チャールズ・リッケッツ
Charles de Sousy Ricketts
(1866-1930)

リッケッツの名前は日本ではあまりポピュラーではないが、英国ではビアズリーと並び、あるいはそれを超える世紀末を代表するイラストレーターとして人気の高い人である。
海軍士官だった父親が療養中のスイス、ジュネーブで生まれた。父親はロイヤル・アカデミーに風景画を出品し、母親はアマチュアだったがオペラの舞台に立ち、美声との評判をとった人だ。リッケッツも絵と舞台の両方を手掛けることになる。
14歳で母、18歳で父を失い、天涯孤独となった。16歳でランベス美術学校夜間部に入り、職業画家を目指した。ここで2歳年上のチャールズ・シャノンと知り合い、生涯の友となる。二人は共同生活をしながらシャノンは大画家を、リッケッツはそれを支えるために世俗の挿絵画家として活動するという目標を立てる。1889年、共同編集の「ダイアル」誌を創刊。イギリスに大陸の象徴主義文学・絵画を紹介した。「ダイアル」創刊号を寄贈されたオスカー・ワイルドはその出来栄えに感心し、自作の装丁・挿絵をリッケッツに依頼する。「石榴の家」(1891)「ドリアン・グレイの肖像」(189?)などの作品で、ワイルドの文名が高まるとともにリッケッツとシャノンの名前も高まった。傑作「スフィンクス」(1894)は世間を騒がせたが、それ以上に問題になったのは同時制作されていた「サロメ」であり、その挿絵を担当していた友人ビアズリーだった。ビアズリーはリッケッツの所に度々訪れて彼の仕事を邪魔し、おかげで「スフィンクス」の発表は遅れてしまったという。
ワイルドの作品は「サロメ」以外はほとんどリッケッツの装丁挿絵だが、「サロメ」があまりにも強烈な印象を与えたためリッケッツの影がうすれ、ワイルドには破滅の第一歩となった。(ビアズリーの背徳・淫乱性と同一視されたからである...リッケッツにも悪評が及び、おまけに出版元が火事で焼け「スフィンクス」の残部も燃えてしまった)
1894年、リッケッツは祖父の遺産を手にして「ヴェイル・プレス」を創設、手作り豪華本の制作を始めた。「キューピッドとプシケの恋物語」(1901)「タブレー全詩集」(1903)マイクル・フィールド「愛慕の詩」(1912)などが制作された。これらの作品にはアール・ヌーボーからアール・デコへ向かう線が表れていて、後年評価されることになる。リッケッツは1921年には「トリストラムとイゾルテ」の舞台美術を手掛けている。
リッケッツとシャノンは理想の本のために、暗い部屋で(モリスのように)自分で活字を彫り、木版を彫っていた。裁判を前にしたワイルドは彼らの工房を訪れて、「君等は禁欲主義者だ」と笑う。リッケッツは赤面するだけだった。

ワイルド「石榴の家」
扉絵
(1891)

雑誌「ダイヤル」第4号イラスト (189?)

「巨大な虫」
カラーリトグラフ
雑誌『ダイヤル』
第1号イラスト
(1889)

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