上信国境の入山峠に残る古道跡3 | ![]() |
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古代の官道である東山道が碓氷坂として越えた場所がどこであったのかと討論されてきましたが、現在では旧中山道の尾根道を通るルートと、入山峠を越えるルートの2つに絞られているようです。しかしこの2つのルートのどちらにも決定的な資料が無くどちらであるという結論には達していません。この2つ以外にも和見峠道などの幾つかの候補説があったようですが、先の2ルートほどに知られるには至っていません。
それにしても古代官道が越えたと考えられているこの入山峠の古道が見るも無惨に荒れ果てているのは残念でなりません。 |
右の写真は峠への最後の急登に差し掛かるところを撮影したものです。この辺りでは道跡の幅も広く4メートル以上はありそうです。またこの周辺には整地された地形が見られ、この辺りに何かの施設があったのかも知れません。井戸跡のようなものも見られました。峠への最後の坂を登る手前であって、逆に峠側からは急坂を下って小休止できる場所に出たところになり、そのように考えるとこの場所に茶屋のようなものがあったとも考えられそうです。 | ![]() |
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入山峠を群馬県側に500メートルほど下ったところに「動揺石またはゆるぎ石」と呼ばれる大きな石があったといいます。天保初年安中藩主板倉勝明の編した「安中志」には、人丈ばかりある大きな石であるが人がそれを押すといささかづつ動くと書かれていて、その石が以前は名所となっていたようです。今この峠道は廃道となっているわけですから、その石が何処にあるのかは聞く人もいませんのでわかりませんが、上の写真右側の石がもしかしてその石なのかも知れません。 |
何かの施設跡を思わせるようなところを過ぎて、峠への最後の急坂を登り始めるところに右の写真のような、道の両脇が土塁状になっている、みごとな掘割状遺構が現れました。ここまでの荒れ放題の廃道にこれだけの掘割状遺構があるとは思ってもみませんでしたので私自身は、おおいに感激してしまいました。 | ![]() |
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この掘割状遺構は鎌倉街道跡などで良く見掛けるものとくらべて、道幅や土塁状の形態がよく似ています。長さは50メートル有るか無いか位ですが、明らかに人手が加えられている地形です。土塁状に上がって見てみると、道というよりも城跡などの空堀のようにも見えます。手前の施設跡のようなところと関連がある遺構なのかも知れません。 |
右の写真の道跡は、笹と倒れた木の枝などで完全に覆われていますが、以前は道であったことが想像できるところです。坂の上から落ちてきたものでしょうか、大きな石が道跡の中央に転がっていたりします。入山峠は古代の東山道が通っていたとも考えられているわけですが、この付近のジグザクに屈折した狭い幅の道跡からは、平均12メートル幅の直線的な古代駅路と同じ道とは考えがたいものがあります。ただこの急登を直線で上れるわけでもないことも確かではありますが。 | ![]() |
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左の写真では路面や路端の石や岩に苔が付いていて、最近に人が通った痕跡は全くありません。私のような物好きでもなければ、この峠の古道を歩いてみようなどと考える人もいないことでしょう。だいたいここまで来るには道無き山登りを心得た人でないと来れません。この道跡は古そうではありますが鎌倉街道と紹介して良いものなのか・・・? |
ところでこの入山峠への群馬県側の上り口にあたる松井田町入山の一帯には佐藤性が多いそうです。源義経の家来に佐藤継信、忠信の兄弟がいたといいます。入山の遠入には三宝荒神を祀る神社があり佐藤一族の氏神だということです。言い伝えによると佐藤忠信の子である佐藤藍物信泰が落人としてこの地に土着したといいます。碓氷峠下の街道沿いには義経伝承が多く残っていて、安中市板鼻には義経の家来になった伊勢三郎の邸跡があったと『前橋風土記』にあるそうです。 | ![]() |
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左の写真は峠の東側直下の葛折りで上る急坂です。写真ではわかりずらいのですが道跡であることは間違いありません。面白いことに箱根旧街道のような石畳があったと思われる跡も見られます。足下の石の多くは上部から落ちてきたものなのか、浮石が多く極めて不安定です。山へ急坂で上る古道は付け替えが頻繁に行われているものなのか、他の峠の急坂などでは道の古さを感じないところが多いのですが、ここの峠の急坂の道跡は古そうな雰囲気が感じられます。同時に石畳の跡などはそう古くない時代まで人の往来があったことを窺わせるものでもあります。 |
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上を見上げると垂直に近い崖の岩肌が覆い被さるようにそそり立っています。この崖からも落石があるものと思われます。この場所は上からの落石と足下の不安定な路面と非常に危険な場所のようです。新道ができたことにより急坂の古道は自然と廃道になってしまったのでしょう。 |
なるほど、この足場が悪く又落石の危険がありそうな道は人が通らなくなるのも、そういった見方からは頷けなくもありません。人通りが少なくなると道は荒れて行き、足下のおぼつかない路面は人が通らなければ更に風雨の浸食を受け、そして露出した浮石などは急坂では落石の原因とも成りかねなくなるのです。こうして人々は寄りつかなくなってしまい廃道となる。これが新道ができたところの旧道の運命というものなのか。 | ![]() |
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