歌合戦:出場歌手 田原俊彦


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田原俊彦:昭和55~61年

 言わずと知れたジャニーズ出身のアイドル。 ジャニーズといえば、姉妹や女子同級生が勝手に写真や履歴書を事務所に送り・・・というのがよくあるパターンであるが、彼の場合は自らジャニーズ事務所へ履歴書を送り、返事が来ないので事務所に乗り込むという積極的な売り込みでデビューのきっかけをつかんでいる。
 また、実家が山梨県のため、高校卒業までは週末は上京してダンスのレッスンを受けるという生活だったらしい(大昔に、アイドル雑誌で読んだ時は、ダンスのレッスン料は事務所負担、交通費は自腹と書かれていたけど、ウィキペディアを見ると交通費も事務所が出していたみたい)。

 1979年(昭和54年)にドラマ「3年B組金八先生」に出演し人気爆発。 1980年(昭和55年)に「哀愁でいと」でデビューしいきなり大ヒット。 同期にはレコード売り上げではほぼ互角、歌唱力では大差をつけられた松田聖子がいたが、新人賞レースでは連戦連勝。 なんでだろう。
 ちなみに当時は田原俊彦ファンがテレビ番組や雑誌で共演の多い松田聖子に嫉妬し、テレビ番組で隣同士になればもちろん、新聞のテレビ欄で2人の名前が隣になるだけでも抗議の電話が殺到したらしい。 アホか。

 この年の第31回歌合戦には2人そろって初出場。 共に2番手として登場し、ヤングアイドル同士の対戦となる。
 田原俊彦の応援には「3年B組金八先生」で共演し、当時たのきんトリオとしてグループとしても活動していた近藤真彦と野村義男が登場。 スクールメイツ、田原俊彦専属のバックダンサーだったジャパニーズ、近藤真彦と野村義男の応援をバックに、倍速モードのようにテンポの速い(2コーラス歌っても2分かからない)「哀愁でいと」を歌唱した。

 その後2回は、歌が下手だったり出場回数の少ないアイドルにありがちな白組2番手での登場となる。 よく考えたら、初出場から3年連続で白組2番手か。
 第32回(1981年、昭和56年)は、初出場で涙をこらえながらの歌唱となった石川ひとみを紅組歌手が暖かく迎える後ろで歌い始めるというアウェーな状況で、「悲しみ2(TOO)ヤング」を、第33回(1982年、昭和57年)は河合奈保子の次に「誘惑スレスレ」をエアロビをしているようなレオタード姿のダンサーを引き連れて歌い踊った。
 この3回、登場はずっと序盤だったが、そして髪型はずっとカリフラワーみたいだったが、歌唱時間がだんだん長くなっている。

 1983年(昭和58年)、白組2番手が定位置だった彼の扱いが変わる。 1983年と言えば、日本歌謡大賞で彼の「さらば…夏」が大賞を受賞した年。 「さらば…夏」は、カナダの人気歌手(若いころはアイドル的な人気だった)ポール・アンカ作曲の、大人へと成長した田原俊彦をアピールするのにうってつけの曲。 この年の第34回歌合戦では、「あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭」でゴールデングランプリを受賞した松田聖子と共に後ろから数えて6番目という位置に登場する。 松田聖子が三日月に腰かけて上から登場ならこちらは下から、とオケピから登場した田原俊彦は歌い終わると、ひょっとすると歌合戦独自かもしれない、仰々しいエンディングとともに客席に背を向けながらセリに乗ってステージの下へ退場していった。 この年、初めて歌唱時間が約3分となった。

 その後は「実は当時のジャニーズの中でも踊りが抜群にうまい」という彼の利点と、「聴かせることだけでなく魅せることも重要」という時代の流れに気づいたNHKの演出方針がうまくかみ合い、田原俊彦は番組の要所に登場することになる。
 第35回(1984年、昭和59年)は、番組の後半、ステージ上に噴水を登場させ、豪邸の中庭のようなセットの中、沢田研二髙橋真梨子田原俊彦小柳ルミ子と4曲をつなぐメドレーの中に登場する。 「チャールストンにはまだ早い」をいつも通り軽やかに歌い踊っていたところ、間奏のダンス中に滑って両手をついてしまい(多分、沢田研二が演出で使った血のりが原因)、ものすごく悔しそうな顔をしていた。
 第36回(1985年、昭和60年)は番組前半ではあるが、この年の日本レコード大賞を受賞した中森明菜を対戦相手にして、オリコンシングル1位を獲得した「華麗なる賭け」を歌った。 この時は、中森明菜田原俊彦小柳ルミ子郷ひろみとやはり4曲をつなぐメドレーだった。 よく見ると、第35回も第36回も、田原俊彦とセットになっていたのが、やはりダンスに重点を置くようになっていた小柳ルミ子だった。
 第37回(1986年、昭和61年)は2人のダンス対戦となり、ひところで言うところの小林幸子美川憲一の豪華衣装対決のような見せ場となった。 歌唱曲も、小柳ルミ子の「乱」に対して田原俊彦は「あッ」と、短さを競い合っているかのようだった。

 このままうまく大人のアイドルの道を進むかと思われた第38回(1987年、昭和62年)に、まさかの歌合戦落選。 徐々に下降していたレコード売り上げが問題視されたのかもしれないが、既に「華麗なる賭け」の後はシングル1位から遠ざかっていたし、売り上げ枚数も10万枚を下回るようになっていた。 第37回に出場して第38回は出場できなかった最大の理由はこの年の歌合戦の方針変更(アイドルより実力のある歌手を重視)だろうか。
 出場歌手の選考に関しては、選考に漏れた歌手のファンから抗議があるのは毎年のことだが、この年は田原俊彦ファンからの抗議の電話が殺到。 特に中年女性からの抗議が多くて関係者を驚かせたらしい。 若者人気だけではないことがわかっていたら、NHKも落選させなかったかもしれない。

 落選翌年の1988年(昭和63年)、テレビドラマ「教師びんびん物語」がヒット。 主題歌「抱きしめてTONIGHT」もレコード売り上げ的には大ヒットではないもののロングセラーとなり、有線リクエスト、ザ・ベストテン、歌のトップテンなどで軒並み年間1位を獲得。
 当然、この年の第39回歌合戦にも問題なくカムバック。 のはずだった。 発表された出場歌手の中には田原俊彦の名前もあったが、これは出場依頼を受けたレコード会社が承諾しただけで本人は聞いていなかったらしく、後日田原俊彦は辞退を表明。
 彼に言わせれば、「別れた女性から『またつきあって欲しい』と言われたような感じでOKできなかった」んだそう(アイドル雑誌に書かれていた)。

 その後、1989年(平成元年)の「ごめんよ涙」、1991年(平成3年)の「雨が叫んでる」などドラマ主題歌をヒットさせるものの、やはり歌合戦の舞台へは戻ってこなかった。

 ところで、本当に歌が下手なのだろうか。
 こんな証言がある。 後年ミュージカルへも進出した田原俊彦は1990年(平成2年)に「マランドロ」というミュージカルに主演した。 このミュージカルは歌のメロディが独特で、出演者は歌えるようになるまで苦労したらしいが、いち早く正しい音程で曲を覚えたのが田原俊彦だったとか。

 デビュー当時は確かに歌が下手だったと思うが、踊りだけでなく歌に対しても向上心を持っていた数少ないジャニーズ事務所出身の歌手だったのかもしれない。
 そんな向上心から生まれた高いプライドが仇となったか、芸能界を干される形になって現在に至るのが残念。

最終更新 2017年8月11日