藤原敏行 ふじわらのとしゆき 生年未詳〜延喜元(?-901)

陸奥出羽按察使であった南家富士麿の長男。母は紀名虎の娘。紀有常の娘(在原業平室の姉妹)を妻とする。子には歌人で参議に到った伊衡などがいる。系図
貞観八年(866)、少内記。地方官や右近少将を経て、寛平七年(895)、蔵人頭。同九年、従四位上右兵衛督。『古今集和歌目録』に「延喜七年卒。家伝云、昌泰四年卒」とある(昌泰四年は昌泰三年=延喜元年の誤りか)。
三十六歌仙の一人。能書家としても名高い。古今集に十九首、後撰集に四首採られ、勅撰集入集は計二十九首。三十六人集の一巻として家集『敏行集』が伝存する。一世代前の六歌仙歌人たちにくらべ、技巧性を増しながら繊細流麗、かつ清新な感覚がある。和歌史的には、まさに業平から貫之への橋渡しをしたような歌人である。

  3首  8首 物名 2首  5首  2首 計20首

正月一日、二条の后の宮にて、しろき大袿(おほうちき)をたまはりて

ふる雪のみのしろ衣うちきつつ春きにけりとおどろかれぬる(後撰1)

【通釈】降る雪のように真っ白い蓑代衣――いえ頂いた大袿おおうちきを着ておりますと、暖くて、おや私のもとにも春が来たのだなあと気づきました。

【語釈】◇二条の后 藤原高子◇ふる雪の 「降る雪(を防ぐため)の」の意と、「降る雪のような(白い)」の意を掛ける。◇みのしろ衣(ごろも) 蓑代衣。蓑の代りにする雨着。「白」を掛ける。◇うちきつつ うち着つつ。袿(うちき)を掛ける。◇春きにけり 衣の暖かさに后の恩寵が我が身に及んだ喜びを含意する。

【補記】後撰集巻頭歌。清和天皇の后藤原高子より祝儀として白い大袿を賜わり、お礼として詠んだ歌。大袿はわざと大きめに作ってあるので、蓑の代りとして雨雪をふせぐ「みのしろ衣」と呼んだのである。先後関係は明らかでないが、古今集の高子の歌「雪のうちに春は来にけり」を踏まえているようにも見える。

【主な派生歌】
おのれかつ散るを雪とや思ふらむみのしろ衣花もきてけり(源俊頼)
雪のうちに春をきたりと知らするはみのしろ衣梅の花がさ(藤原定家)
旅人のみのしろ衣うちはらひふぶきをわたる雲のかけはし(藤原良経)

寛平御時、桜の花の宴ありけるに、雨の降り侍りければ

春雨の花の枝より流れこばなほこそ濡れめ香もやうつると(後撰110)

【通釈】春雨が桜の枝から流れ落ちて来たら、もっと濡れよう。花の香が移るかもしれないから。

【語釈】◇寛平御時 宇多天皇の御代。◇桜の花の宴 嵯峨天皇の時代に始まる。宮中の桜を賞美しながらの酒宴。

【主な派生歌】
桜がり雨はふりきぬ同じくは濡るとも花の蔭に隠れむ(読人不知[拾遺])

藤花の宴せさせたまひける時よみける

藤の花かぜ吹かぬよはむらさきの雲たちさらぬところとぞ見る(秋風集)

【通釈】藤の花は、風が吹かない夜には、紫色の瑞雲がいつまでも立ち去らない所と見えるよ。

【補記】醍醐天皇が飛香舎(ひきょうしゃ)で藤の花の宴を催した時、奉った作。藤の花房の群を紫雲(めでたい雲)に喩えている。「かぜ吹かぬよは」の「よ」は夜・世の掛詞で、御代が平穏であることを誉め讃える心を籠めている。新千載集にも採られたが、第二句を「風をさまれる」とし、聖帝の御代を讃美する意図をいっそう明確にしている。

秋立つ日、よめる

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今169)

【通釈】秋が来たと目にははっきりと見えないけれども、風の音にはっと気づいた。

【補記】古今集秋歌劈頭。立秋の日に詠んだという歌。「立秋の日から風は吹き増さる」という当時の常識――生活実感に基づく常識と言うよりも文学的な常識――を前提とし、「目に見る」「音に聞く」という対比のもとに季節の推移への気づきを詠んだのは、古今集の典型的な理知的作風と言える。もとより「風の音にぞおどろかれぬる」という秋の発見は平生の実感に基づこうが、その《実感》を生かしたのは、視覚・聴覚の対比という知的な構想なのである。一陣の涼風のようにさわやかな調べ・姿は比類がなく、「さやかに」の句が下句にも効いて響き、秋の訪れを告げる風の音が、鮮やかに聞き取れる。

【他出】新撰万葉集、寛平御時中宮歌合、敏行集、新撰和歌、古今和歌六帖、三十人撰、和漢朗詠集、三十六人撰、和歌体十種(直体)、奥義抄、和歌十体(直体)、俊成三十六人歌合、梁塵秘抄、定家八代抄、時代不同歌合、桐火桶、題林愚抄

【主な派生詩歌】
いつしかと荻の葉むけの片寄りにそそや秋とぞ風も聞こゆる(*崇徳院[新古今])
秋来ぬと荻の葉風にしられても春の別れやおどろかるらむ(藤原俊成)
秋来ぬと風やつぐらむ朝まだきまがきの荻のそよとこたふる(平忠盛)
吹く風の竹になるよは秋来ぬとおどろくばかり袖にすずしき(源有房[玉葉])
秋来ぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹かぜそよぐ夜は(藤原実定)
秋来ぬと荻の葉風のつげしより思ひしことのただならぬ暮(*式子内親王)
浅茅生の露けくもあるか秋来ぬと目にはさやかに見えけるものを(*守覚法親王[千載])
秋来ぬとおどろく風をたづぬれば目にさやかなる萩のうは葉を(慈円)
風の音はいまとほ山の木の間より目にはさやかに月ぞもりくる(藤原家隆)
冬きぬと時雨の音におどろけば目にもさやかにはるる木のもと(藤原定家)
秋来ぬと荻の葉風は名のるなり人こそとはねたそかれの空(藤原定家)
窓近きいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢(*藤原公継[新古今])
吹く風の色こそ見えね高砂の尾の上の松に秋は来にけり(*藤原秀能[新古今])
いつしかと朝けの風の身にしみてさやかにかはる秋は来にけり(藤原為家)
今よりの秋とは風にききそめつ目にはさやかにみか月のかげ(*正親町公蔭)
おしなべて霞むやいづこ天つ空めにはさやかに見えぬ春かな(後二条院)
なほざりの秋風よりも木枯のめに見ぬ冬ぞおどろかれぬる(飛鳥井雅世)
荻の葉のうちそよぐにも秋来ぬとおどろかれぬる人のわかれぢ(木下長嘯子)
秋来ぬと合点させたる嚔(くさめ)かな(与謝蕪村)
硝子(びいどろ)の魚(いを)おどろきぬ今朝の秋(〃)
目にも見えずわたらふ秋は栗の木のなりたる毬のつばらつばらに(長塚節)
秋たつや川瀬にまじる風のおと(飯田蛇笏)

是貞のみこの家の歌合のうた

秋の夜のあくるもしらずなく虫はわがごと物やかなしかるらむ(古今197)

【通釈】秋の長夜が明けるのも知らずに哭き続ける虫――私のように何か悲しくて堪らないのだろう。

【語釈】◇是貞(これさだ)のみこの家の歌合 寛平四年(892)頃、光孝天皇の第二皇子、是貞親王が自邸で催した歌合。敏行のほか、大江千里・紀友則・貫之・壬生忠岑など当代の代表歌人が顔を揃えている。但し判定の記録などは残らず、紙上の撰歌合であったとの見方もされている。

【補記】「自分の泣き明かした事は、余情としている」(窪田空穂)。

是貞のみこの家の歌合によめる

秋萩の花咲きにけり高砂のをのへの鹿は今やなくらむ(古今218)

【通釈】秋萩の花が咲いた。山の尾根の鹿は今頃妻恋しさに啼いているだろうか。

【語釈】◇高砂のをのへ 山の高いところ。頂上近くの、傾斜のなだらかなところを言う。◇今やなくらむ (妻を慕って)もう鳴くだろうか。萩の咲く頃が鹿の求愛の季節とされ、萩の花は鹿の妻にも擬えられた。

是貞のみこの家の歌合のうた

秋の野にやどりはすべしをみなへし名をむつましみ旅ならなくに(古今228)

【通釈】宿るなら秋の野に野宿しよう。「をみなへし」という名を慕わしく思って――。私は旅をしている身ではないけれども。

【語釈】◇やどりはすべし 野宿をしよう。「べし」は強い意志をあらわす。◇をみなへし名をむつましみ 「をみな」は女、特に美しい女を言う。「むつましみ」は愛着を持ち、なれなれしい態度でふるまう意。◇旅ならなくに 野宿をする必要のある身ではないが、ということ。

【主な派生歌】
木のもとにやどりはすべし桜花ちらまくをしみ旅ならなくに(源実朝)
よそに見てをらでは過ぎじ女郎花名をむつましみ露にぬるとも(〃)

是貞のみこの家の歌合によめる

なに人かきてぬぎかけし藤袴くる秋ごとに野べをにほはす(古今239)

【通釈】どんな人がやって来て着ていたのを脱いで掛けたのか。藤袴は、秋が来るたび野辺を美しく彩り、良い香りを漂わせるよ。

藤袴
藤袴の花

【補記】藤袴(ふぢばかま)はキク科の草で、高さ一メートルほどに育ち、初秋、茎の先に紫色の小さな花が群がって咲く。この花の名に「ふじ色の袴」の意を掛け、誰が来て着ていたのを脱いで掛けたのか、訝(いぶか)ってみせたもの。紫は高貴な色とされたから、「なに人」は身分の高い人を暗示する。ここは女性と見ないと風情がない。袴を脱いだら下半身があらわになるのだから、色気のある可笑しみを狙った歌である。なお「にほはす」には、衣に焚き染めた香を引っ掛けている。

【主な派生歌】
ぬぎかけし主はたれともしらねども一野にたてる藤ばかまかな(大江匡房)
藤ばかまきてぬぎかけし主やたれとへどこたへず野べの秋風(源実朝)

是貞のみこの家の歌合によめる

白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢにそむらん(古今257)

【通釈】白露の色は一色なのに、どうして秋の木の葉を多彩な色に染めるのだろう。

【補記】「露がおりると木の葉は紅葉する」という当時のコモンセンスをもとにしている。「一」と「千」の対比によって、黄・橙・紅、さまざまな濃淡にわたる紅葉のヴァリエーションの豊かさをより強く印象づけている。

【主な派生歌】
いかなればおなじ時雨にもみぢする柞の森のうすくこからむ(*藤原頼宗[後拾遺])
露のそめて色々になすもみぢ葉のまたいろいろに露をそむらん(慈円)

寛平御時、菊の花をよませたまうける

久方の雲のうへにて見る菊はあまつ星とぞあやまたれける(古今269)

【通釈】雲上界で拝見する菊は、天の星かと間違えてしまいました。

【語釈】◇久方の 「雲」の枕詞◇雲のうへ 宮中を天上になぞらえて言う。◇菊 この場合白菊。

【補記】菊は延命長寿の薬効があるとされた目出度い植物なので、賀意がこめられる。なお、菊紋が皇室の紋章となるのは後世のこと。

是貞のみこの家の歌合の歌

わが来つる方もしられずくらぶ山木々の木の葉の散るとまがふに(古今295)

【通釈】歩いて来た方角も判らない。ただでさえ「くら」い「くらぶ山」は、木の葉が散り乱れて見分けがつかずに。

【語釈】◇くらぶ山 鞍馬山の古称とされる。今も杉や檜の大木が繁る山である。

【補記】晩秋に「くらぶ山」を越える、という設定の歌。ただでさえ鬱蒼と木が茂ってくらぶ山に木の葉が散りまがい、どこをどう歩いて来たのかさえ分からない。たあいない洒落だが、「わが来つる方も」や「散るとまがふに」などの言い方に当時としては工夫がある。

【主な派生歌】
あは雪はふりもやまなむまだきよりまたるる花のちるとまがふに(藤原為家[玉葉])

物名

うぐひす

心から花のしづくにそぼちつつうくひずとのみ鳥のなくらむ(古今422)

【通釈】自分の心から花の雫に濡れながら、「憂(う)く干(ひ)ず」――翼が乾かなくて辛いとばかり、この鳥は鳴くのだろうよ。

【補記】古今集巻十、物名(もののな)の巻頭。「物名」とは、題として与えられた物の名を、意味を換えて一首の中に詠み込んだ歌のこと。「隠題(かくしだい)」とも呼ばれる。句にまたがって埋め込んだり、清濁を換えたりして、隠し方の巧妙さや意味の転換の奇抜な飛躍が競われたのである。この歌では「うくひす(鶯)」という題を与えられ、これを「憂く干ず」に読み換えて、しかも鶯を主題とした歌にしている。当時、仮名の清濁を書き分けなかったことは言うまでもない。

ほととぎす

くべきほどときすぎぬれや待ちわびてなくなる声の人をとよむる(古今423)

【通釈】「やって来るはずの時はもう過ぎたのだろうか。今年は聞き逃してしまったのか」と、人々が待ちあぐねた挙句、ようやく鳴く声が聞こえた。その声が人々を喜ばせ、歓声をあげさせる。

【補記】これも物名歌。初句から二句にかけて「ほととぎす」を詠み込んでいる。ホトトギスは夏から鳴き始める鳥と考えられ、立夏になれば人々は夜通しその声を待ち侘びたのである。「人をとよむる」は「人に歓声をあげさせる」意。ホトトギスが鳴いたあと、今度は人間たちが盛んに声を立てている、という洒落。

寛平御時きさいの宮の歌合のうた(二首)

恋ひわびてうちぬる中に行きかよふ夢のただぢはうつつならなむ(古今558)

【通釈】恋に悩んで悶々と過ごすうち、ふっと落ちた眠りの中で、あの人に逢えた。夢の中で往き来する道は、まっすぐあの人のもとに通じているのだ。現実もそうであったらいいのに。

【語釈】◇夢のただぢ 「ただぢ(直路)」は、目的地まで真っ直ぐに行ける道。◇うつつならなむ 現実であってほしい。「なむ」は未然形について希望をあらわす助詞。

【補記】現実には障害が多く、逢うことが難しい恋であることを余情としている。

【主な派生歌】
恋ひわびてうちぬる宵の夢にだに逢ふとは人の見えばこそあらめ(*藤原成範[千載])
人ごころかよふ直路の絶えしよりうらみぞわたる夢の浮橋(藤原定家)
いかにしてうつつの憂さとなりにけむ見しや昔の夢の通ひ路(宗尊親王[続拾遺])

 

すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(古今559)

【通釈】住の江の岸に寄る波は、昼も夜もしきりとやって来るのに、あなたは来てくれない。暗い夜でさえ、夢の通い路で、人目を避けるのだろうか。

【語釈】◇すみの江 摂津国の歌枕。今の大阪府の住吉大社付近の海。当時は入江があった。「すみ」に「墨」を意識し、静かな暗い海を暗示していると思われる(古今集の頃、和歌は平仮名表記が標準であったと思われるので、「住の江」とは書かれなかったはずである)。◇岸による波 ここまでが序詞。「寄る」から同音の「夜」を導く。そればかりでなく、波は昼夜問わず寄せることから第三句「夜さへや」全体にも響き、また岸を歩く時は波を避けるので、第五句の「よく」にも響くことになる、という、きわめてニュアンス豊かな有心(うしん)の序である。◇よるさへや (明るいうちばかりでなく)夜でさえも…か。◇夢のかよひぢ 夢の通ひ路。夢の中で恋人のもとへ通う時、魂が通ると考えられた道。◇人目よくらむ 恋人が来ないのは、人目を避けるからだろうか。「らむ」は原因・理由を推量する心。

【補記】女の立場で、「夢でさえ人目を憚って逢いに来てくれないのか」と、慎重過ぎる恋人を恨んだ歌。男の立場で女を恨むとする説や、「なぜ自分は人目を避けるのだろうか」と自問しているとする解釈もあるが、当時の常識からするとあり得ない。

【他出】寛平御時后宮歌合、敏行集(御所本)、古今和歌六帖、五代集歌枕、定家八代抄、近代秀歌(自筆本)、百人一首、歌枕名寄

【参考歌】小野小町「古今集」
うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

【主な派生歌】
波の音に宇治のさと人よるさへや寝てもあやふき夢の浮橋(藤原定家)
住の江の松のねたくやよる浪のよるとはなげく夢をだに見で(〃)
松かげや岸による浪よるばかりしばしぞ涼む住吉の浜(〃)
はかなしなみつの浜松おのづから見えこし夢の浪の通ひ路(藤原家隆[続拾遺])
見し人の面影とめよ清見潟袖にせきもる波の通ひ路(雅経[新古今])
菅原や伏見の里のささ枕夢もいくよの人めよくらむ(*順徳院[続後撰])
住の江の浪の通ひ路たがために春は霞の人めよくらむ(藤原為家)
夢にだになほ忍ぶとや逢はぬまは闇のうつつも人めよくらむ(近衛基平)
よし野河きしによる波山吹の花を名残の春なさそひそ(肖柏)

業平の朝臣の家に侍りける女のもとによみてつかはしける

つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし(古今617)

【通釈】何も手につかず物思いに耽っていると、長雨に増水する川のように涙の川も水嵩が増してくる。私は袖を濡らすばかりで、あなたに逢うすべもない。

【語釈】◇ながめ 詠め(物思いに耽って一点をじっと眺める)・長雨の掛詞。◇涙川 流れやまぬ涙を川に喩える。漢詩に見える「涙成河」などの表現に影響を受けているという。

【補記】『紀氏系図』によれば、敏行は紀有常の娘を室としているが、その姉妹は業平の室であった。敏行に嫁ぐ以前、姉である業平の妻と同居していたのであろう。伊勢物語百七段参照。

【主な派生歌】
五月雨はさてもくれにきつれづれのながめにまさる昨日今日かな(和泉式部)
なみだ川ながめにまさる袖のうへにせきかぬばかり人ぞ恋しき(藤原家隆)
大かたのながめにまさるたもとかな軒のしのぶの秋の村雨(順徳院)

寛平御時きさいの宮の歌合のうた

あけぬとてかへる道にはこきたれて雨も涙もふりそぼちつつ(古今639)

【通釈】夜が明けたからと帰って行く道には、雨も涙も、はげしくしたたって、衣をびっしょり濡らして降り続けています。

【補記】古今集恋三。後朝(きぬぎぬ)の歌を集めた歌群の最初に置かれている。明け方、女の家からの帰り道に詠んだ歌という設定。「こきたれて」「ふりそぼち」といった激しい、やや強引な詞遣いで、悲しみを誇張している。

女につかはしける

わが恋のかずをかぞへば天の原くもりふたがりふる雨のごと(後撰795)

【通釈】あなたに対する私の恋を数に置き換えれば、空いちめん掻き曇り降る雨のようなもので、とても数えられるものではない。

寛平御時に、うへのさぶらひに侍りけるをのこども、甕をもたせて、后の宮の御方に大御酒(みき)の下ろしと聞えに奉りたりけるを、蔵人(くらうど)ども笑ひて、甕を御前(おまへ)にもていでて、ともかくも言はずなりにければ、使の帰り来て、さなむありつると言ひければ、蔵人の中に贈りける

玉だれの子亀やいづらこよろぎの磯の波わけおきにいでにけり(古今874)

【通釈】題詞:宇多天皇の御時、清涼殿の殿上の間に侍っていた侍臣たちが、酒を入れる甕を使に持たせ、皇后宮(班子女王)の御所へ大御酒のお下がりを下さいとお願いしに差し上げた。ところが女蔵人(下臈の女房)たちは笑ってその甕を皇后の御前に持っていったものの、その後は何とも音沙汰がない。仕方無しに使は帰って来て、「こういう事情でございました」と言ったので、女蔵人のところへ贈った。
歌:子亀はどこにいるのでしょう。こよろぎの磯の波を分けて沖に出てしまったのでしたか。

【語釈】◇玉だれの 「子」の枕詞として用いる。◇こよろぎの磯 相模国の歌枕。いまの神奈川県大磯市あたりの海岸。◇おきにいでけり 「沖」に「奥=皇后宮の御前」の意を掛ける。

おなじ御時、うへのさぶらひにて、をのこどもに大御酒たまひて、大御遊びありけるついでにつかうまつれる

老いぬとてなどかわが身をせめぎけむ老いずは今日に逢はましものか(古今903)

【通釈】年を取ってしまったと、なぜ我が身を責めたりしたのだろう。老いるまで生きなかったら、今日のような良き日には出逢えなかっただろう。

【補記】詞書の「おなじ御時」は寛平御時、宇多天皇の御代。殿上の間で管弦の御遊があった時に奉った歌。思いかけず御遊に参加することを喜んでいる。敏行の歌には珍しく率直に思いを述べた歌である。

【主な派生歌】
いたづらにあたら命をせめぎけむ永らへてこそ今日に逢ひぬれ(藤原定家)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成23年05月31日