「燃えよ剣」「新選組血風録」を検証する

 司馬遼太郎は事実と創作をこねまぜて物語を創るのが巧みな作家だった。
 「十一番目の志士」(文春文庫)の解説で奈良本辰也が書いているように、小説に書かれたことが、本当にあったことだと読者が思いこんでしまうことがよくある。「十一番目の志士」は主人公が架空だからまだいいが、実在の主人公が、事実を多く混ぜた活躍を行う話になると、さらに騙されやすい。
 ここでは試しに、「燃えよ剣」という、司馬遼太郎の代表作を材料にして、一般に史実だとされていることとの相違点を挙げてみる。異説があればそれも紹介する。あわせて同じ新選組を扱った「新選組血風録」も材料とする。当方無学にて、足らない点、間違っている点もあるかと思うが、どうかご容赦ならびにご指摘いただければ幸いです。


 司馬遼太郎は、新選組になってからのきらびやかな立身と対照的にするため、近藤勇の天然理心流を田舎剣法と強調しているが、実際にはそこまでの弱小流派ではなかった。多摩一帯を地盤とし、おもに百姓の子弟を教えていたのは確かだ。しかし道場は大小三、四十ほどもあり、門人は三百余を数え、また江戸の牛込にも道場を構えていた。北辰一刀流や神道無念流などの超一流には遠く及ばないが、まずまず中堅どころといって通る流派だった。
 新選組に加盟する前、永倉の案内で勝海舟の師匠として知られる剣客、男谷精一郎を訪れ、立ち会ったという話も残っている(試合は負けたらしいが)。男谷は幕臣でもあり、直新影流の道場は実力、格、ともに随一であった。もし近藤をただの百姓と侮っていたら、会ってもくれなかったろう。
 また1862年には、幕府講武所の剣術師範役教授方になろうと、近藤が運動したこともある(三谷の「竜馬におまかせ!」にそのエピソードがありましたね)。結局は選ばれなかったのだが、男谷精一郎、伊庭軍兵衛、桃井春蔵、榊原健吉ら錚々たる剣客と並んで師範として迎えられるなど、ただの田舎道場主なら思いつきもしなかったろう。

 ついでに柳剛流についても弁護しておく。柳剛流が他の流派にない臑撃ちを認めている点は確かだが、臑撃ちは邪道ではない。むろん柳剛流は「様子かまわずの百姓剣術」でもない。
 そもそも道場の剣術は、ほとんどが実戦では役立たずである。面は兜で護られているし、胴を撃っても甲冑で刀を折るだけである。実戦で剣をふるうとしたら、具足で護られていない臑と腿のあいだをねらうしかない。柳剛流の始祖岡田惣右衛門は、居合、薙刀、杖術、柔術など多彩な格闘技を会得したのち柳剛流をひらいた。いわば江戸時代の総合格闘技だったわけだ。ちなみに道場は、私の住む埼玉県戸田市にあった。
 だから各流派も柳剛流の臑撃ちにはてこずったものの、「邪道」や「卑怯」などとめめしい悪口を言う剣客はいなかった。言ったら、自分が実戦ではものの役にも立たない道場だけの棒振りだと告白するのも同じだったからだ。だいたい邪道と忌み嫌われていたら、近藤もなれなかった幕府講武所の剣術師範教授方に、柳剛流の松平上総介が選ばれることもなかったろう。ちなみに松平上総介は徳川の血筋をひく名家の幕臣であり、新選組結成を幕府に献策した、いわば新選組の生みの親として小説にも登場する。

 ついでに甲源一刀流についても。武州秩父の剣客逸見太四郎がひらいたこの流派は、秩父を中心に多摩一帯に勢力を広げた。甲源とは甲斐源氏、逸見の家柄から名づけた。有名なのはこの小説にも登場する比留間一族である。比留間与八は男谷精一郎、島田虎之助と並んで「幕末三剣士」と呼ばれているし、息子の半蔵も八王子千人同心の剣術師範に任命され、将軍家慶の上覧試合にも出場している。そのまた息子の良八は将軍慶喜の剣術指南役となり、のち彰義隊に参加して官軍に「比留間の車切り」とおそれられた。中里介山「大菩薩峠」の主人公、机龍之介がこの流派であることでも知られている。

 天然理心流の道場から新選組の母体である浪士隊に参加した人物として、天然理心流の近藤・土方・沖田・井上、他流の居候だった山南・永倉・藤堂・原田・斎藤(これには異論もある)が有名だが、じつはこれ以外にも、沖田林太郎、佐藤彦五郎、大月銀蔵、佐藤房次郎、中村太吉が参加名簿にある。沖田林太郎は総司の兄、佐藤彦五郎は土方歳三の義兄で天然理心流のオーナー、他は天然理心流の門弟であるらしい。彼らは京まで行ったが、そのまま残留せずに江戸へ戻った。沖田林太郎は「弟は見込みがあったが私は近藤さんに見放されたらしく、一緒に残りたいといっても許してくれなかった」と笑っていたが、林太郎は庄内藩士、佐藤彦五郎は名主としての仕事があり、他の者もそれぞれ事情があって残留できなかったらしい。
 永倉の話によると、大月銀蔵は京大阪で加盟した隊士とあり、のちに浪士調役となったらしい。ひょっとすると斉藤一の加盟についての一説のように、江戸で近藤と親交を深め、のち京で再会し、意気投合して加盟したのかもしれない。備中岡田藩の生まれで、千葉周作の玄武館名簿にもあることから北辰一刀流と思われる。あるいは同流の藤堂や山南の知人であったろうか。それにしては話がまったく残っていないし、いつ死んだか脱退したかもわかっていない。備中で獄中死したという説もある。あるいは吉村貫一郎のように、新選組瓦解後に旧藩に復帰しようとして、かえって捕らえられ斬られたのかもしれない。永倉が書き残していないのは、帰参がかなった自分が後ろめたかったのかもしれない。

 原田左之助はでっぷり太った巨漢で短気というふうに書かれている。それは間違いではないが、新選組美男五人衆に数えられるほどの美形でもあった。五人衆の他の人物は、長州の間者で原田に斬られた楠小十郎、武田観柳斎の思い人だった馬越三郎、やまと屋の娘との恋物語が残る山野八十八、芹沢鴨に奪われそうになった恋人と逃げようとして斬られた佐々木愛次郎、ぶさいくな子守り娘に手を出して「南部の子守りの腹がふくれた 胤は誰だろ 馬詰のせがれに 聞いてみろ聞いてみろ」と囃され、いたたまれずに親父ともども逃げ出した馬詰柳太郎である。沖田総司も土方歳三も入っていない。
 土方は残された写真でも証言でも「役者にしたいようないい男」だが、沖田は肖像画で見るかぎり、ソラマメのような顔をしたぶさいくである。「頬骨が高く、口が大きく、色黒」「青黒い顔色」「平べったくて眼が細く、ちょうどひらめのような顔」という証言もある。日焼けプラス結核のため顔色が青黒かったのかもしれない。愛嬌があり笑い上戸だが、道場では怒りっぽく乱暴で、近藤よりも恐れられていたという。おそらく天才にありがちな、「なんでこんな簡単なことができないんだ」という癇癪を起こしていたのだろう。指導者にはむいていない奴だね。

 山南敬助は「痩せがたで干からびたしたり顔」などと書かれ、ドラマでもすっかり痩せて嫌味な俳優が演ずることになってしまっているが、壬生の新選組屯所で実際に見たことのある八木為三郎老の話によると「背はあまり高くなく色の白い愛嬌のある顔」で「子供好き」だということだ。どちらかというとぽっちゃりした体型ではなかったかと思われる。小説では気弱なインテリというイメージで書かれているが、実際には新選組の母体になる浪士隊に参加して上京するとき、六番隊(近藤などが平隊士として属した)伍長の村上俊五郎が権高なのが気にくわなかったか、やたらに喧嘩を売っていたという話がある。

 別なところでも書いたが、土方歳三の刀、和泉守兼定は、高名な「ノサダ」と呼ばれる室町時代の刀工、二代目兼定ではなく、土方と同時代にいた、会津の同名の刀工、十一代目兼定のものである。これは土方の遺品として現存しているので間違いない。それもおそらく、新選組に加盟してから会津藩に与えられたものと推定される。
 「新選組血風録」の「虎徹」にもある近藤勇の虎徹については、真贋さまざまな説があり、入手経路にしてもいろいろあるので省略。沖田総司の菊一文字は論外。そもそも新選組は、十両以上する刀を買ったことがないという研究もある(だから司馬遼太郎は、貰ったとか借りたとか掘り出したとか書いているんだけどね)。刀を実用品として扱い、「見た目よりも、長く太く折れにくいものを」とする近藤の見識からして当然のことといえよう。
 土方歳三の脇差が一尺九寸の堀川国広だったというのは近藤勇の書簡にもあるが、これもちょっとあやしい。国広は大業物でとうてい十両以下で買えるものではないし、そもそも堀川国広は二尺以下の刀を作っていないとか。

 芹沢鴨の本名が木村継次というくだりがあるが、これは二重に間違っている可能性がある。芹沢鴨の本名は芹沢で間違いないようだ。茨城県芹沢村の郷士、芹沢家の三男として誕生。のち水戸天狗党に参加したとき、木村継次、もしくは下村継次という偽名を名乗った。木村と書いているのは「新選組始末記」だけで、近藤勇の書簡にも「下村」とあるところから、下村継次と名乗ったのが正解であるらしい。なぜ偽名を名乗ったかというと、文久元年に横浜焼き討ちをもくろみ失敗して処刑された神主出身の下村継次にあやかったらしい。金日成みたいなもんか。

 近藤勇は京にのぼってから手習いをはじめたように書かれているが、実際には武州多摩にいるときから勉強熱心だった。浪士隊に加盟する直前に道場を訪問した福地源一郎の話によると、近藤の部屋には写本の途中の「日本外史」があり、筆墨も上等のものを揃えていたという。時勢についても山南や伊東、土佐の後藤象二郎などに謙虚に教えを乞うていた。剣術にももちろん熱心だった。ふつう道場主というのは唯我独尊で自分より強いのは敬遠することが多いが、近藤は他流試合も勝ち負けにこだわらず行い、強い剣客を招いていろいろと教わる姿勢だったという。そういう大人の風格に、北辰一刀流の山南や藤堂、神道無念流の永倉、種田流槍術の原田など他流の剣客も心服したのだろう。

 「新選組血風録」の「芹沢鴨の暗殺」で大阪力士との喧嘩のエピソードがある。小説では酔っぱらって絡んできた力士を芹沢が斬り捨て、それがきっかけで数十人の力士との喧嘩が始まる。しかし、このとき同行していた永倉新八の「浪士文久報国記事」では、最初は斬り捨てるべきところを許したとある。これも同行していた島田魁の日記によると、投げ倒しただけで許したそうだ。その後で入った茶屋に四、五十から六十の力士が襲ってきたので、やむなく数名を斬り殺し十数名に手傷を負わせた、とある。むろん司馬遼太郎は1999年に発見された「浪士文久報国記事」は読んでいないが、島田魁の日記は読めたはずだ。これと、力士をいきなり斬った、と書いている「新選組始末記」を比較し、芹沢鴨の残忍さを強調する方を選択したのだろう。

 芹沢鴨の暗殺は、長州の仕業と見せかけるために隠密に行ったとされている。そのため斬りこみも、近藤、土方、沖田、山南、原田、藤堂ら腹心のみで行ったとされている。これはだいたい正しいとされるが、興味深い異聞もある。永倉新八の証言によると、御倉伊勢武も暗殺に参加したというのだ。御倉といえば京都で新加入し、芹沢暗殺の半月後に長州の間者として暗殺される人物である。いってみれば外様中の外様だが、これが芹沢暗殺に参加した意味はどこにあるか。あるいは、御倉にすべての責任をかぶせて闇に葬る、狡猾かつ陰惨な工作であったろうか?

 「燃えよ剣」の文脈では荒木田、御倉らが長州の間者として斬られたのが芹沢暗殺より前のように書いているが、芹沢の暗殺は1863年9月13日、荒木田や御倉が斬られたのは同年9月26日。

 「新選組血風録」の「池田屋異聞」にも登場する山崎蒸だが、彼が池田屋で密偵として大活躍したという説はあやしい。島田魁、川島勝司らとともに探索を行ったと島田の日記にはあるが、それにしてはおかしいことがある。池田屋で活躍した人間には幕府から恩賞金が与えられているが、島田、川島は七両を与えられているのに、山崎は何ももらっていない。池田屋事件時、山崎は京にいなかったという説もある。
 また山崎は、鳥羽伏見ののち大阪から江戸へ戻る富士山丸の中で死に、水葬されたとあるが、これもあやしい。この説をとなえるのは八木為三郎が明治になってから京に来た林信太郎から聞いたと称する伝聞のみである。実戦に参加した永倉の記録によると、山崎は淀で討ち死にしている。そもそも、林信太郎は江戸に下ってからすぐ死んだという記録が残っており、京に戻れたはずもない。

 土方の女遍歴について書いている中で、「十一歳のとき、一時、江戸上野の呉服屋松坂屋に小僧にやられたことがある。そのころ、そこの下女に、男女のことを教えられ、それが番頭にみつかって、生家に返された」とあるが、十一歳のときは奉公に辛抱できずに逃げ出しただけで、女関係の話は残っていない。二十歳過ぎのころ江戸の奉公先で女中と関係して追い出されたというのが真実であるらしい。若気の至りというような年齢ではない。

 「知れば迷ひ知らねば迷はぬ恋の道」という句を、新撰組副長になってから詠んだもののように書いてはいるが、実際はこの句、まだ多摩にいる時に詠んだもの。1863年、新選組に加盟する直前に書いた「豊玉発句集」に入っている。外の句もぜんぶこれに収められている。いや、ただひとつ、「シノビリカいづこで見ても蝦夷の月」は入っていない。これは司馬遼太郎の創作だと思う。

 近藤の艶福家ぶりにくらべ、土方は色街の女にあまり興味がないようなことを書いているが、実際には島原の花君太夫、北野の君菊、小楽という舞妓、大阪新町の若鶴太夫など多数の馴染みがあった。「このほか祇園では芸妓三人、北の新地には書き尽くせないくらい大勢いる」と土方みずからが自慢し、「報国のこころ忘るる婦人かな」という句まで添えているくらいだ。また、天然理心流道場に「すばらしきものを贈る」といって女たちからの恋文十数通を送りつけたこともある。「情事のことで囃されるのを極度に恐れた」なんて、とんでもない。

 「局を脱することを許さず」の局中法度が絶対のものであるように思われているが、じつはいくつかの例外がある。砲術師範の阿部十郎は、いちど脱退したが師匠の谷万太郎の口利きで許されて戻った。文学師範の司馬良作(斯波雄蔵?)は、洋行を希望して脱退が認められた。美男五人衆のひとり馬越三郎は武田観柳斎を密告したという悪評が立ったため、土方が金を与えて故郷へ帰したという。「新選組血風録」の「海仙寺党異聞」の長坂小十郎の脱退は、これをモデルにしたと思われる。

 三十郎、万太郎、昌武(のち周平。三十郎の子ではなく末弟)の谷三兄弟については、「新選組血風録」の「槍は宝蔵院流」などでぼろくそに書かれているが、どうもそうではないらしい。そもそも、槍の名手は弟の万太郎であり、兄弟で道場を開いていたころも、万太郎が槍、三十郎は剣術。万太郎の槍術も宝蔵院流でなく種田流である。まあ三十郎は池田屋にも槍を持ち込んだくらいで、槍も相当使えたらしいが。ちなみに三十郎が新選組の槍術師範だったかどうかについてはよくわかっていない。万太郎の間違いという説もある。
 近藤の養子となった周平が池田屋で臆したため嫌われた、とあるが、近藤は書簡で「倅周平は槍を切り折られ」と、永倉沖田藤堂と並んで奮戦を物語っている。三十郎も万太郎も臆病だったという事実はまったくない。池田屋では万太郎が槍を突いて敵がひるむところへ永倉が斬りこむ、という話を永倉が語っている。恩賞金として幕府から、三十郎は十七両、万太郎は二十両、周平は十五両を受けている。相当の手柄だったわけだ。
 三十郎が自慢話をひけらかしたという事実もない。むしろ事件後に「胸元を槍で突いたときにどーんと衝撃が来て、私もいろいろ稽古はしたがあんなのは始めてだ。それに血しぶきがねばねばして、あんなに気持ち悪かったことはない」などと正直に語っていたくらいだ。
 そもそも三十郎が田内知の介錯に失敗して男を下げた、とあるが、田内の切腹は谷三十郎の死後であり、介錯ができるはずもない。三十郎の死因も「頓死」とあるだけで不明である。篠原泰之進は「近藤の命令で斎藤に暗殺されたのではないか。原因は分からないが、そういう雰囲気があった。ただ、私の思い違いで、酒の上の喧嘩かなにかで斬られただけかもしれない」と語っている。他にも病死、事故死などの説がある。
 万太郎は、兄三十郎の死後は新選組とは距離を置いたらしく、新選組の幕臣取り立てのときにも名簿にない。伊東とともに脱退した阿部十郎の師匠でもあり、明治以降、伊東一派の篠原泰之進と親交があったというから、当時すでに時勢が見えており、新選組に深入りして朝敵にはなりたくなかったのではないだろうか。そのため周平もみずから近藤の養子をやめ、脱退したというのが正しいような気がする。

 「新選組血風録」の「胡沙笛を吹く武士」の鹿内薫のモデルは浅野薫だろう。芸州広島出身。池田屋の際には二十両の報奨金を受けるが、三条制札事件のとき乞食に化けて探索するが臆して連絡が遅れ除名。その後新選組を騙って集金したのがばれ、島原で沖田に斬られたと、西村兼文は書いている。阿部十郎によると、もともと尊皇攘夷の志があり、伊東一派に加盟しようとして沖田に斬られたとある。阿部自身、浅野に説得されて伊東一派に参加したこともあり、やはり伊東派として斬られたというのが正しいようだ。女に迷ったのではなく、主義に迷ったのね。

 「新選組血風録」に登場する平隊士は多くが創作である。「長州の間者」の深町新作(松永主膳は実在した長州の間者だが、斬られながらも逃げたと伝えられる)、「鴨川銭取橋」の狛野千蔵、「前髪の惣三郎」の加納惣三郎、田代彪蔵、湯沢藤次郎、「三条磧乱刃」の国枝大二郎と福沢圭之助、「海仙寺党異聞」の中倉主膳と長坂小十郎、いずれも新選組の名簿にはない名前である。「菊一文字」の戸沢鷲郎と清原十左衛門も、陸援隊名簿にはない。
 「四斤山砲」の大林兵庫もまた、架空の人物である。阿部十郎が砲術師範を務めていたのは事実だが、その相役は清原清(竹川直枝)といい、阿部とともに伊東派として脱退し、阿部とともに鳥羽伏見では官軍として戦う。のち白河で戦死。砲術師範がふたりとも抜けた新選組は鳥羽伏見で誰が大砲を撃っていたかわからないが、旧式砲一門のみで、しかも低地から高地への打ち上げという不利な立場のわりには、かなりの戦果があったらしい。
 ちなみに阿部十郎は池田屋事件の直前にいちど脱退して出戻った経験があり、鉄の規律の新選組を二回脱退したという珍記録の持ち主である。谷万太郎の弟子だったため、万太郎の口利きで罰をまぬがれたらしい。明治になってから新選組残党で土方側近だった安富才助を暗殺したり、維新を回顧する史談会で篠原泰之進の悪口を言って絶交したり、なかなか血の気の多い人物だったが、果樹園を経営して成功し明治末年まで長命したという幸運児である。

 鳥羽伏見の戦の直前に近藤勇を狙撃したのは誰だったか、いくつかの説がある。篠原泰之進は小説のように自分が撃ったと主張しているが、阿部十郎は富山弥兵衛が撃ったと証言し、さらに「秦(篠原)と加納が槍を捨てて逃げたため、逃げる近藤のとどめが刺せなかった」と篠原を攻撃している。狙撃の話を聞いた薩摩藩の中村半次郎(のちの桐野利秋)は、「どうして近藤でなく馬をまず狙撃しなかったのか。こういう時は逃げる手段を奪うのが最初になすべきことだ」と一同を叱ったという話が残っている。

 近藤を隊長とする甲陽鎮撫隊に尾形俊太郎が参加したことになっているが、実際はよくわからない。永倉新八の回想記「新選組顛末記」には名前があるが、当時書いた「浪士文久報国記事」には出てこない。幹部クラスだから参加していれば名前が出るはずなのだが。幕府軍艦富士山丸に乗船し大阪から品川まで戻ったときの名簿には名前があるので、江戸に戻ったのは確実である。のち土方や斎藤とともに会津まで転戦し、そこで戦死、もしくは斎藤とともに会津に残留したという説もある。

 甲陽鎮撫隊の結成前に相馬主計が脱走したとあるのは、とんでもないいいがかりだ。相馬は京都で加盟したらしいが、そのころの事績は残っていない。流山で近藤勇が捕縛された際、土方の手紙を近藤に渡そうとして官軍に捕らえられる。下っ端だったせいかすぐ釈放される。その後仙台で土方歳三の軍と合流し、そこから函館まで、ずっと土方の側近として戦い続ける。土方の死後、新選組隊長となる。やがて降伏。伊豆七島の新島へ流罪となるが、1872年赦されて東京へ。のち、謎の切腹自殺。土方に殉じたのかもしれない。そんな人間をつかまえて、逃げたなんてひどすぎる。

 ちなみに甲府攻めで官軍の圧倒的な優勢に動揺したのは新徴の隊士だけではない。永倉や原田や斎藤などの幹部も、これでは戦えないと逃げ腰になった。近藤はやむなく、会津の援軍がまもなく来ると嘘をついてごまかし、土方を神奈川へ派遣して救援を頼ませたが、このとき永倉と原田は「配下に嘘をつくような隊長には従えない」と近藤からの離脱を決意した。

 雨宮敬次郎が甲陽鎮撫隊に参加したというのはどこに資料があるのか、まったく知らない。ご教示を請う。雨宮は軽井沢を作った人、もしくは明治の鉄道王、汚職王として著名だが、一種の怪物であったらしく、中江兆民は「近代非凡人三十一人」の中に雨宮を入れている。オリジナリティと気概のある事業家という評価らしい。

 野村利三郎が宇都宮の戦いに参加したとあるが、野村は相馬とともに流山で捕縛され、のち釈放されて石巻で新選組と合流したというのが正しい。

 小説には出てこないが、土方歳三は宇都宮での戦いで足に負傷し、新選組の隊長を斉藤一に、全軍の指揮を大鳥圭介にまかせている。斎藤は新選組をうまく統御したらしいが、大鳥はそういうわけにはいかず、連戦連敗、せっかく奪った宇都宮城も官軍に奪い返されて会津へ逃げ出すことになる。会津でも土方の負傷は癒えず、ほとんどの戦闘は斎藤が隊長として指揮していた。

 斉藤一が諾斎という雅号をつけたと書いているが、甲陽鎮撫隊に参加し仙台まで転戦した甲府のもと住職、斎藤一諾斎と混同している。斎藤一諾斎は1813年生まれで当時55歳、まったくの別人である。

 斉藤一は会津落城後、会津に潜伏し、そこで明治時代をむかえた。松本捨助は仙台で官軍に投降したらしい。どちらも、函館まで土方歳三に同行したという事実はない。松前藩の奥方を伴って江戸に戻ったというのは、松本捨助が土方歳三の実家佐藤彦五郎に言い伝えた作り話であるらしい。もっとも松本の話では、同行したのは斉藤一ではなく、これも斎藤一諾斎である。斎藤一諾斎は仙台で官軍に投降した記録が残っている。
 斉藤一が山口次郎、藤田五郎などたびたび改名し、島田魁や永倉新八ら新選組生き残りともあまり交流がなかったのは、暗殺を恐れていたからではないだろうか。数多くのスパイ活動や裏切りを繰り返した斎藤は、新選組の中でももっとも憎まれていた。伊東一派の毛内有之助は「斎藤だけは許せない」と書き残しているし、明治以降も何者とも知れぬ人物にたびたび襲われたと、斎藤の家の言い伝えにある。
 しかし斉藤一という人物、明石浪人のくせに、なんで会津に住みつき、会津藩士といっしょに斗南まで流されたりしているのだろう。よくわからん。謎だらけである。

 榎本艦隊はどこへ行くか、どこに徳川の新天地を求めるか、北海道以外にもいろいろと候補があったらしい。天領だった佐渡、韓国に近い対馬、そしてハワイも候補にあがったとか。ううむ、南国の青空とエメラルドグリーンの海を背景に、ハイビスカスの花と椰子の木にかくれて刀をふるう土方歳三、ってのも見てみたかったような気がする。「アロハオエいつになっても夏の月」とか詠んだりして。

 この文章を載せたあとで、土方でない歳三さんから指摘された。「燃えよ剣では、土方が甲鉄艦の接舷攻撃を立案したように書いているが、あれは甲賀源吾の立案ではないのか」と。たしかに、「新選組実録」では「回天艦長甲賀源吾の立案によって」とはっきり書いてある。

 土方の死を看取ったのは安富才助と馬丁の沢忠助であるらしい。安富は立川主税に土方の死の模様を語り、故郷へ伝えるよう依頼した。だが立川は官軍に降伏して捕縛されたため、市村鉄之助に遅れること三年、1872年に日野の佐藤家を訪れている。のち斎藤一諾斎の寺で出家して独竜巨海と号し、土方をはじめとする新選組隊士の菩提を弔った。

参考文献
 新選組始末記、新選組遺文、新選組物語(子母沢寛:中公文庫)
 新選組百話(鈴木亨:中公文庫)
 新選組99の謎(鈴木亨:サンボウブックス)
 新選組実録(相川司、菊池明:ちくま新書)
 新選組日記(木村幸比古:PHP新書)
 新選組戦場日記(木村幸比古:PHP研究所)
 新選組のすべて(新人物往来社)
 新選組顛末記(永倉新八:新人物往来社)
 幕府歩兵隊(野口武彦:中公新書)
 陸援隊始末記(平尾道雄:中公文庫)
 剣豪 その流派と名刀(牧秀彦:光文社新書)
 日本剣豪列伝(江崎俊平:教養文庫)
 幕末剣士伝(船山馨:河出文庫)
 他 書籍ならびにインターネットサイト


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