本名=長谷川利行(はせがわ・としゆき)  
                  明治24年7月9日—昭和15年10月12日   
                  享年49歳(正像院利行日描居士)  
                  京都市伏見区納所北城堀四九 妙教寺(日蓮宗) 
                   
   
                   
                  
                   
                    画家・歌人。京都府生。私立耐久中学校(現・和歌山県立耐久高等学校)中退。日本のゴッホといわれた異端の画家。大正10年上京後、関東大震災を詠った歌誌『火岸』を刊行、いつのころからか絵を描き始め、二科展で「樗牛賞」を受賞。木賃宿や簡易宿泊所に住み、酒におぼれた無頼の生涯を終えた。歌集『長谷川木葦集』がある。  
                     
                     
                   
                                         
                   
                   
                    
                  苦悩あるところには塩酸作用が働く。  
                    数年間、単に絵画精神があった。   
                    画廊に懸けられた絵画を抛打つ。  
                    絵画精神─真実の途あり。  
                    感動転移するところ、特色性あり。  
                    身を委ねて、新実在性、古典文が滞る。  
                    困難なる。点火せる隔離舎に棲って。  
                    蠱惑さが昆虫に類せるおよそ繊弱なるもの。  
                    小鳥の軽快さを許容する。  
                    美しい絵画に対しては、感覚もたぬブローグが居る。  
                    画家ではない、絵画ではない─シュールの研麗なる─  
                    径路─混淆性に拠りて明識せよ。  
                    愛の死体は、彼女たちが才媛たちであり  
                    組織彼女達は民族的なる彼女である。  
                    純粋絵画は少しも進歩して居らん。  
                    律動に充ちたるものが確実性を認められ、  
                    賦彩に富める。  
                    可憐なる。  
                    継承─眩躍性は、情婦を獲得して、朦朧として、朦朧としてである。  
                    「勇躍し、都会の凄い目隈をした淫乱なる女給に対(むか)へる。」  
                    生活の支持、瑠璃は欲しい。  
                    大きな作品は協約的なる衣裳を着用して居るやうです。  
                    嫌悪と倦怠とがあり、思い鴉片。  
                    茲で編み下げ少女の油彩がある。  
                    写真班は遅ればせには来る。  
                    垂直線と、チモリ、(鉛で出来てゐる。)  
                    装飾絵─むしろ目解的な。  
                    馬と女が似て居る。  
                    貴賤は動揺する。  
                    波濤は藍色にして。  
                  (ESSAYER)  
                   
                   
                   
                     
                   上野・不忍池弁天島にある熊谷守一揮毫「利行碑」の傍らに「放浪の画家・日本のゴッホ」と添え書きされた長谷川利行の略歴と二首の歌が記されている。 
                     人 知れず朽ちも果つべき身一つの今かいとほし涙拭はず 
                     己が身の影もとどめず水すまし河の流れを光りてすべる 
                     利行のフォービズム、はたまた哲学的・隠喩的現代詩のような詩風と似ても似つかぬ繊細かつ叙情哀感漂う歌である。 
                     ——昭和15年10月12日、東京市板橋養育院(現・東京都健康長寿医療センター)で無頼の果てに長谷川利行は死んだ。誰ひとり看取る者なく。荒れはてた放浪生活と胃がんによる衰弱は甚だしく5月中旬、三河島駅付近路上で行き倒れ、養育院に運ばれた末のことだった。 
                     
                     
                   
                   
                    
                   春の朝、菜の花は真っ直ぐな黄色。雲雀が鳴いている。鳥羽街道脇に影を曳く山門、幕末の戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いの砲弾痕跡が散見する妙教寺の本堂裏、右に傾いだり、左に傾いだり、4基の一族墓が並ぶ塋域。一番左の「長谷川家之墓」に利行は眠る
                    。 
                    行路病者として東京市板橋養育院・養護寮第二男室のベッドから転げ落ちて死んでいた男の碑。 
                     「描き棄てた絵は俺の排泄物にすぎない」と豪語していたという利行。 
                     荒々しいタッチと、激しい色彩、〈颶風(ぐふう)の、霊が、歩調で、輝く〉。 
                     画布を埋めた孤独の眩惑、タバコの箱やマッチ箱、何彼の切れ端、手当たり次第に描いた荒涼とした衝動、私はただ黙祷を捧げるのみだ。 
                     
                     
                   
                   
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                    
                     
                    
                    
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