本名=今 東光(こん・とうこう)  
明治311年3月26日—昭和52年9月19日   
享年79歳(大文穎心院大僧正東光春聴大和尚)  
東京都台東区上野桜木1丁目14–53 寛永寺第三霊園  
 
 
                   
                   
                    小説家・僧侶。神奈川県生。兵庫県立豊岡中学校(現・豊岡高等学校)中退。大正10年川端康成らと第六次『新思潮』を、13年『文芸時代』を創刊。昭和5年出家得度、文壇から離れた。26年八尾の天台院住職となり、大阪河内人の気質や風土に親しんだ小説を発表した。『お吟さま』で31年度直木賞受賞。  
                     
   
                   
                                       
                     
                   
                   
                   
                   古来、多くの文学者は「永遠の女性」を創り出すべく努力した。それ等の女性は何等かの意味で、それぞれの作家の理想を描いている。それなのにお吟女という女性は実在した人物である。如何に実在したかによって、お吟女という女性を通して、僕は僕の「永遠の女性」を追求した。彼女の肉体は準縄の埒を越えているかもしれないが、しかしながらその高貴な魂は神を求めていなかったとは誰も断言することが出来ないだろう。それなればこそ権力もそれを奪うことが出来なかったのだ。  
                     秋から冬へかけて筆をとりはじめた。三十一年新年号に第一回が掲載された月、すなわち一月末に八十八歳の老母は僕の寺で死んだ。母と僕の愛僧激しい幕は下りた。さすがに僕は母のために平生は詠んだこともない歌を作ったものだ。  
                    川浪の清き河内にみまかりし  
                    たらちし母はよぺどすぺなし  
                     講演やら放送やら、あわただしい朝夕を送りながら、河内国に在住したおかげで思いがけない資料などにも恵れ、一ケ年をどうやらお吟女と共に、彼女の運命をたどることが出来た。僕は最後にお吟女のために次の言葉を贈りたい。これは、つねに殺される者の叫びだからである。  
                    『しっかりせよ。ジロラモ。世の人は永くお前を憶うだろう。死はつらい。しかしながら名誉は永久だ』(オルジァテイ)  
                                                   
                  (『お吟さま』跋文)  
                   
                   
                   
                    
                   すべてにおいて波瀾万丈、一言で言うならば天衣無縫の生涯であった。 
                     反骨の不良少年時代、東京帝国大学の講義を盗み聞きした青年時代、川端康成との生涯を通じての友情関係、菊池寛との決別、比叡山での仏門修行、大阪八尾天台院での河内生活、20数年ぶりの文壇復帰、大僧正として平泉中尊寺貫首、参議院選挙に立候補し当選等々、おおよそ並人生の数倍濃度の人生であった。 
                     昭和46年にS字結腸がんが発見されたが本人が手術をいやがり、2年後にようやく摘出された。しかしながらまもなく再発し、2年半後の昭和52年9月19日、肺炎を併発、千葉四街道市の国立療養所下志津病院で遷化した。無頼僧正を支え続けたきよ夫人は東光の祥月命日の平成20年9月19日に死去する。 
                     
                     
                   
                   
                    
                   破天荒な人物ではあったが、司馬遼太郎の今東光評はかなり温情に満ちている。 
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                     今東光の分骨は関係した平泉中尊寺や岩手県浄法寺町の天台寺、八尾の天台院、比叡山霊園のそれぞれに納骨され供養塔が建てられてある。 
                     谷中の墓地を抜け上野寛永寺境内を横切ったところ、上野中学校前の寛永寺第三霊園にある和尚の墓は石庭風にしつらえた塋域に石塔と柴田錬三郎撰文墓誌が配してあった。強い陽射しに枯れた供花が墓前に遊んでいるのを花生けに戻してみたが、一陣の風に舞ってころころと砕石に転がってしまった。 
                     
                     
                   
                   
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                      
                    
                    
                    
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