとき、産経新聞から月百万円の稿料をもらったそうです。1961年の百万円がどのくらい凄い額かはわかりませんが、吉川英治と同じだそうですから文壇のトップクラス、総理大臣の月収の四倍だそうです。その前に書いた「梟の城」の稿料が月八千円だったから、百倍以上です。たいへんな出世です。「この金で勉強せいということだな」と思って本を買い込んだそうですが、しかしこの当時は、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」を同時並行で連載していたからすごいものですね。横溝正史で、「本陣殺人事件と蝶々殺人事件、あれを同時に書いたのはすごいですね」と感嘆されたという話がありますが、この当時の司馬遼太郎はそれを超えているかもしれない。
 金だけではなく、「竜馬がゆく」からあきらかに変わります。「テーマ小説」というスタイルを確保するとともに、文体も変わりました。それ以前の小説では推敲をさんざんしていたんですが、「竜馬がゆく」からは推敲しなくなったんだそうです。語り口調のテンポを乱したくない、という理由でしょうね。
 ただしそれによる失敗もあります。みどり夫人の話によると、「十一番目の志士」の連載中、前の回で死んだ登場人物が元気に走り回っていたそうです(さすがに単行本で訂正されたらしく、文庫本では確認できませんでした)。それにつけ思い当たるのは小林信彦の「オヨヨ城の秘密」です。この小説では脚本家が〆切に追われモウロウとしたあげく、兵庫にいたはずの主人公がいきなりパリに存在したりします。しかもその脚本が「兵馬がゆく」です。これはやはり、小林信彦が司馬遼太郎に向けた大いなる皮肉ではないでしょうか。
 閑話休題。司馬遼太郎の情報蒐集量はたいしたものです。おそらく、他の歴史小説家の三倍くらいの知識量があるのではないでしょうか。そこからテーマに沿った史実だけを選って三分の一くらいに絞る、これで同量になるわけです。司馬遼太郎の文献集めの凄さというのは、テーマ小説という彼のいきかたから必然的に導かれたものだと言えるんじゃないでしょうか。

 司馬遼太郎は膨大な作品を残したわけですが、扱っている時代はそんなに多くないのです。ほとんどが戦国時代と幕末、それに続く明治時代の前半。「ヤタガラス(漢字が出ない)」のように神話時代を書いたものや、「朱盗」のような奈良時代、「牛黄加持」「外法頭」のような平安時代ものもありますが、ほとんどが初期の短編ですね。長編では「空海の風景」「義経」だけが例外でしょうか。わりと偏っていますね。
 偏っているといえば、余談ですが司馬遼太郎の食生活もかなり偏っています。前に「街道をゆく」で食べたものの統計をとったことがありますが、カレー、そば、トンカツが三大食品でした。実際の好物はビフテキとタケノコだったそうです。新聞記者時代の食い物はカレー、きつねうどん、卵丼だったそうです。その反対にカニ、エビ、鶏はジンマシンが出る。魚も嫌いらしく、会席で鮎の塩焼きをカマボコ二切れと交換したなんて話もあります。甘鯛の煮付けを食って「これはうまい」と言った後輩を怒鳴りつけたという話もあります。おとなげないですね。

 「手掘り日本史」というエッセイの中で、「思想というのは歴史を解釈するうえで便利ではあるが、逆になんでも思想にあてはめてしまう危険性がある。思想に惑わされず自分の目で歴史を見ていく必要がある」という意味のことを書いているのですが、つまり思想ってのはテーマなんですよね。たとえば明治維新は、唯物史観でいえば封建主義を打破するブルジョア革命であるし、皇国史観でいえば皇権をおそれおおくも簒奪した幕府を打倒する正義の戦いであるわけですね。司馬遼太郎がこういう思想を嫌ったのは、要するに他人からもらったテーマでは書きたくない、ということなんだと思います。
 こういうテーマを思想だと勘違いして、司馬遼太郎に「日本的思想家」というレッテルを貼る人もいますが、それは間違いだと思います。テーマはこしらえるもので、確固たる思想ではありません。司馬遼太郎にテーマはあっても思想はありません。だから対談がうまいんですね。誰とでも話を合わせることができる。いわゆる上方で言う「機嫌買い」というやつで、べつに利益がなくても無意識にゴマをする、というと語弊があるかもしれませんが、話を相手に合わせるわけです。なんでもハイハイと言って聞くわけです。資本主義の代表みたいな松下幸之助が来てもハイハイ、共産党員のぬやまひろしが来てもハイハイですませられるのです。思想がないから。

 あれだけ日本史について書いてきたくせに、司馬遼太郎が日本史のなかで触れていないものがあります。それは天皇です。「天皇はことさら論ずべきものではない」というのが司馬遼太郎の持論だったそうですが、それでは歴史小説家は失格ですよね。日本の歴史を語るうえで天皇の存在は欠かせないはずなんですが、司馬遼太郎は不自然なくらいそれについて書かない。だから天皇が主人公となる時代、壬申の乱だとか南北朝の抗争だとかは書いていないんです。南北朝をなぜ書かないかについて、「あの時代は欲望がむき出しのつまらない時代だし、なぜか南北朝を書くと作家として衰弱する人が多い」などとわけのわからない理由を挙げていますが、それは嘘だと思います。天皇を書きたくないんですね。
 なぜ天皇について書かないのかというと、思想とテーマの問題です。司馬遼太郎としては書く以上、自分のテーマで書かねばならない。ところが天皇は皇国史観というものと強く結びついている。テーマが皇国史観と異なる場合もあるだろう。その場合、皇国史観で凝り固まった人種が怒って攻撃してくる可能性はきわめて高い。そんなわけで、司馬遼太郎は天皇を書かなかったのだろうと思います。保身のたくみな人ですからね。
 同じ理由で、差別問題にもほとんど触れない。私が知っている限りでは、「十一番目の志士」で被差別部落の女性が登場するのと、「胡蝶の夢」でえた頭の弾三右衛門が出てくるのみです。
 これに関して面白く思うのは、まったく対照的な隆慶一郎という作家の存在です。この人はかつては脚本家で、司馬遼太郎のドラマ化もやっています。司馬遼太郎が生前には文庫化させなかった「城をとる話」なんかは、司馬遼太郎の作ったあらすじにのっとって、隆慶一郎が書いたんじゃないかと思っています。その過程で、司馬遼太郎を研究したんじゃないかな。おれは司馬遼太郎の逆をいくって。
 だから隆慶一郎は、あたかも司馬遼太郎とはネガとポジのように対照的です。司馬遼太郎が天皇や差別問題について書かないから、隆慶一郎は天皇と被差別集団をいつも登場させる。司馬遼太郎が武士をほめるから、隆慶一郎はけなす。司馬遼太郎の理想は日本国民すべてが武士というか、武士の心構えをもつことです。隆慶一郎の理想はいつも武士のいない社会、天皇陛下の直下に被差別民、いわゆる「道々のともがら」がいる社会です。司馬遼太郎が戦国と幕末しか書かないから、隆慶一郎は江戸時代の話を書く。司馬遼太郎と隆慶一郎の小説で共通する登場人物といえば、徳川家康くらいなんじゃないかと思います。
 ちなみに司馬遼太郎が属していた同人「近代説話」にも、これに近い棲み分けがあるようです。永井路子が鎌倉時代を書いたから、司馬遼太郎は戦国と幕末にしよう、それでは黒岩重吾は卑弥呼から壬申の乱までの上代を扱おう、というような。そういえば伊藤桂一はノンフィクションとはいえ第二次世界大戦の歴史「遙かなインパール」「静かなノモンハン」を書いています。胡桃沢耕史が平安王朝絵巻を書かなかったのが残念です。

 また余談になって申し訳ないのですが、司馬遼太郎が歴史小説に与えた影響について。
 司馬遼太郎は生前、「新選組の沖田は、僕がこしらえたものだよ」と不満げに言っていたそうです。確かにそうですね。「燃えよ剣」で土方歳三を優秀なオルガナイザーと定義したものの、それまでに講談や先人の小説で、近藤勇=豪傑だが情にもろい、土方歳三=あくまで冷酷なナンバーツー、というキャラクターはすでに確立していました。ここにもうひとつ、沖田総司=とほうもなく腕が立つが無邪気な青年、というキャラをもってきたのは司馬遼太郎の功績だと思います。こんどNHK大河ドラマで新選組をやるというので盛んに新選組の本が出版されていますが、見てごらんなさい、そういう本の三分の二は司馬遼太郎のキャラクター設定をパクっています。
 もうひとつ大きいのは、忍者物ですね。司馬遼太郎以前の忍者は、「猿飛佐助漫遊記」のように、お師匠様の元を離れたらなにも怖いものはないという、完全な自由人として書かれていました。そこへ上忍に管理される下忍というヒエラルキーをもってきたのは司馬遼太郎の独創です。上忍下忍という言葉は昔からありましたが、本来は術の上手い人下手な人という意味でした。これを司馬遼太郎が管理被管理という関係にねじ曲げ、されに白土三平が唯物論でもって鉄の掟やピラミッド型身分制度をつくりあげたのです。昭和三十年代以降の忍者ものの世界は、司馬遼太郎と白土三平の合作だと思います。

 テーマ小説としてのいきかたが、司馬遼太郎の旅行にもあらわれているんじゃないかと思います。
 司馬遼太郎はたいへん旅行する人でした。「街道をゆく」という紀行文を週刊朝日に連載していましたし、取材旅行も旺盛に行っていたそうです。登場人物のふるさとというか、環境が目に見えるようにならないと人物がわかってこない、と本人は言っています。日本全国どこへ行っても、「いついつ頃、司馬さんがいらっしゃいました」と旅館の女将に言われる、などと作家仲間も書いています。
 ただ、その旅行も、すでに見つけたテーマを確認する作業ではなかったか、という気がするのです。
 「街道をゆく」を読んでも、旅行をしているという雰囲気が読みとれないんですね。ふつう旅行記というとどこどこで何を食ったとか、何に乗って移動したとか、旅館がきれいだったとか汚かったとか、水が出ないとか浴槽の栓がないとか、ボッタクられたとかカツアゲされたとか、そういう生活の記述が主なんですが、それがほとんどない。かといって家並みや城の風景描写もそんなにない。ほとんどが行った場所の説明なんですね。
 つまり高知に行ったらそこに坂本竜馬がいて吉村寅太郎がいてと、そういう昔の人物の事歴をえんえんと書く。城を見に行ったらその城にはなにがしという大名がいてなんとかという戦があっていついつ燃えてと、歴史をえんえんと書く。まあ歴史についての紀行だからやむを得ない部分もありますが、要するに、旅行に行く前に調べたことが記述の大半なんです。「街道をゆく」がいまひとつ面白くないのは、そんなところに原因があるんじゃないかと思います。旅行記の面白さは作者がドジを踏むところにあるんですが、そういうハプニングがないんですね。
 司馬遼太郎は自分のことを、「作家としては不具でないかと思うくらい、自己愛がない」と語っています。自分を無限大にまで膨らませて宇宙のすべてを自分にしてしまう作業が私小説だとすると、自分をゼロにまで縮めて歴史上の他人を見ることが司馬遼太郎の小説作法だと。自分に関心がないから、自分が食った飯だとか車酔いで感じた不快感だとか歩いて疲れたとか、書く必要を認めない。他人のことならなんとか書く意味がある、というわけで、「街道をゆく」でいちばん面白い部分は、同行の須田画伯がやらかす珍奇な言動です。「どこかの寺で一休みしたら風がそよいで遠くで鐘の音が響いた、などという、いわゆる随筆は私には書けない」とも書いていましたが、同時に、いわゆる紀行文というのも、司馬遼太郎のスタイルでは書けないんですね。だから「街道をゆく」は紀行文ともエッセイともつかない中途半端なものになった。「歴史を紀行する」だと、紀行文を完全に切り捨ててエッセイにしてしまっているから、こっちのほうが面白いんです。

 司馬遼太郎と菊池寛との共通点をあげましたが、もうひとつ文豪との共通点をあげるとしたら、評論家の小林秀雄があります。
 司馬遼太郎の史観として有名なのに、「後世の高みから、歴史上の人物を見おろす」「歴史上ですでに完結した人生を見る」という言葉があります。いま生きている人間だと、これから飯を食うのか仕事をするのかわからない。歴史上の人物だと、生まれたときから死ぬまでをぜんぶ知っているから、ビルの屋上から歩いている人を見るように、鳥瞰した立場で見ることができる、ということです。「街道をゆく」のスタイルと同じで、自分が飯を食ったとか風呂で溺れたとかのハプニングより、歴史上の人物の行動が大事だ、ということですね。
 これとまったく同じことを、小林秀雄も言っています。生きている人間は何を考えているのか何を言い出すのかわからないが、歴史には死んだ人間しか出てこない。だからのっぴきならない人間の相がそこに現れる。歴史の必然がそこに見える、人間を見通すことができる、と。
 この小林秀雄の意見に坂口安吾が怒って「人間は次に何をやらかすかわけのわからない存在であり、死んだ人間だって生きているときはそうだった。次に何をやらかすかわからない人間を書くからこそ文学なんだ。死んだ人間の完結した人生なんて見ているのは文学でもなんでもない、ただの骨董鑑定人だ」と書いていますが、これ、司馬遼太郎の小説にも、もろにあてはまる批判だと思います。
 梅原猛が「司馬遼太郎の世界」のなかで、面白いことを書いています。「司馬遼太郎は天性の合理主義者だから、合理主義がなかった時代、つまり中世以前の歴史は書けない。近代合理主義では見えないものは司馬遼太郎には書けない。『妖怪』はみごとに失敗したし、『空海の風景』も世評と違って失敗作だと思う。司馬遼太郎の空海はカラカラ乾いているが、本当の空海はもっとじめじめしていて、ずしりと重い」というのですが、この「合理主義で見えないもの」「じめじめして、ずしりと重い」というのが、つまり生きた人間の特徴なんですね。空海は歴史上の人物としては死んでいますが、宗教としては生きています。いまも高野山では空海が生きていることになっています。その生きたところを、司馬遼太郎は書けなかったんですね。生きている自分自身も書けない。だから随筆も紀行文も書けない。
 むかしは書けたと思うんですよ。デビュー当時の「ペルシャの幻術師」にしろ「兜率天の巡礼」にしろ、伝奇小説というより幻想小説に近いものでした。もともとはそういうドロドロしたもの、わけのわからないまがまがしいものを書きたいという指向だったんですね。そっちに行く可能性もあったわけです。それが「テーマ小説」といういきかたでいくようになってから失われた。理知的な作風のほうを選んだわけですね。それにより成功はしたが、不合理なほうは、意識的に切り捨てた。そのあとも若い頃の嗜好捨てがたく、「妖怪」や「大盗禅師」を書きましたが、もうダメですね。形骸です。
 つまり司馬遼太郎の小説はいわゆる文学ではない。司馬遼太郎自身もデビュー当時「自分の書いているようなものは小説と言えるんだろうか」と悩んだそうですが、こういうところで悩んだんだと思います。そして自分の書くものが小説でなくてもいい、文学でなくてもいい、と吹っ切れたところから司馬文学がはじまる、そう言っていいんじゃないかと思います。
 ご静聴ありがとうございます。

参考文献
司馬遼太郎の世界(文春文庫)
司馬遼太郎のかたち(関川夏央:文春文庫)
司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」(朝日文庫)
司馬遼太郎と藤沢周平(佐高信:知恵の森文庫)
青春の司馬遼太郎(三浦浩:朝日文庫)
形影(松本清張:文春文庫)
堕落論(坂口安吾:角川文庫)
その他司馬遼太郎の著作


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