山口の歴史に最初に固有名詞で登場する人物は、孝徳天皇である。大化元年(645)から白雉5年(654)の9年に渡って在位した第36代天皇である。日本書紀には、647年の孝徳天皇の有馬温泉行幸の記述があり、公智神社の参道入口には「孝徳天皇行在所祉」の石碑がある。
孝徳天皇の在位中の大化元年は、天皇の甥である中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺して大化の改新に着手した年である。孝徳天皇は時の実力者である中大兄皇子とその妹でもある皇后間人皇女のはざまで鬱屈した日々を過ごしていたといわれる。その鬱屈を癒すべく行幸されたのが有馬温泉であったと思われる。晩年は中大兄皇子や皇后間人皇女に離反され、失意の内に難波宮で亡くなった。皇子の有間皇子も中大兄皇子の謀略にかかり紀州で殺されるという悲劇の天皇でもあった。 |
孝徳天皇の皇子で母は左大臣・阿部内麻呂の娘・小足媛である。
山下忠男著「町名の話−西宮の歴史と文化−」には、『山口と有間皇子』という項目の中で「有間皇子は、孝徳天皇が有馬温泉滞在中に懐妊もしくは誕生した息子で、その名は山口とも縁深い有馬温泉に因む(有馬温泉を古代では有間と表記していた)」という説を紹介している。
「古代においては、皇子の名を生母の出身地や氏族名、あるいは養育した乳母の氏族名やその縁の地名に求める例は多い。有間皇子の生母は阿倍倉梯麻呂の娘・小足媛(オタラシヒメ)であるが、阿倍氏は有馬と無縁でない。古代の春木郷(現在の山口・有馬地域。山口には小字名でハルキが残っていた)に久々智氏という豪族がいたが「新撰姓氏録」によると、同氏は阿倍氏と同祖であり、阿倍氏の娘が生んだ有間皇子の乳母役をした可能性もある。」
尚、三田市にある金心寺の開祖・定慧上人は、小足媛が後に藤原鎌足に嫁いで生まれた鎌足の長男であると言われている。有間皇子とは同腹の弟になる。唐で修行後帰国し、兄有間皇子の菩提を弔う為に母小足媛の出所である阿部一族が支配していたこの地に金心寺を建てたといわれている。金心寺は山口ゆかり仏閣といえる。 |
文明7年(1475)、浄土真宗本願寺第8世・蓮如上人が、越前吉崎からの帰路、名塩に暫く留まられた折りに、名塩に教行寺の創建とされている草堂が建てられた。
山口村誌には、正明寺について「往古真宗中興の蓮如上人が、隣村名塩に駐錫して布教されたとき、この地方の人びとが上人に帰依し、同志の信者たちが結んで草庵を建てた。当寺もそのときのものと伝えられ・・・」と記述されている。また善照寺寺記には、「当初は浄土宗だった善照寺が、蓮如上人の来錫の折、上人に帰依する者が多く、浄土真宗になったと伝えられている」とある。また名塩村誌には蓮如上人の有馬温泉入湯や鎌倉谷見物の記述がある。
蓮如上人の名塩来訪や有馬入湯を機縁として山口では浄土真宗の信者が多数となったことがうかがえる。現在も6カ寺ある寺院の5カ寺が浄土真宗である。 |
山口村誌には山口五郎左衛門が、「天文年間から永禄にかけて、山口の地を支配していたという記録がある」と記されている。有馬郡誌の「古城址」の章には『丸山城』の記述のい中で山口五郎左衛門の以下の事跡を伝えている。
『(丸山城址は)山口村下山口にあり、城主は山口五郎左衛門時角という。多田源氏の一門にて山口の荘に居り、千足山金仙寺は菩提寺にして、館は金仙寺に在り、館の東丸山に保塁を築けり。此地は、生瀬口より東久保を経て、湯山と丹波道に至る分岐点にして要害の地たり。
天正6年(1579)、織田信長、摂津に下るや、当州の諸豪、或いは下り或いは抗戦す。時に山口氏は、立岩の城主山崎左馬助と対戦中也氏より、山崎氏は早く織田氏に欽を通じ、織田氏の部下・中川清秀、丹羽長秀、塩川国満等の大軍、当郡に攻め入るや、山崎氏は此の軍の先鋒となり、先ず丸山城を襲い、一挙して城を屠り、山口氏戦死し滅亡す。』 |
茨木一成氏著作「秀吉−三木合戦と有馬温泉−」には、次のような記述がある。
「天正7年(1579)、信長親子は荒木村重がたてこもる摂津有岡に向けて出京した。今回は信長の摂津滞在が長期にわたると考えた秀吉は、有馬郡山口荘(西宮市)の百姓達に、道路の普請を命じている。この山口荘というのは京から湯山(有馬温泉)に入る場合に、必ず通過する場所であって、秀吉は主君信長を湯山へ招く考えを持っていたものと思われる。」
また秀吉は天下統一の目途がついた1583年、初めて有馬温泉を訪れ、その湯治効果を愛しその後8回も足を運んでいる。その途上で山口を幾度も通過したと思われる。
また山口村誌には秀吉が文禄3年(1594)に山口の五カ村をの検地を行なったと記述している。世にいう「太閤検地」である。 |
『日本三大仇討ち』のひとつとして有名な「荒木又右衛門の鍵屋ノ辻」に山口が登場する。荒木又右衛門一行が寛永11年(1635)に、めざす仇の河合又五郎を追って山口に逗留したのだ。
長谷川伸作の小説「荒木又右衛門」には以下の記述がある。
『(前略)耳寄りな風聞が伝えられた。(中略)鳥取の家中のなにがしが・・・・有馬に又五郎が四、五人の武士と一緒に入湯中であったのを、図らずも知ったというのである。数馬は勢いづいて「兄上、有馬へすぐさま参りましょう」「うむ行こう」と又右衛門も賛成した。で今迄通り一行四人が出発した。丹生山田から、ほぼ北にある同じ摂津の有馬郡湯山に向った又右衛門は、すぐに有馬に行かず、有馬の北の山口というところで、数馬と孫右衛門をつれて宿をとった。』 |