オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
Aubrey Vincent Beardsley
(1872-1898)

 耽美主義・唯美主義・デカダンの旗手として19世紀末を代表するイラストレーター。
 たった25年の生涯、6年たらずの活動時期にもかかわらず、後世に大きな影響を与えた天才美術家といえよう。

 ロンドンの南、海沿いの保養地ブライトンで生まれる。父はロンドンの宝石職人ヴィンセント・ポール・ビアズリー、母はエレン・ピット。エレンは軍医の娘でブライトンの名士だった。
 働きのない夫のために母エレンはフランス語教師・ピアノ教師として働き、ビアズリーは姉のメイベルとともにブライトンの親戚の家で育った。神経質かつ腺病質な子どもだったらしい。

 18歳でロンドンに出て保険会社に勤めるかたわら、美術館めぐりをして感性を磨く。1891年7月、姉につきそわれてバーン=ジョーンズ邸を訪れ、そこで才能を認められ、画家になることを勧められる。バーン=ジョーンズは二つの美術学校に推薦状を書き、ビアズリーは夜間部のあるウエストミンスター美術学校に一年間通った。
 1982年6月、バーン=ジョーンズに紹介状を書いてもらい、パリのピュヴィス・ド・シャバンヌに会う。シャバンヌは「驚嘆すべき天才」として仲間の画家たちに彼を紹介したという。
 1893年本屋の紹介で美術出版社主J・M・デントに会い、「アーサー王の死」の挿絵を依頼される。ビアズリーは保険会社を辞めてこの仕事に運命をかけた。この本はそこそこの評判をとり、雑誌編集者の間でビアズリーの評価が高まった。そのかわり、ウィリアム・モリスは自分のケルムスコット・プレスのスタイルを盗んだ、と激怒したという。(実際、J・M・デントは高価な手作りのケルムスコット・プレスを写真印刷で再現して、大儲けすることを考えていた)
 「アーサー王の死」で認められたビアズリーは1893年2月創刊の雑誌「ストュディオ」の作成に招かれ、表紙やイラストを描いた。このイラスト『おまえの口にキスしたよ、ヨカナーン』を見た大出版主ジョン・レインが同年パリで出版された「サロメ」の挿絵画家に起用した。この作品でビアズリーは決定的な名声(悪名?)を得る。ワイルドのほうはビアズリーの絵を気に入らず、「子どもっぽい、日本的すぎる」と言っていた。ビアズリーはそのことを貶されたとは考えなかったらしい。

 ビアズリーはこの後、「イエロウ・ブック」「サヴォイ」などのイラストの他、ポスターなどを制作した。健康を保っていた間は多作で、活動した時間のわりには残された作品は多い。成功した後のビアズリーは仲間たちに辛らつで、リケッツハウスマンを愚弄して楽しむところがあった。リケッツはビアズリーを愛しつつも生涯彼を恨んだ。
 1890年代後半、ビアズリーは詩や物語を手がけ、『タンホイザー物語・丘の麓』『ラインの黄金』などを製作した。しかし98年、肺結核が悪化。母の実家ピット家の土地、フランス、ドイエップの保養所に移った。そこで死の直前、カトリックに改宗し、25歳で他界した。
 ドイエップには出獄したオスカー・ワイルドも訪れたという。ジャン・コクトー美術館のあるマントンの街の丘の上にビアズリーの墓があるが、土地の人は誰も彼の名を知らないらしい。

T.F.UNWIN社のポスター
1894年
Collection of Michel Heseltine,U.k.

「アーサー王の死」挿絵
1893年

おまえの口にキスしたよ、ヨカナーン
 
シンデレラのスリッパ(1894)
「サロメ」より『孔雀の裳裾』
「キーノーツ・シリーズ」ポスター
「イエロー・ブック」表紙
イゾルデ(1898)

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