トップ 歴史 伝説 歴史人物列伝 名勝旧跡 大化改新の真相  戦争体験記 

 有馬郡各村には、様々な史跡が残されている。「有馬郡誌」には第四篇に「古城址と名勝旧蹟」という篇を設けて郡内各村の史跡が名勝旧蹟として記述されている。有馬郡誌より、山口村の名勝旧蹟を「山口篇」と「船坂篇」に分けて拾ってみた。このサイトは「山口篇」である。
 往古、永蓮寺の在りし所にして、今猶ほ老いたる松樹数本あり。土地高燥、上山口の里を眼下に瞰て風光佳なり。
【コメント】山口村誌に『明徳寺寺記に、「当寺本尊は快慶の作、御丈弐尺五寸、当村上の山手に永蓮寺の古寺あり、兵火の為に焼失す、其の寺に有りしを当寺に安置す」とある』とい記されている。
 永蓮寺があったと言われる上山口墓地の近くで畑仕事中の地元のおじいさんに尋ねた。墓地の南東すぐの所にある小山を指して「あの山を昔からエレンジ(永蓮寺)山と呼んでいた」と教えられた。
地元の郷土史家も「確たる資料は明徳寺にもないが、上山口の人たちが昔からあの山を永蓮寺山と呼んでいると聞いているので、推測としては十分可能ではないか」とのこと。
 「榧(かや)の木」。廻り一丈五尺二寸、屋敷石崖の傾斜面にありて、半面約一丈五尺、半面五尺にて五本に分れ、更に二尺乃至五六尺伸びて、十数本に分れ、高さ約十間にして、枝の壙がり約百五十坪に及び、遠くより眺むれば、恰も森の如し。
 所有者、一ツ家宇之介宅は、上山口、有馬町の中間に、一軒よりなき時代より、ありしが為め茲に「一ツ家」と名付けたるものにして、此の老木は其の頃より存し、約五百年を経たるものと云う。
 旗山の頂上北方にある一大岩石にして、色漆黒なるが為め此の名あり。東方は名鹽(塩)山林に境せり。此の岩に上りて四方を眺むれば、山奥の里、山脈の間に点在して風景頗る良し。
 大阪街道七合橋西方県道の傍らに在り。黒錆を生じて、荘厳の観あり。下端は土に接触せる箇所を認め難く、周囲何れよりするも棒杖の類い易々と通じ、恰も浮きたるが如し。  七合川右岸の林縁に在り。湧出口は赤き水垢を生じ、一種の匂あり。湧出量は二分間に一斗を算し得べく、村人は痔疾、皮膚病に特効ありと云う。
【コメント】大坂街道とは旧国道176号線であり、七合橋は有馬病院前を東に進み、生コン工場方向に左折した先にある。橋の欄干に辛うじて「七合橋」のネームプレートが残されている。七合橋の200mほど北には鎌倉橋があり、欄干には船坂川の表示がる。七合橋の下を流れる船坂川をこの辺りでは七合川と呼ばれていたのだろうか。
 いずれにしても現在は、この辺りに「浮石」も「川浦の湯」もいずれもその痕跡を留めるものな皆無である。
 夫婦松とも云う。天正年間、太閤中国征伐の途、自ら植えしものと伝う名木にして、地上四尺を離れたる箇所より、雄雌二股となり、雄幹は直伸して十間余に及び、雌幹は約六間にして上幹枯死し、一枝を出して雄幹を内方に巻きて屈曲し、一見片腕を以って抱けるが如し。幹廻り一丈三尺。 
【コメント】右の画像は山口村誌掲載の図版「夫婦松より丸山を望む」である。松の点前を旧有馬線の線路が走っている
 現在、夫婦松は1981年に松喰虫に侵され伐採された。今はその跡地近くの「夫婦松公園」に名を留めている。また夫婦松の二つの切り株は火鉢に加工され、上山口公会堂に保存されている(左画像)。
 承徳元年丁丑、大洪水あり。有馬川出水す。
 九十五年後、和州吉野の僧仁西、熊野権現に詣でしに、一夕神告げて曰く「摂津有馬の山中に湯あり。近歳荒廃甚だし。汝往きて従事すべし」と。仁西曰う「何を以って證となさん」と。神曰く。「庭樹の葉に蜘蛛あり。其の糸を牽く所に従って赴くべし」と。翌日、醒めて見れば、果たして然り。既にして中野二本松の下に至り蜘蛛を失う。仁西迷うて立つ。俄に一翁あり。仁西を導き山に登れリと伝う。 
 古、上山口庄屋、永年子なきを悲しみ、祈願せしに、忽ち美事なる男子を授かり、篤信奉祠せしを、明徳寺境内に遷祠せるものにして、夜泣き地蔵とも、道祖神(縁結地蔵)とも、お乳の地蔵ともいう。其の霊験あらたかにして、郷邑数里の地より、善男善女の参詣するもの多し。「散策・山口の石碑巡り」参照
 本村下山口字中屋敷に在り。大化三年、孝徳帝、有馬温泉御臨幸の際、行宮所建築用の材木を公智山より伐出したるに、其の材木、叡慮に叶い、行幸ありて、此の地に御小休あらせられ、景色良しと仰せられてより「褒帝地(ほうていち)」と唱う。依りて此處に帝を奉祀すと伝う。





 高塚は功地山の南麓、枯木谷に在る圓塚にして、根圍り五十間、高さ六間あり。優美なる築山にして朝日照り夕日輝く高燥なる所なり。塚の頂上に数株の松樹あり。私有地なれども、古来此の木を伐ることを忌むといへり。
 古老の伝えに、昔高塚の上に大木あり。枯れたるまま、多くの歳月を経たるが為め、「枯木谷」と呼びしといへり。塚の位置、封土の形状よりして、少なくも大化以前の築造なるを徴すべく、此の上古に於ける貴族の墳墓と思はる。塚は緻密なる粘土より成り、古き樹根に鎮されたれば、少しも形體の変易を認めず、唯、頂上中央部を踏めば、空洞あるを感ぜしむる響きをなす。 
 本村、下山口に在り。
 大化三年冬十月孝徳帝、有馬温泉に行幸の際、行在所御仮殿建築に当り、材木を此の山より伐出し奉りたるに、良材なりと、叡慮に叶い、即ち此の山に行幸あらせられ、功徳ある地なりと仰せられしより、其の御賞声を遵奉し、功徳山と称すべきを、徳は御諱字なるを以って憚り、功地山と唱えしも、後又公智山と称するに至れり。
 古塚にして下山口字春道に在り。尊像は石造にして、高さ約二尺あり。昔、山口氏と云う者あり。其の妻は賢婦人にして、夫に死別後貧しさの余り、己が髪を剪り、銭を得て幼児二人を養いたりと云う。同女死して之を葬り、銭塚と呼び、其の上に地蔵尊を祀り、銭塚地蔵と称す。髪を切りて養育せられた西は、後江戸に出で立身したりしが、亡き母の為めに、江戸浅草観音の境内に、銭塚地蔵と等しきものを建て、摂津山口氏と彫れるもの、現存せりという。
 権現坊の遺址は、功地山の西南麓高塚との間に在り。今尚ほ石垣等残れリ。社坊の地を明らかに認むるを得。