鎌倉街道研究の発端となった木更津市の示道標
小熊吉蔵氏の上総に於ける古街道研究から
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昭和7年(1932)に郷土研究家の小熊吉蔵氏がまとめられた『西上総に於ける古街道の研究と国府郡家所在地との関係』という文献があります。私のホームページの主題である鎌倉街道の探求は、中世古道から始まり古代の官道へと導かれてきました。そのような古道研究のお手本のような資料が小熊氏がまとめられたものなのです。
左の写真は小熊氏の鎌倉街道研究の発端となった示道標です。これは木更津市中烏田の曲り坂という三差路の道端に建つ石仏を兼ねた示道標です。
木更津市中烏田の曲り坂三差路にある示道標

小熊吉蔵氏の『鎌倉街道と大街道に就いて』から

上の写真の示道標はどこにでもある、ごく有り触れた古い示道標に見えますが、この示道標には左のように文字が刻まれています。

「右は からす田道」の烏田は地元の地名です。「左は 高くら道」は木更津市矢那にある巡礼所の高倉観音への道を示しているものです。そして中央の「北 かまくら道」が鎌倉街道への道を指しているものだそうです。

現在この示道標は電信柱の隣に建っていて、この前を通る人や車は示道標には目もくれずに通り過ぎて行きます。逆に私のように珍しげに写真など撮っていようものなら、変な人で狭い道に邪魔な人間と思われてしまいそうです。私は近づいて刻まれている文字を読もうとしてみたのですが、石面の風化摩滅が激しく文字らしき刻みが微かに見られるだけでほとんど上の文字を確認することが出来ませんでした。

歴史古道を示唆する示道標なのでありますが、石面の摩耗状態や示道標の置かれ方からみて、私にはこの示道標は丁寧に扱われているようには思われません。私はこの示道標は小熊氏が語っている示道標とは違う物かと我れを疑ったほどです。

小熊氏は研究書の中でこの示道標のことを知った切っ掛けとして、東京帝大図書館内で元内務省地理局が明治十八、九年頃に大日本国詩編集の目的をもって収集した資料の中に「かまくら道」と書かれた示道標があることを発見されたそうです。

中に君津郡波岡村元中烏田村字曲り坂に鎌倉道の示道標の在ることを発見し珍しく思ひたり。

その研究資料には更に、内務省地理局員がこの示道標を発見した当時の記録によれば、建久年間に建てたものと記録してあったそうです。しかし示道標の形態から見てそんなに古いものとは考えられません。おそらく鎌倉時代にこういう型をした石造仏は無かったのではないかと思います。これは江戸時代も後半のものだと思われます。近世の地誌等で鎌倉街道という言葉か多く使われだした頃に、ここ上総にも鎌倉街道と伝わる道があったことを石に刻んだものなのでしょう。

この示道標は以前は三差路の中央に立っていたといいます。現在は南の烏田川沿いから坂を登ってきた舗装路(右は からす田道)が、示道標のところから丘陵上を北東に向かう、右の写真の道(左は 高くら道)へと続いています。車がやっと一台通れるほどの幅の道ですが、車の往来は意外と多いようです。右の写真の道を更に進むと左手一帯は区画整理事業が施工されている広大な造成地となっています。問題の(北 かまくら道)に当たると思われる道は示道標のところから北西に木更津市中心地方面に向かう道のようです。その道は現在では人が一人通れるほどの草に埋もれた道になっています。


示道標が建つ三差路付近の道(北東方向を撮影)

左の写真は示道標のところから木更津市中心方面へと向かう道の途中を撮影したものです。この道は真舟と桜井の境界尾根上を通る道となっています。ただ道の荒れ具合から、現在はこの道を利用する人はいない様子で廃道寸前の道となっています。道の尾根上は雑木林や竹林となっていますが、尾根のすぐ北側崖下は真舟の造成住宅地となっています。はたしてこの道が示道標にある「北 かまくら道」へと向かう道でよろしいのでしょうか。何はともあれ進んでみることにします。
示道標から北西へ向かう尾根上の道

尾根道の途中にある志学館学校付近で畑仕事をしている人に、この道が鎌倉街道であるか聞いてみました。その方は首を傾げてわからないと言われました。どうしてここが鎌倉街道なのかと場違いな質問をされて戸惑っている様子でした。何だか突拍子もない事を尋ねてしまったようでした。この道からやや逸れた付近でも人に出会ったので鎌倉街道のことを聞いてみましたが、やはり不思議なことを尋ねる人だと思われてしまったようです。結局、この道が「北 かまくら道」を指す道であるのかを突き止めることは今回は出来ませんでした。
示道標から北西へ向かう道

地名から鎌倉街道を突き止めた研究

小熊吉蔵氏の研究書には次のように書かれています。

示道碑所在地より北に當りて踏査せしに木更津に向ひたるが如くなりき。其後根形村役場(袖ヶ浦市)に就いて字名を調査したるに元野田村にて『鎌倉街道』と言ふあり、平岡村役場(袖ヶ浦市東部)に到りしに仝村川原井に字『鎌倉通り』と言う所ありき。
右二箇所を基点として踏査を試みたるに右『鎌倉通り』は君津郡と市原郡の郡界に當り戸田村中高根及姉崎町の内椎津新田の飛地に接し此所より西に向かって現今の懸道の如き古道にて大体市原郡と君津郡の郡界をなし西根形村に入り東戸田村に入るものありて今尚鎌倉街道と呼び居ることを知れり。

小熊氏は碑のかまくら道の上に「北」とあるので、この示道碑の北方を調査したところ現在でいう袖ヶ浦市と市原市の境に鎌倉街道と呼ばれる道があることを突き止めたのでした。更に次のようにあります。

鎌倉街道に沿ひたる地名を挙ぐれば北は姉崎町椎津新田(飛地)、深城、天羽田、君津郡長浦村蔵波、根形村野田にして南に沿ひたる地を挙ぐれば平岡村川原井、上泉、下泉及根形村岩井、大曽根、三ッ作 いずれなり。
何れも現今尚道路として使用しつつあれども往古の状態は略之を失ひたるが如し。所によりては道幅十間位もあらんかと思はるく所あり、土手が道路の両側にあり其の上に大木の並木をなせるものありしを想像せしむべき所もあり。又之れに沿ひて古桜の樹齢数百年ならんかと思はるくが花時は今尚爛漫たるものあり。
之れに沿ひて古墳あり、白旗森あり、傾城窪と称する特殊の地もあり鎌倉時代に守護地頭等の人々が家来を率いて鎌倉へ往復せし昔を偲ばしむ。

左の写真はこれも同じく示道標のところから木更津市中心方面へと向かう道の途中を撮影したものですが、この道、意外と鎌倉街道の特徴を持った道なのです。古道愛好家の私は研究家ではありませんのでこの道が中世まで遡るものかどうかと言うことはできませんが、鎌倉街道の特徴である地名の境界線の尾根道で、しかも登り下りの高低差が少なく地形のわりには直進性を持った道のようです。現在は道の北の真舟(請西)側は造成されていますが造成以前はどのような道であったか知りたいところです。
示道標から北西へ向かう道

海を渡る地点を暗示させる『渡海面』

上総の鎌倉街道は何処かで東京湾を相模国へと渡るところがあったはずなのですが、小熊氏の研究書には次のように書かれています。

木更津町貝渕の人伊藤亀之助の調査に依り貝渕の南方字『渡海面』と称する地あるを知り踏査を試みしに前述中烏田示道碑の示せるものも平岡根形方面より来れる鎌倉街道も二つながら此の渡海面より乗船して彼地に赴くことを確あたり。
木更津より乗船して何れの地に上陸せしかは『廻國雑記』の示す所によりて知ることを得たり。

前略『浦川の湊といへる所に至る ここは昔頼朝卿の鎌倉に住ませ給ふとき金澤榎戸浦河とて三つの湊なりけるとかや 云々』

之に依りて地形上木更津より渡海せんには金澤か榎戸に着陸すべきを思ふ。
而して茲に傍證となるべき一話あり。木更津町の北端に祀れる吾妻神社は昔金澤の称名寺が別當たりし事ありと、されば金澤より上陸したるにて彼の朝比奈堀切を通りて鎌倉に入りしことを知られたり。

木更津市貝渕村を中心とした地域に「いざ鎌倉」と言う合言葉があったと伝えられていたそうです。『渡海面』は、文字通りに海を渡るところからきた地名と思われます。また、頼朝が石橋山で敗戦し安房に逃れて来たときに房総を北上途中でこの地付近を通った伝説があるようです。周准郡波岡村を多少の軍勢を連れて通っていた頼朝に村人が将軍の印の旗竿を渡したことから、頼朝は喜んでこの地を旗竿(畑沢)と命名したと伝えられているそうです。

小熊氏の研究書の中にもあるように吾妻神社をはじめ上総には金沢称名寺の別当になる神社・寺院が多いようです。鎌倉時代、与宇呂保(現市原市中高根?)には北条氏一門の金沢氏の所領があったといいます。これら相模国金沢との拘わりの多い事柄から、木更津付近と金沢六浦は直結していたことが窺われるわけなのであります。

現在は木更津市から東京湾アクアラインが対岸の川崎市へと連絡しているのは不思議なめぐり合わせであります。

示道標から木更津中心方面に向かう道は、ほとんど廃道に近い尾根道でしたが、途中で右の写真のような樹木に覆われた塚を発見しました。塚上には古くはなさそうですが首の無い石仏がありました。このような塚があることはこの道が単なる山道で無いことを物語ります。そしてこの塚の尾根反対方向(尾根の南側)に狭いながらも堀割道跡があるのを確認しました。その堀割道は完全な廃道のようで、草藪がひどく写真に納めることはできませんでした。
示道標から北西へ向かう道の途中にある塚

そして塚の手前付近の草藪の中に左の写真の石仏を兼ねた示道標を発見しました。このような石造物があることで、この道が古道であったことを裏付けることができます。そして石造物が示道標であるということは、ここが道の分岐点であることを教えてくれます。分岐する道の一本がこのまま木更津市中心方面へと向かうもので、また別の一本は塚の南にある堀割道へ続くもののようです。示道標には「きさら津」と「さくらい」と書かれているのが私にも確認できました。「さくらい」と書かれている方向の道が堀割道方面のようです。
示道標から北西へ向かう道に建つ別の示道標

鎌倉街道と大街道

小熊氏の研究書には「大街道と国府郡家の所在に就いて」という項があり鎌倉街道以前の古道についても語られています。

鎌倉街道と大街道とは所によりては甚だ紛らはしきものなきにしもあらざれども素より性質を異にし時代に於いても同じく古昔の街道ながら大に先後あるものなれば之を大観すれば極めて明瞭となるべし。

小熊氏は鎌倉街道の平岡村、姉ヶ崎町、戸田村の三町村の境界点に近いところから鎌倉街道に接続する戸田村の地籍内に字『大街道』と呼ばれる地があことを語り、更に、鎌倉街道の平岡村、根形村、長浦村の三村の境界点付近から斜めに南西に向かう古道があって、現在はその跡を失っているが元は鎌倉街道に比すべき古い街道であったと語られています。道の両側に土手があってその上には古松が並び立っていてこの古道が何と呼ばれていたかはハッキリしないが、おそらく大街道の延長ではいかと言うことのようです。

大街道とは甲の国府から乙の国府に至る昔の国道にして其の中間各郡の郡家所在地を通過するを常とせり。

小熊氏は大街道と鎌倉街道はある点では一致しているが、多くの場合いは全く方向を異にしていて時代的考察からも異なる道と区別していたようです。これは現在各地に残る鎌倉街道と呼ばれる中世の道が、古代から踏襲されてきた道を利用したという考え方にピッタリ合うように思われます。小熊氏は下総から上総・安房へと向かう大街道の大凡のルートを挙げ次のようにまとめています。

以上通過せる下総国府より上総国府に到りそれより海上、望陀、畔蒜、周准、天羽各郡の郡家所在地を経て安房の国府に到るは是れ即ち王朝時代大化改新の頃より始まり鎌倉幕府當初の頃まで約六百年の永き年月続きて交通道路の幹線となり

小熊吉蔵氏の鎌倉街道研究を、地名から古道ルートを突き止めた点、鎌倉との繋がりで上総から東京湾を渡海した湊の地点、更に古代道とのかかわりなどから見てみました。これは昭和初期頃の研究書ですが古道というものの着眼、情報集積、発想等と今日でも私のような古道愛好家にとっては良き参考資料だと思っています。

小熊氏の鎌倉街道研究は房総地方における中世・古代道についての先駆け的なものでした。別のページで紹介する「山谷遺跡」は小熊氏が地名から探りあてた鎌倉街道ルート上にあたるものです。ただ大街道と古代道の関係では近年研究者の間では意見が分かれるところがあるようです。具体的なことは「山谷遺跡」等を紹介したページをご覧頂きたいと思います。

中烏田の示道標から「左 高くら道」へと向かうと、途中で木更津の街並みや海が眺められます。その一方でこの道沿いに不法投棄が目立つのは残念なことです。やがて新しくできた館山自動車道を渡る橋が右手に現れ、そこから東に向かう道は鎌倉林道と呼ばれているようです。古道はその林道を進み矢那川沿いの上総鋳物師の集落へ向かうもののようです。そして板東三十三ヵ所霊場の高倉観音高蔵寺に至ります。高倉観音付近には「鎌足」と呼ぶ地名があり藤原鎌足の誕生の地という伝説があるようです。更にこの道の延長は真里谷武田氏の本拠や笠森観音などを経て上総介広常が鎧を奉納した一宮の玉前神社へと至る鎌倉道の一つと考えられているようです。


示道標から北西へ向かう道

このページの最後の締めくくりとして、一言書かせて頂きたいことがあります。ページの始めでも触れたように上総の鎌倉街道研究の発端となった中烏田の示道標は現在その存在を知る人は地元の人でも少ないものと思われます。歴史的石造物としては、その価値を見いだされていないようにしか私の目には映りませんでした。(電信柱の傍らに置き場に困ったように建てられている姿は丁寧に扱われているものとは思えません。)また、示道標付近の高台から360度見渡す限りに目に飛び込んで来る土地開発で崩された山々は、果たして有効な開発なのか考えさせられるものがあります。自然を壊してそれっきりにならないことを願いたいものです。

木更津の道標  下新田-立野  立野-姉ヶ崎  上総国分寺
西上総表紙