目が覚めると、妻はもう食事の支度をしていた。妻以外との交合 

 の夢を見た後では、さすがに決まりが悪かったが、素知らぬ顔で尋 

 ねる。 

 「昨日は何時ごろ帰ったんだ」 

 「一時頃かしら。終電車よりは前だったから。あなた、幸せそうに 

 熟睡なさってたわ」 

 「そうか」 

  それだけの会話を交わすと、話すこともなくなってしまった。妻 

 とはここのところ夜の生活もない。意識して避けているわけではな 

 いのだが、妻の体調がすぐれなかったり、私の帰宅があまりに遅か 

 ったりするのだ。ここのところ、妻が頻繁に出かけるようになった 

 せいもあった。妻も自分も性的には淡白になったのだろうと思って 

 いた。しかし、先ほどまでの激しい夢のことを思うと、自分もまだ 

 それだけのエネルギーが残っていたのかと意外だった。もしかした 

 ら、妻も同じように性的な欲望を失っていないのかもしれない。 

  無言で朝食を平らげると、重い鞄を持って玄関へ向かう。 

 「いってらっしゃい」 

  習慣になっているキスを交わす。和江の身体をしっかりと抱き留 

 めると、舌を差し入れた。乱暴に胸を揉みあげる。一瞬、和江の身 

 体が落ちるような感じに脱力する。 

 「ふざけないで、遅れるわよ」 

  強く引き離すように手を突っ張ると、和江は逃げてしまった。昨 

 日、遅くまで飲んでいて疲れているせいもあるのだろう。妻の身体 

 を心配しながらも、中途半端な性欲を持て余して、久田は玄関を後 

 にした。 

  

  研究室の席に着くと、まずはメールボックスを開く。研究員同士 

 の連絡がいくつか、出入りの業者から、メーリングリスト、メール 

 マガジンと、大抵は二十通以上のメールが届いている。これを処理 

 するだけでも、小一時間かかる。「緊急・打合せ確認」のメール。 

 差出人は、山岸智子。パーティションで区切られた周囲を見回して 

 から開くと、午後七時に例のバーラウンジでと指定されていた。こ 

 れは、デートの誘いなのか。その真意を量りかねたが、今朝のこと 

 もあって久田はOKの返事を送信した。何年ぶりにか、胸が心地よ 

 く鳴った。いまさら男と女の関係になることはないだろうが、昔を 

 思い出し一時の恋人気分に浸るのも楽しい。昨日はあれほど後ろめ 

 たさを感じていたのに、今はそれほど負担には思わなかった。 

  

  十分ほど遅れてラウンジに駆け込む。窓際の席にはすでに智子が 

 待っている。照明を落とした店内でも、そこだけ華やいで見える。 

 きっちりとしたスーツに身を包んでいるのだが、それでも艶やかな 

 美貌は際立っている。 

 「実は、和江さんのことなんだけど」 

  久田が席に着くなり、智子は妻の名前を出した。ささやかながら 

 もロマンチックな期待感を持っていたところだったので、ちょっと 

 気分を削がれた。 

 「女房のこと、知っているのか」 

 「あら、あの頃、社内一の美人って評判だったのよ、彼女。それに 

 エンジニアとしても大したものだったらしいじゃない」 

  それは、久田も十分承知している。妻はそのキャリアを捨てて、 

 自分と結婚したのだ。 

 「最近、彼女をよく見かけるのよ」 

 「そうか」 

 「あら、いいの。男づれでも」 

 「まさか。三十過ぎだぜ」 

  そういって、しまったと思った。目の前の智子も同い年だ。 

  そんな言葉を聞き流して、彼女は笑って見せた。 

 「感心したわよ、いい男なんだもの。告げ口するのも嫌なんだけど、 

 まあ昔は他人というわけでもなかったんだし、教えてあげないと彼 

 方がかわいそうな気がしてね。まあ、そういうこと」 

  ここで慌ててはみっともない、という思いで、グラスに手を伸ば 

 す。酒の味はよく分からなかった。ただ冷たく冷やされた液体が胃 

 に落ちていくばかりだ。喉がひりついた。もう、二人とも何も言わ 

 なかった。それは久田にとって、ありがたいことだ。一人で飲み続 

 けること、それでいて側に智子がいてくれることが、どうにか彼の 

 心を支えているようだった。 

  気がつくと、玄関前でタクシーの運転手に起こされたところだっ 

 た。乗った記憶はないのだが、無事に辿り着けたようだ。のそのそ 

 と、財布を捜す。 

 「お客さん、お代はお連れの方から、もう戴いてますから」 

  照れ笑いを浮かべながら、車を降りるとまだ寒い風が頬を心地よ 

 く弄った。門灯も消えた我が家は、二人暮らしにはやけに立派すぎ 

 るように見えた。妻が何を考え、夫が何を感じていても、そこには 

 二人の生活という現実が存在しているはずだった。 

 (今日は、このまま眠ってしまおう) 

  それ以外の選択があるはずもないのだが、とりあえずそう心で呟 

 いて、久田は重いドアを開けた。今朝と同じ我が家の匂いがする。 

 フローリングのワックス、靴墨、整髪剤、そして二人の体臭。その 

 匂いは、何より心を癒してくれる。嬉しいような悲しいような気分 

 に襲われる。可笑しいくらい、頬を涙が伝った。 

  

  智子と待ち合わせたのは、またこのラウンジだった。妻に対する 

 疑念は捨て切れなかったが、生活はいつも通りだった。ただ淡々と 

 日常は過ぎていく。自分の知らないところで、妻が何をしていたと 

 しても、この日常が壊されないのならそれで良いような気がしてい 

 た。 

 (男というのは、哀れなものだな) 

  それが本当に男一般についてなのか、自分だけなのか分からなか 

 ったが、そう呟いた。グラスを唇に運ぶと、球形の氷だけがごろん 

 と転がる。 

 「お待たせ、呼び出しておいてごめん」 

  明るい声で、智子が現れる。珍しくスーツではなくベルベットの 

 ワンピース。ラウンジの照明に黒く映るが、注意深く見ると上品な 

 紫色をしている。靴も同じトーンのベロア。袖から伸びる白い腕は、 

 すらりと長い。出会うたびに、美しくなっていくようで、眼を見張 

 ってしまう。 

  先日のことを忘れてしまったのかのように、他愛もないことを話 

 し、屈託無く笑う。七年前にはなかった、明るさだった。自分の仕 

 事や生き方に自信をもてたからこそなのだろう。彼女の選択に間違 

 いはなかったのだ。グラスの酒を呷るのでもなく、かといって舐め 

 るのでもなく、すっと唇に運ぶ仕種は、小粋な感じがする。 

 「酒の飲みかたも上手くなったな」 

 「営業、長いから。汚い飲みかたも覚えたわよ。中州の接待では、 

 じゃんけんキスゲームも、王様ゲームもしたわ」 

  おどけて言って見せた眸があまりに悲しそうで、胸を衝かれた。 

 ベルベットの胸が鈍く反射して濡れたように見える。静かに智子が 

 グラスの酒を口に含む。東京タワーの灯が揺らいで見えた。 

  智子の舌は、ぞろりと口腔に潜り込むと、熱い酒だけを喉に落と 

 し込んで帰っていった。悪戯っぽく笑ってみせると、もう一度顔を 

 近づけて唇についた水滴を舐った。唇の端から撫ぜるように掃いて 

 いく。ちゅっ、と軽い音を立てて離れた。 

 「ごちそうさま」 

 そう言った智子の顔はやっぱり悲しそうに見えた。 

                              

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