本名=羽仁五郎(はに・ごろう)
明治34年3月29日—昭和58年6月8日
享年82歳
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種1号10側
歴史学者。群馬県生。東京帝国大学卒。大学在学中、クローチェの『歴史叙述の理論及歴史』を翻訳刊行。昭和3年三木清らと雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊、多くの論文を発表、『明治維新』『ミケルアンジェロ』その他の作品で軍国主義に抵抗し、知識人に感銘を与えた。『明治維新』『都市の論理』などがある。

文学は、ひっきょう、白鳥の歌であろうか。すべての芸術の美しさは、かぎりなきものへのかぎりあるものの愛情にあらわされるのであろうか。
日本人は、死しか知らなかった、と云う。しかし、もしそうだとするならば、生を知らずして死を知ることはできないのであろうから、日本人は、しんじつ、死を知っていたとは云うことができないのかもしれない。そして、そこに、武士道とは死ぬこととみつけたり、などといった菓がくれの文句などが、あれほどまでに日本の青年の純情をいけにえにした理由があったのではあるまいか。
「ひとびとこの生をおもんずべし」と云った人の言葉をしるしていた新井自石は、日本においてはじめて自叙伝の文学をつくった。生の意識は、自我または個人の発見なくしてはありえないのであり、個人の発見は、身分に生き身分に死んだ中世の封建主義の社会がたおれて近代の合理主義の社会が生長したところにのみ実現されたということを、日本においても新井白石のような思想家がその端緒をしめしていた、と考えることもできる。それにしても、『おりたく柴の記』、またこれとならんで、日本の初期の自叙伝とかんがえることのできる山鹿素行の『配所残筆』、このふたつのものが、いずれも人生の挫折の運命に画して書かれたものであることも事実である。それは、直接には封建的にうけとられた人生の挫折であったが、人生の挫折であったことにはかわりはない。
(生と死)
戦前戦後を通じて軍国主義に抵抗し、批判した羽仁五郎。終戦間際の昭和20年3月にも治安維持法違反で検挙されて獄中の人となった。
非転向を貫き通した強靱な意志を自負として〈この間の戦争で監獄の中にいなかった連中は、皆良心を失った連中でしかない〉などの過激な言動を常とした。反体制の教祖、進歩的知識人の代名詞に位置づけられる羽仁五郎だった。
藤沢市民病院に入院中であった死の一週間前、説子夫人がいつものように額に接吻をして帰ろうとすると、〈若いときみたいにしてくれ!〉とねだったというエピソードがあるように、晩年は幾分か和らいだ気分でもあったようだ。昭和58年6月8日、肺炎のため遠い眠りについた。
霜柱をサクサクと踏み砕きながら足をとられそうな危うい土道を分け入っていく。間口の長い塋域に『自由学園』の創始者「羽仁吉一・もと子」と「羽仁五郎・説子」夫妻の墓が並んで建っている。
〈戦争は今の君の心が起こすのだ。多くの人が平和を望んでいるに違いない。戦争はいやだ、あんな悲惨な思いをするのはもうたくさんだ、と思っているのだろう。それでも、戦争は君の心から起こるのだ〉と警告した反体制教祖の墓がここにあった。
暗く沈んだ空模様にもかかわらず、気は乾いているのか梢を飛び交う小雀や百舌鳥の声だけがデジタル音のようにクリアに聞こえる。『自由学園』旧校舎に近い霊園、人影もなく静寂の朝だった。
|