街道を食う

 司馬遼太郎の「街道をゆく」(朝日文庫)シリーズは、全四十三巻。日本国内では北は北海道宗谷岬から南は沖縄県石垣島まで、行かぬ所はなく、さらに海外では韓国・中国をはじめにモンゴル、ポルトガル、オランダまで足を運んでいる。まさに「歴史小説界の兼高かおる」と呼ばれるにふさわしい旅行家である。

 そんな司馬遼太郎にも、唯一の弱点がある。それは「食」である。
 時代小説や歴史小説の作家にはグルメが多いが、司馬遼太郎だけは例外である。その小説には旨いものなど登場しない。逆に不味いものならやたらに登場する。近藤勇の麦めし、村田蔵六の豆腐、いずれも、いかに不味いかをこと細かに描写している。
 そういう小説を書く、作者本人の食生活はどうなのか。この膨大な二十五年にわたる旅行の中で、司馬遼太郎はなにを食べていたのか。「街道をゆく」全四十三巻から、食べたものに関する記述を探して、検証してみたい。

 まず、食べたものの記載された回数順ベスト3をあげてみよう。
 第1位 そば 15回
 第2位 カレーライス 7回
 第3位 トンカツ 4回
 なんだか、場末の定食屋のメニューのようでもある。

 「街道をゆく」連載当初の司馬遼太郎は四十七歳。この頃の食生活といえば、圧倒的にトンカツとカレーライスである。
 本人も、「トンカツは私の旅の心得のひとつで、こればかりは土地の都鄙を問わず、店舗の華卑を問わず、味に上下がない」と書いて、その執着ぶりを表明しているくらいである。おそらくカレーライスも、味に当たり障りがないので選ばれたのだろう。
 それはそれでいいが、わざわざ仙台や土佐、壱岐など魚のうまいところまで行ってまで、トンカツやカレーというのはどうかと思うぞ、司馬。偏食のせいか、魚に憎しみがあるのかしらないが、そういえば司馬は七巻の「明石海峡と淡路みち」でもビフカツを食っている。これもトンカツのバリエーションということにすれば、トンカツの登場回数は五回となる。
 取材旅行には、みどり夫人同伴のことが多かったそうだが、おそらく夫人は、司馬氏のことを、「もう、この人はカレーとトンカツばっか食べて」と、愚痴をこぼしていたに違いない。

 あまりにトンカツとカレーライスばかり食っているので、編集者や旅行先も困った。
 朝日新聞社というところは執筆者にカレーしか食わせないのか、などと思われては世界一(当時)の新聞社の沽券に関わるし、地元としても雑誌の読者に、あの土地はトンカツやカレーしか食う物がないのか、名産でうまいものなんか全然ないのか、などと思われては観光収入にも響いてくる。
 そこで、放っとけばトンカツとカレーライスばかり食べている司馬氏を、会席に接待し、そこで地元の珍味を食わせる作戦に出た。しかしここでも司馬マジック炸裂。仙台ではせっかく招待されながら、「私は食物についての冒険性が皆無で、こどものころに食った食品の範囲からいまだに一歩も出られずにいる」などとわがままを言い、せっかくのホヤも菊の花も、まったく食べることがなかった。
 その後も、淡路島に行っては「ウニやシャコなど、京大阪で食べるようになったのは、近々五十年のことである」などとほざき、青森の蟹田では「子供のころから蟹はその形まできらいで、食べなかった」などと抜かしては蟹アレルギーの話を得々と書き、相変わらずカレーライスとトンカツばかり食っている。もう、司馬ちゃんたら。

 そんなトンカツ・カレーライス王朝も、おそらく寄る年波だろう、衰亡する。トンカツは二十七巻の「檮原街道(脱藩のみち)」(当時六十二歳)、カレーライスは二十九巻の「飛騨紀行」(六十三歳)を最後に消滅する。それはあたかも、永井荷風の「断腸亭日乗」に書かれている、おそらく房事を表すと考えられる黒丸の記号が晩年消えていったような、人生の寂しさを感じさせる。

 その後の司馬遼太郎の食生活といったら、もっぱらそばである。偏食の司馬遼太郎といえど、そばは好きらしく、「こういう土地は、そばがうまいんです」などと呟きながら、越前、信州、米沢、赤坂などで名店のそばを賞味している。もっとも出雲では空港でそばを食って「美味ナラズ」などと書いているし、小諸では城の前にある土産物店兼の店でそばを頼み、店員のサービスが悪いと愚痴をこぼしている。そういう店に入る方が悪いと思う。
 不思議なことに司馬遼太郎は、大阪生まれ大阪育ちのくせに、うどんよりそばが好きなようだ。食べた回数でいうと、うどん三回に対しそば十五回。そばの圧勝である。
 もっともうどんは「堺・紀州街道」と「大和丹生川(西吉野)街道」、いずれも大阪近辺で食べている。「壱岐・対馬の道」で食べたときは、わざわざ「上方味だった」と、ことわっている。ひょっとすると大阪以外のうどんなど食えたもんじゃない、という大阪人らしいナショナリズムから、地方のうどんを拒否していたのかもしれない。それにしても鳴門まで行ってさぬきうどんを食わなかったというのは、ナショナリズムも度を超しているような気がするが。

 司馬遼太郎の奇行はこれにとどまらない。なぜか外国に行くと必ずステーキを食う。パリでも、ポルトガルでも。ひょっとすると司馬史観では、ステーキは「洋風トンカツ」なのかもしれない。残念ながら「味に上下がない」というわけにはいかず、固いとこぼしながら食うのだが。
 「沖縄・先島へのみち」では、沖縄料理のソーキソバ、ラフテー、ゴーヤチャンプルー、新鮮にして珍奇な海の幸、などというものには見向きもせず、なぜか焼き飯ばかり二回も食っている。
 さらに「モンゴル紀行」では羊の料理など食わず、須田画伯が持参したカップラーメンを食べつくし、「あれはあなた、二つも食べたじゃないですか」などと須田画伯の悲しげな抗議を受けている。
 そしてついに「中国・蜀のみち」では、四川省まで行って孫の幼児用ビスケットを食うにいたる。食のゆきどまりが幼児回帰、という、なんだか精神分析的な興味の持てるエピソードである。

 そんな司馬遼太郎との取り合わせを考えたのか、朝日新聞社は、同行する挿絵画家に大食漢を選んでいる。須田画伯は「バスクとそのひとびと」で、ステーキを食う司馬氏の横で盛大にコース料理を平らげるし、後任の安野画伯は「食卓にむかうと、安野光雄画伯は、つねに王者である」と書かれ、「オホーツク街道」ではためらいもなく天どんを注文する。
 そういえば司馬遼太郎の筆は、自分が食うことより、つねに他人の食事を書くことに冴えを見せる。「バスクとそのひとびと」では、同行の須田画伯、運転手、案内人が猪肉やイカ墨煮や鰻スープをもりもり食べるのを横目に、自分は野菜スープを飲むのみだし、「オホーツク街道」「台湾紀行」では、朝日新聞の記者が煮ダコや焼き魚やビンロウを平らげるのを眺めているのみである。
 そして「中国・江南のみち」では梅干しのルーツを、「中国・蜀のみち」ではコンニャクの民俗を、それぞれ数ページにわたって追求するのだが、結局実物が司馬氏の目前に現れることはない。このことが、書くだけで食べない、自分は参加しない、という、司馬文学のスタンスを如実に表しているような気がする。


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