1998/5/22
寝不足温泉行


 人間であれば誰しも、夜眠れないという状況に陥った経験は一度や二度ではない筈。そしてそれは、例えば遠足の前日であったりとか歯が痛いとか隣の家が火事だとか隣の部屋の男女が何事か始めてしまったとか隣で寝てる奴がうるさいとか実はドラキュラだったとか、そういった他愛のない理由である場合が殆どで、寒くて眠れないというのは、日本の都市部で普通に暮らす人間にとっては非常に稀なケースではないかと思う。
 寒くて眠れなかったのだ。
 テントにもぐり込み、窮屈に身を寄せ合いながら体を横たえた男三人に立ちはだかる次なる試練は、寒さであった。昼間の疲れと少量のアルコールとによって、すぐさま睡魔の前にひれ伏したのであったが、尿意を催して目が覚め時計に目をやると、まだほんの一時間ほどしか経っていなかった。他の二人を踏み殺さないように気を使いながらテントを出て、草むらに向かって放尿を済ませ、再びテントに入り横になるが、どうにも目が冴えて眠れない。なんでだろうと訝るまでもなくその理由は明らかで、真夏だからというただそれだけの理由で、寝具の一切を持参しなかった愚かで甘い見通しのせいであった。
 とりあえずジャケットを取り出して着込むが、それでもまだ寒い。合羽を着れば少しはましかも知れないと思いガサゴソやっていると、突然バチが目を覚まして言った。寒い……。
 で、二人してガサゴソやりながら合羽を着込み、眠ろうとするがまだ寒い。そしてどうやら地面が冷たいのだ、ということに気づいた。なんせ、地面と体とを隔てているのは薄っぺらいテントのシート一枚だけなのだ。地面に直接寝てるのと殆ど変わらない。新聞紙を取り出して体の下に敷いてみるが、気休め程度にしか効果はなかった。ブルブル震える二人を後目に、安らかな寝息を立てる文ちゃん。彼だけは友人から借りた寝袋を持参していた。
「くそー、寝袋持ってくれば良かった」
「俺、寝袋なんて持ってないから毛布でも持っていこうかなぁって言ったら、真夏だぞ? そんなもんいるかい! って言ったよな……」
「……すまん」
 結局朝までまんじりともせずに、うとうとしかけた頃には空が明るくなっていた。それでも、眠気と空腹とを比べた結果、湯を沸かす用意をするためにテントを出たのだった。
 そしてそこにはすばらしい朝が待っていて、猪苗代湖の向こう側から昇ってくる朝日に照らされてキラキラと光る水面や、木々の鳥達のさえずる声、朝露に濡れた草葉から立ち上る、酸素をたっぷりと含んだ空気。それらが渾然一体となり、肺から体の隅々へと染みわたっていくようだった。
 バチがテントから、不機嫌な表情を隠そうともせずに出てきたのを見て、朝の挨拶を交わそうとするが、いきなり「元気だな……」と、地獄の底から絞り出すような声で言うのにたじろぎ、力無く笑うのだった。
 とりあえず珈琲でも飲んで頭をハッキリさせよう、ということになって早速湯をかし始めた。湯が沸くのを待つ間に、バチは写真を撮りに林の奥へ行ってしまった。珈琲を淹れ煙草をふかしているところへ、文ちゃんがテントから這い出てきた。
「おはよっス。昨日は寒かったスね」
「そだね……」
「眠そうっスね」
「寝てないんだよ」
「へ?」
「寒くて眠れなかった」
「バチさんもですか?」
「うん」
「バチさんいないじゃないですか」
「写真撮りに行った」
「元気っスね」
「そだね……」
 そして、ソーセージを茹で始めた頃にバチが戻ってきた。
「バチさん、眠れなかったんですって?」
「うん。全部こいつのせい」
「……」

 朝食を、昨日買っておいたカップラーメンと茹でたソーセージで簡単に済ませて、テントをたたみ荷物を片づけてバイクに積む。管理棟の爺サマに挨拶に行き、例の泥の中からバイクを引っ張り出す。結局バチの予言は外れ、泥は泥のままだった。
 キャンプ場の敷地内から出ようとして林の中の狭い道をショートカットしようとしたら、そこがまたぬかるんでいてあやうくスタックしそうになった。なんとか抜け出せて安心していたら、後ろの方が騒がしい。俺、文ちゃん、バチの順に出発したのだが、どうやら文ちゃんがスタックしたらしい。
「で、出れねっス!」
 足をバタバタさせ必死にもがく文ちゃんであったが、タイヤは空しく空回りするばかり。時折バランスを崩して倒れそうになるのを支えようと足を着くのだが、泥に足をとられ横転しそうになる。その後ろではバチが爆笑している。
「わ、笑ってないで助けて欲しいっス!」
 なんとか文ちゃんを泥の中からサルベージすることに成功し、ホッと一息ついたところへ道路を迂回してきたバチがやってきた。
「わはははははははは!」
「わ、笑いごとではないっス!」
「いひひひひひひひひ!」
「酷いっス!」
「だはははははははは!」
「そ、そんなに笑わなくても……ふふふ」
「いひいひいひいひ!」
「ふふ……ははは……ははははは!」
「だ〜はっはっはっは!」
 と、なぜか爆笑する三人だった。どうやら寝不足でナチュラルハイになっていたらしい。

 キャンプ場を後にして国道四九号線を今度は東へ。睡眠不足であったにも関わらず、そこはバイク乗りの悲しさで、走り出してしまえば後は体が勝手に動き出す。すでに強烈な夏の陽射しが照りつけていたのだが、空気が冷たいのですこぶる気持ちがよい。一時間程走ったところでコンビニを発見し、ビニールシートと新聞を購入する。昨日のあまりの寒さがこたえていたらしく、ホカロンを購入しようとするバチに、「今日は海辺のキャンプだから大丈夫だよ」と言ったら、「もう、おまえの言うことは信じないの」と言われてしまった。
 缶コーヒーを飲みながらルートの確認をする。予定ではいわきまで行き、温泉に入ってから海辺のキャンプ場に泊まることになっていた。結構汗もかいているし、早めに温泉に入ってゆっくりしたいという案に二人の賛同を得、寄り道をせずに真っ直ぐ行くことになった。
 会津若松市内は交通量も多く、すり抜けを多用せねばならなかったが、市内を過ぎてからはいたって快適であった。特に須賀川を過ぎた辺りからは、道の両側に木が鬱蒼と繁った適度なワインディングロードとなっており、今回のツーリング中最高に走りでのある場所であった。途中、寂れたドライブインにて蕎麦の昼食を摂る。開け放たれた窓からそよぐ風が心地よく、ついうとうとしてしまう。ホンの五分程微睡んだだけで気分スッキリ爽快となり、いわきまでを一気走り。
 程なくいわきに到着し、ガソリンスタンドで給油したついでに近場の温泉を店員に尋ねるが、どうにも要領を得ない。地図を取り出して今居る場所を確認するが、どう考えても今向かっている方向のハズがない。どうやらこの辺りは地磁気が狂っているようだ。としか思えない程方向感覚がなくなっていたらしい。とりあえず不承不承、教えて貰った通りに進むと温泉の看板が。と、喜んだまではいいのだが、その看板が指し示す道はどう見ても車一台がやっとこ通れそうな砂利道。「きっと山の中の秘湯みたいなとこだぜ。ワクワクすんなあ」とか思いながら砂利道へバイクを進めた。
 轍にハンドルをとられながら進んでいくと、道はどんどん険しくなってゆく。砂利の間から顔を出す雑草の背丈がだんだんと高くなっていき、あきらかに何日も車が通っていないのが解った。途中で引き返すかとも思ったが、道幅が狭く轍も深く急勾配なため、Uターンもままならい有様だった。後で聞いたのだが、このとき文ちゃんが「引き返そう」として何度もパッシングしたのだそうだが、砂利にハンドルをとられて転倒しないように必死だったため、全然気づかなかったのだった。
 十五分程走ったあたりでやっと、その道が、二百メートル程先で広い舗装道路に合流しているのが見えた。その道に突き当たったところで、右手に温泉宿の看板が見え、駐車場にバイクを入れる。
 バイクのエンジンを停めると、聞こえるのは川の流れる音とヒグラシの鳴く声だけだった。ヘルメットをとり、バイクから降りてやっと、背中にびっしょり汗をかいているのに気づいた。他の二人も同様だったようで、疲れた顔をしている。温泉宿のたたきへ上がると、中から女将さんが出てきて、「お風呂ですか?」と、聞く。「ええ。入れますか?」と聞くと、一人三百円だと言う。金を払い、風呂へ案内して貰う。随分古い建物のようだが、柱や廊下は良く磨き込まれていて木目も美しい。ところどころ「ぎしぎし」と鳴く廊下が、「いかにも」な風情で旅愁をかき立てる。風呂へと続く渡り廊下の下には川が流れており、風呂場の窓からはその川へと流れ込む滝を望むことが出来る。熱めの湯船にどっぷりと浸かり、緊張していた筋肉をゆっくりと解きほぐしてゆく。風呂場には俺達の他に客はおらず、思う存分四肢を伸ばすことができ、ゆったりとした時間を過ごすことが出来た。
 風呂から上がり、火照った体を冷ますために休憩所の籐の椅子に腰掛けて、煙草に火を着ける。柱時計の時を告げる音が、宿の玄関の方から四回聞こえた。それは、ささやかな非日常とありふれた日常が交錯するような、そんな時間だった。


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