本名=今野大力(こんの・だいりき)  
明治37年2月5日—昭和10年6月19日   
享年31歳   
東京都府中市多磨町4–62 多磨霊園21区2種12側 (継承者がなく無縁墓地となったようです) 
 
 
                   
                   
                    詩人。宮城県生。有利里尋常小学校卒。小学校卒業後、新聞社の給仕を経て、郵便局に勤務、詩作を始める。昭和2年小熊秀雄らと詩誌『円筒帽』を創刊。その後、上京し、6年「日本プロレタリア文化連盟」(コップ)結成に参加。プロレタリア作家の道を歩み始めるが、7年検挙・拷問により重体、以後闘病生活を余儀なくされた。 
                     
   
                   
                   
                    
                     
                   
                   
                   
                   
                  小金井の桜の堤はどこまでもどこまでもつづく  
                    もうあと三四日という蕾の巨きな桜のまわりは  
                    きれいに掃除され、葭簀張りののれんにぎやかな臨時の店々は  
                    花見客を待ちこがれているよう  
                  私の寝台自動車はその堤に添うて走る  
                    春めく四月、花の四月  
                    私は生死をかけて、むしろ死を覚悟して療養所へゆく  
                    すでに重症の患者となった私は  
                    これから先の判断を持たない  
                    恐らく絶望であろうとは医師数人の言ったところ  
                  農民の家がつづく  
                    古い建物が多く  
                    赤や桃色の椿が咲く、家も庭も埋めるごとく  
                    今満開の美しい花々  
                    桜の満開のところがある、八重の桜も咲いている  
                  自動車は花あるところを選ぶ如く走る  
                    花に送られて療養所に入る私を  
                    療養所のどの寝台が待っているか  
                    二度と来ぬわが春とは思われる。春はおろか  
                    この秋までも、誰かこの生命を保証する  
                    私は死を覚悟の眼で美しき花々の下を通ってゆく  
                                                     
  (花に送られる)  
                   
                   
                   
                    
                   昭和7年の文化戦線に対する一斉弾圧で検挙された。その時の拷問の際にうけた殴打のため中耳炎になって健康を損ね、以後闘病生活を余儀なくされた。 
                     10年6月、中野区江古田の結核療養所に臥す大力の元に、詩友小熊秀雄らの『詩精神』6月号が届けられた。今野大力特集とされたその号には『花におくられる』『一疋の昆虫』『胸に手を當てて』の三篇の詩が掲載されていた。6月19日『一疋の昆虫』の如、〈南の方へ帰ることを忘れたか それともいかに寒く薄暗い北であろうと あるのぞみをかけた方向は捨てられぬのか〉——。 
                     肺結核で無念の死を遂げた大力の脳裏に浮かんだ最後の光景は〈暗いランプの灯ともる もの影淋しい〉故郷であったのか。 
                     
                     
                   
                   
                    
                   ある年の冬、朝日新聞のコラムで眼にした今野大力の名を私は忘れない——。 
                     昭和10年4月、武蔵野・玉川上水べり、あと数日で美しい花々を咲き揃わせるであろう桜並木を、死を覚悟の大力を乗せた寝台自動車は永遠に走り去った。 
                     大力の名を胸に刻んでから2年、肌寒い秋梅雨の暗い日だった。碑裏の建立者に記された大力の実弟邦男夫人和貴子の文字のみが、そのよすがである「今野家之墓」に哀しき詩人は眠る。 
                     ——〈詩人が時代の先驅をした 詩人が郷土を真實に生かした そんな言葉が 私の耳に流れて来ないかしら そんな言葉が 地球のどこかで語られる時 私のからだは 墓場の火玉となって消えるだらう〉と故郷旭川・常磐公園内の詩碑にある。 
                     
                     
                   
                   
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                      
                    
                    
                    
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