1998/9/18
正体不明


 雨が降っていた。
 その日は出発を諦めて一日ごろごろしていようかとも思ったのだが、天気予報は回復傾向であることを伝えていた。結局、朝食を食べている間に陽が射してきたので、出発することにした。叔母と従姉妹に見送られ、国道四号線をさらに北上する。
 気分は上々。突き抜けるような青い空が広がり、どこまでも飛んでいけそうな気分だった。時間はたっぷりあるのだから、三桁国道だとか県道とかを走ればいいものを、どうにも宮城あたりでは見慣れた景色という気がして、その気になれなかった。

 信号待ちで止まったときにふとバックミラーに目をやると、俺と同じように荷物満載のバイクが見えた。信号が青になり、暫くは俺の後ろを走っていたのだが、一向にペースが上がらないことに業を煮やしたのか、見通しの良い直線で俺を抜き去っていった。抜きざまに彼は振り返り、左手の親指を立てて見せた。すかさず同じように左手の親指を立てて挨拶を返すと、彼は満足そうに頷いて走り去っていった。バイク乗り同士、つかの間の邂逅であっても、シールドの奥の目と目で分かり合えるものだ。  基本的にバイク乗りには淋しがりやが多い。そのくせ、孤独になりたがるから始末に負えない。自ら進んで孤独を選択するくせに、いつでも淋しいと感じている。だから、旅先で人と出会う度に饒舌になる。我が儘なのだ。自分勝手なのだ。初めてバイクに跨った日から、自分がこの世で一番速い乗り物に乗っていると思っている。そりゃもう、見ている方が恥ずかしくなるくらい思い上がっているのである。バイク乗りはいつでも、バイクに乗っている自分に酔っている。

 花巻まで来たところで、今夜の寝床を探す。地図で調べてみると、国道四号線から二八三号線に入り、二十キロほど行ったところに田瀬湖の畔のキャンプ場を発見した。
 食料を調達し、キャンプ場へと向かう、ひっそりと車の通る気配もない峠道へバイクを向ける。高度をあげるにつれますます山深くなり、到着した頃には風の音しか聞こえなかった。
 夏休みが終わった直後のキャンプ場に人影はなく、管理人の姿すら見えない。炊事場の水が出るのを確認してから敷地内へバイクを乗り入れる。一番見晴らしのいい場所にテントを張り、夕食を済ませ、煙草を吹かしながら日暮れを迎える。つい二三日前までは淋しくてしょうがなかったのに、今は独りの時間を愉しんでいた。ぼうっとしながら、時折どうでもいいくだらない事を考え、それに飽きるとまたぼうっとする。やがて完全に日が落ち、虫の声だけが辺りを支配していた。

 その夜。尿意を催し、シュラフから這い出してテントの外へ出ようとしたそのとき、不意にガサガサという草むらをかき分けるような音がした。
 そのキャンプ場は、山の斜面の木々を切り開いた場所にあり、その斜面を段々畑のように何段にも平らにならして、そこをテントサイトとしていた。その段々テントサイトの中程に炊事場があり、テントを張った場所はその炊事場のすぐ近くであったが、その、ほんの十メートル程奥には、鬱蒼とした森がキャンプ場全体を覆い隠すように広がっていた。
 音は確かに森の方角から聞こえてきた。一瞬にして眠気が吹き飛び、凍り付いたように息を殺して耳を澄ましていると、再び、ガサガサという音が聞こえてきた。気のせいかさっきよりも近くで聞こえたようだった。
 正体不明の音ほど気味の悪い物はない。とにかく音源が何なのかを確かめるべく、出入り口のジッパを開けようとすると、今度はあきらかに、何者かが草むらをかき分けながらこちらに近づいてくる音がした。全神経を耳に集中し、その何者かの意図するところを必死になって理解しようとした。背中を冷たい汗が伝い、言いしれぬ恐怖が全身を襲った。
 ひょっとしたら熊かも知れない。熊が出てもちっともおかしくない場所なのだ。食料はテントの中にある。もしこの食料の匂いを嗅ぎつけてやってきたのだとしたら、おそらく奴は容赦なくテントを破壊し、食料を手に入れようとするだろう。果たしてよく言われるように、死んだふりというのがどれほど有効な手段なのであろうか、とか、食料を投げ出して、反対方向に全力で駆け出せばどうにかなるだろうか、というような事を必死であれこれ考えながら、さらに耳を澄ましてその音を聞いているうちに、ある事に気づいた。どうにも熊ほども体重のある動物が移動しているような重量感というか、そういう感じがしない。人間か、それよりももっと軽い動物が移動しているような感じなのだ。しかも人間であれば、身につけた衣服の衣擦れの音が聞こえても良さそうなものだ。だとしたら、おそらく犬だか猫だかの小動物ではないのか。
 既に耐え切れぬ程の尿意に襲われていたせいもあり、意を決して勢いよくジッパを開けてテントの外へ出た。森の方を振り返って見たが、暗闇が広がるばかりで何も見えない。懐中電灯で森の方を照らしてみても、動く物は何もない。森の方を見据えながらじりじりと後ずさりし、階段を降りたところで用を足した。真っ黒な森を見つめながら。
 テントに戻り暫く耳を澄ましていたが、もう音はしなかった。シュラフに潜り込んでも暫くは緊張していたのだが、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。

 翌朝目覚めてからも、シュラフの中でぼんやりしながら、昨夜の音が一体なんだったのかそればかり考えていた。と、突然またガサガサというあの音がした。慌ててテントを飛び出し森の方を伺うが、やはり動くものは何も見えない。テントの周りを調べようと、テントの裏に来たところであの音が聞こえた。どうやら、テントのインナーとフライシートの間から聞こえるようだ。フライシートをペグから外し、そっと持ち上げてみると、なんとそこにいたのは一匹のトカゲだった。どうやら昨夜のあの音の正体は、フライシートの裏をトカゲがはい回る音だったようだ。たった一匹のトカゲ相手にドキドキしてしまった自分に、呆れるやら情けないやらで、苦笑するばかりだった。
 なんだよまったくもう、と思いながら、そいつの尻尾をつまんで地面に放り投げようとすると、彼は自らの尻尾を切り離し、地面に飛び降りて草むらの中へと消えていった。
 あとに残された尻尾がジタバタと、昨夜の俺のようだった。


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