1998/11/26
医学的見地から見た旅の効能


 国道一〇七号へ降りて、遠野を目指す。目指すと言っても、ほんの十キロ程度の距離だ。
 無理に印象を語るとすれば、「やたらと神社の多い町」といったところだろうか。別段変わった風もなく、なんの感動も覚えぬままに、遠野をあとにする。
 国道二八三号を、遠野の駅を過ぎたあたりで左折し、国道三四〇号を北上する。たっぷりと四十キロ程の峠道を愉しむ。さらに北上を続け、岩泉というところにある、「龍泉洞」のそばの青少年旅行村で、テントを張ることにした。途中の岩泉温泉で二日ぶりの風呂に入り、ビールと食料を買い込んで件の青少年旅行村へ向かう。
 実はこの旅の中で、この辺りの記憶だけが何故だか曖昧なのだ。遠野から龍泉洞までは、この道以外には考えられない(最短という意味で)ので、この道を走ったのはまず間違いないのだが、どうやら記憶からぽっかりと抜け落ちているようだ。峠道を走ったことくらいしか覚えていない。地図で見てみると、国道と平行して電車の線路が走っており、いかにも気分の良さそうな道なのだが。おそらく、今この道を走ったとしても、きっと初めて走る道だと感じるだろう。合羽を着込んだ覚えはないので天気は悪くなかった筈だ。だとすると、考えられるのはライダース・ハイか。

 ライダース・ハイとは、定速走行を続けるライダーに起こるという、一種のトリップ状態のことだ。この現象の特徴は自覚症状が無いことだろう。
 例えばこんな経験は無いだろうか。通い慣れた道を考え事をしながら、或いはラジオから流れるDJの声に聞き入りながら車を運転していて、目的地へ行くために間違いなく通った筈のいつもの道なのに、そこを通った記憶がない。果たしてそれがライダース・ハイ状態の説明になっているかどうか疑問ではあるが、とにかく記憶のエア・ポケット、というような状態にあったようだ。

 翌日、再び国道三四〇号へ戻り、さらに北上を続ける。八戸自動車道の高架をくぐり、国道三九五号に突き当たり、左折。すぐに国道四号にぶつかり、右折。こんどは国道一〇四号へと左折。
 と、この国道一〇四号というのがとんでもない道だった。この道は、十和田湖へ向けてぐんぐんと高度を上げて行く道なのだが、民家は見えず、車や人の往来も酷く少ない。道の両脇には熊笹が群生しており、ときおりバイクを降りてエンジンを切ると、音がまったく聞こえてこない。
 何かの本で読んだ記憶によれば、人間の耳は常に耳鳴りがしているものなのだそうだ。普段の生活では、必ずと言っていいほどなんらかの音が聞こえているために気づかないのだが、この場所のようにまったくの無音状態に置かれると、その耳鳴りの大きさに吃驚するのだ。
 事実、驚いたのだ。初めのうちは、標高のせいだと思っていたのだが、どうやらそれとも違う。明らかに、内耳というか、とにかく耳の中から音が聞こえていたのだ。その現象自体にも驚いたが、もっと驚いたのは、そのような場所の存在であった。日本国内には、まだまだ見るべき場所が沢山あるようだ。

 山道を登り切ったところにある牧場が近づくにつれ、「熊に注意」の看板が目立つようになる。確かに、道を少し外れたあたりは鬱蒼とした森林であり、いつ熊が出てきてもおかしくはない雰囲気であった。しかも、ガソリンの残量が心許ない。ガソリンスタンドくらいあるだろう、とたかをくくっていたのが大きな間違いだった。進むにつれ、熊が出そう度はますますその確率を上げているように思われた。
 突然、何者かが飛び出して来たときの用心のために、道の真ん中をガソリンの残量に気を使いながら、胃に穴の開く思いでそろそろと進んだ。
 牧場の看板が見え、ほっとしたのも束の間。その先はさらに山深い道であった。相変わらず開いているガソリンスタンドは見つからず、ついにガソリンの残量はリザーブを残すのみとなってしまった。リザーブタンクの容量は二リットル。距離にして約四十キロ程だ。が、リザーブにしてから二十キロ程走ったところで十和田湖の周遊路に出て、ガソリンスタンドで給油することができた。

 キャンプ場にテントを張り、溜まっていた洗濯物をコインランドリーで洗濯している間にコインシャワーでシャワーを浴び、売店で買った釜飯の素を米と共に飯盒に入れ、炊きあがるのを待つ間に煙草に火を着け、やっと落ち着くことができた。
 本当に疲れた。不安と恐怖に耐えながら、なんとかここまで辿り着くことができた安堵感からであろう。もしくは、腹が膨れれば眠くなる、という至極当たり前の法則に従ったのだろうか。とにかく、夕食の後かたづけもそこそこに、早々と眠りに落ちてしまったのだった。  その夜の夢は、熊に襲われる、といったアクション物ではなく、何故だか、裸の女性を俺が追いかける、といった物であった。
 フロイトだかユングだかに、相談してみるべきだ、と思った。


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