晶子・渡欧、明るみへ出版 寛・帰国 衆議院立候補
明治44年(1911)11月〜大正4年(1915)8月
(麹町区中六番町7番地)

明治44年(1911)11月8日、寛は横浜港からヨーロッパへと出航しました。
気まずかった関係からの解放も
寛を見送った後、晶子は、抜け殻になります。

「子と母と さびしがれるを 目のまへの ことと思はば かえりこよ君」

佐藤春夫たちが転居を勧めます。家賃の切りつめも必要だったようです。
麹町区中六番町7番地の家に移りました。しかし、そこでも

「子らつれて 家うつりすれ 君なくて さすらひ人と なりにけるかな」

だったようです。寛からは盛んに、渡欧するよう誘いが来ます。
明治45年5月5日、晶子はついに出立します。
喜びの中に、子供を置いての旅はきつく、心を痛めたようです。 10月27日、帰国しました。
寛は、翌、大正2年(1913)1月21日、帰国します。

寛と晶子の新しい世界の展開があったのでしょうか?

麹町の貸家さがし

 寛の渡欧が決まると、寛と晶子は麹町区中六番町3番地の家からの転居を計画したようです。作品ですから事実と違うことが考えられますが、割合に自伝的要素の強い「明るみへ」では、

 『九月の末からかけて、八坂夫妻は十日ほどの間、毎日借家を捜しに歩いた。透の留守の間、も少し小じん
まりした、用心の好い家へ入っていたい、そしたら家賃も十円ぐらいは少なくなりもするであろう、と京子が言うからである。』

 八坂夫妻は寛と晶子で、透は寛、京子は晶子でしょう。そして麹町の家探しが始まります。 麹町の中を探した様子が「明るみへ」に書かれていますので、その跡を追ってみます。

 『最初の日に、五番町から一番町あたりを見て廻った時、五味坂の三井の邸(やしき)の向うの方の路次のような入口の中に、二階建の下四間、上二間という手頃な借家のあるのを見つけて、家主を尋ねると、近所の岩瀬という家だと言ったから、侍医か何かだった岩瀬男爵だろうと言って、夫婦が大家(おおや)へ行って借りることを掛け合って名刺を置いて来たのが、その晩になって、執事のような男が尋ねて来て、主人が今日、出先であの家を貸す約束を、人として来たのを知らずにお約束をしたのだから破約にしたいと言ったのであったが、その家は今でも依然として空(あ)いている。つまり岩瀬男爵に、八阪夫婦の名が嫌われた訳なのである。』

 とほろ苦い話を入れます。図右下に五味坂があり、そこから右上を辿ると三井邸が2カ所あります。どちらを訪ねたのか不明ですが、壕に近い方が一般的に三井邸とされます。現在のイタリア文化会館、二松学舎大学附属高校あたりになります。明治時代も末になるとこの辺りに男爵家が貸家をするようになることが伺えて面白いです。 しかし、寛と晶子は借家捜しに飽き飽きします。

 『「もう飽き飽きした。」
 と京子は言って、透に一人で借家を捜しに行ってくれと言い出した。
 「母さんが飽きるより先に、僕が飽いてるんだけれど、辛抱してつき合ってたのだから、も少し辛抱を母さんも
  して、二人で捜そうじゃないか。」
 と透は言った。
 「だから厭なんですよ。あなたの心持がわかっているからですよ。飽き飽きした魂が二つ並んで歩いている
  のが、馬鹿馬鹿しい単調なことをしてる上に感じられるのですもの。飽いたことは一人でする方がみじめじ
  ゃなくっていいから、私が行く方がよければ、一人で行ぎます。あなただって、一人でいらっしゃる方がまだ
  ましですよ。行って来て下さいな。」』

 という会話を交わします。 ここから二七通りを市ヶ谷方面に進めば、寛と先妻・瀧野が最初に居を構え、新詩社を興し、明星を発行したた「上六番町45」の家に出ます。何となくふれたくない場所のようで「飽き飽きした魂が二つ並んで歩」くのではなくて、「一人でいらっしゃる方がまだまし」と云いたくなったのかも知れません。晶子がその場所に気付かなかったとしたら、幸いです。

しけった家

 家さがしの次は、現在の大妻通りと二七通りが交差する付近(一番町の広い通り、伯爵・井伊さんの南)です。 上の図で三井邸の左に位置します。おそらく二七通りの近くであったろうと推測されますが、荒物屋だの豆腐屋だの湯屋だのがある近くの家を見ます。

 ここは、大きな松の木や銀杏の見上げるような大木のある家で、中に入って、畳を取り替えてくれるのだろうかなどと話していると、隣からフランス語で本を読んでいる声が聞こえてきます。寛が知り合いの人でした。

 『「どうでしょう、山中君、この家は。」
 「厭なところですよ、先生、水が方々から落ちて来るところでね、こんな天気の続く時でも、私の方の庭に
  は水だまりがたくさんありますよ。」
 ・・・・
 「しけるでしょう、君。」
 ・・・・
 「しけるのはひどいんですよ。私の方でもまた直ぐ引越します。皆さん、お寄りになったらどうです、妹が
 ちょっと出たもんですから、私は行くことができませんが。」
 ・・・・』

 寛と晶子は、それを聞いて嫌になっているところへ、子供が多いとの理由で、家主の方からも断ってきます。家主は質屋となっています、明治末にはこの辺りは土地が細分化されて、所有者が金融業に移っていることがわかります。

 続いて、三浦環の住んでいた家を見ます。 三浦環は麹町で何カ所かに別れて住んでいたようです。しかし、寛と晶子が家探しをしていたときと時期が合いません。そこで、最初に三浦環が住んでいたところを図示しておきました。

 さて、寛と晶子はこの辺りから、すっかり借家探しが いやになったようです。晶子の転居に対する本音が語られます。

晶子の転居への本音

 『「あなた、私はもう永久に引越しませんよ。」
 と京子は透に言った。
 「なぜ。」
 「でも、みじめじゃありませんか、私はもう真実(ほんとう)に厭になってしまいました。東京へ来て、家を変わる
  ことなんかを平気に思うようになってたんだけれど、やっぱりうそですね。私らの国の人なんかは、みな生
  まれた家で死ぬものだと思ってます。女はただお嫁に行くくらいのものですもの、それが真実(ほんとう)
  すわ。家が度々変っても心の傷まないような人はうそですわ。私はもう、どうしても引越しなんかしやあし
  ない、ね、それでもいいでしょう。」
 「僕はどうでもいいさ。」』

 大阪の大店の家付き娘である晶子が、度重なる転居に、よくも耐えられたものだと思っていましたが、やはり嫌々であったことがわかって、長い引用をしました。今回の移転の動機と 渡欧した後の鉄幹の誘い、晶子の外遊を浜名弘子は次のように記します。

  『夫が旅立ったあと、与謝野家は「同じ町(*麹町中六番町)の七番地」に移った。夫の留守の間、「も少し小ぢんまりした用心の好い家へ入つて居たい、そしたら家賃も十円位は少くたりもするであらう」と晶子が考えたことと、夫が渡仏したことで沈みきっている晶子を、佐藤春夫たち門弟が「心配して引越しでもしたらどうか」と勧めたこともあっての転居であった。

 夫の再生を念じて旅立たせた晶子であったが、残されてみるとその淋しさはいいようもなく深かった。・・・そんな晶子の許に、寛から是非渡仏するように、と便りがあった。船で書いてポオトサイドで出した手紙にも、またパリで晶子の手紙を見てからのにもそう書いてあった、夫の熱心な勧めに晶子の心は動いた。子供のことは気になったが、これを機に見聞を広めたいと思う気持ちも強かった。

 思い立ったら何事をも実行に移す晶子である。かの女はすぐさま旅費作りに奔走し始めた。さいわい、「縁故のある東京日日新聞が千円、実業之日本社が三百円」そして残りの金は鴎外の口ぞえで三越百貨店が引き受けてくれることになった。明治四十五年五月五日、晶子はシベリア経由でパリヘと旅立った。』(与謝野晶子 清水書院 p94〜95)

 借家探しの経過はこのように描かれますが、実際にどのようにして、中六番町7番地の家が決定したのかは不明です。 しかし、10月の家探しの時に見当を付けてあったようです。「明るみへ」補遺に

 『十月の初めの或る朝に、この門の外まで来たことを思い出したのである。二階の雨戸に貸家札は貼ってあっ
たのであるが、その門がどうしても開かなかった。自分らは桐の青く繁った梢やら、大きい枝を外へ出している百日紅(さるすぺり)を、名残(なごり)惜しく跳めながら帰って行ったのである。

 としています。引っ越しの時期は「明るみへ」(補遺)では、12月3日、長男・与謝野光は「晶子と寛の思い出」で11月に転居したとしています。

 越したところは150メートル先

 さんざん借家探しをした結果、転居した先は同じ道路沿いで、わずか150メートル程の先でした。 全体の位置は上の図をご覧下さい。現地へ行くと全くわからなくなりますので、当時の地番の復元をしてみました。

画像右側の白い建物が千代田女学園で、その隣の高いビルの間が
寛と晶子が住んだ中六番町7番地と思われます。

 こんな近いところへ何故引っ越すのか不思議ですが、引っ越した日に、晶子はさっそく大家に嫌(いや)みを言われたようです。晶子が書いた「明るみへ」(補遺)で

 『十二月の三日に、八阪の家は同じ町の七番地へ移ったのである。手伝うために前の晩から来て泊っていた
江藤のほかに、下田文学士夫妻と繁(しげる)とが何くれと忙しく働いている中で、京子は大家へ挨拶に行った時にそこの細君に厭味を言われたのがもとで、ふさぎの虫を起こして、顔までも真青(まつさお)にしていた。』

 とします。家の構造は

 『女中部屋を壊して板の間の物置にしてある。・・・そこと茶の間の窓の前にも、三十坪ほどの庭があって、菜
の畑になっている。座敷の直ぐ隣りが長四畳の玄関の間で、・・・。八畳の座敷と並んだ六畳の横にも、五坪ほどの中庭がある。風呂場へは、そこの縁から廊下伝いに行くのである。六畳の前は、廊下を隔(へだ)てて床の付いた茶室建の六畳の書斎がある。前の家の書斎と同じ型で、古びようもよく似た腰硝子の障子のはまった敷居際に、京子の机が据えられている。透の大きい机は、床の隣りの肱掛窓へ寄せて置いてある。』

 と書いています。江藤は佐藤春夫、繁は寛の弟である修です。『随分古くなった戸の多くの隙間から、金水引(きんみずひき)のような朝日が入ってくるのを・・・』としていますので、家の古さ加減もおおよその見当が付きます。

晶子、寛の後を追い、子供ら留守番

  寛を外国への旅に出して、晶子は桎梏から解放されたように思いますが、そうではなくて、淋しくて、日ごと寄せられる寛からのパリーへの誘いに、ついに、自らも渡仏することを決心しました。明治45年・大正元年(1912)5月5日、晶子は新橋駅からフランスへの旅立ちます。

 11才の長男・光を頭として、3男4女子の供達が留守番をすることになりました。長男・与謝野光は「晶子と寛の思い出」で

 『父の留守中に、同じ中六番町の中ですが、引っ越しもしてね(明44・11)、それで、お静さんっていう父の妹に留守番してもらうことになって、いよいよ敦賀から発つわけです。
 母が僕に言ったのは、「叔母さんが来てくれるから頑張りなさい」 ってくらいのもんよ。その頃、親はもう“命令”だもの、子供は従うだけですよ。

 留守の間には、叔母さんが来てくれたんですが、そりゃ一生懸命ですよ。弟たちもいるし・・・・。
 叔母は静子といって、若かったんですが未亡人だったんです。まあ一生懸命やってくれたんですが、きつい人で(笑)、こっちとしては思うように行かなくてね。それまであんまり僕らも慣れてない人だったから、むこうも手こずったと思いますけど、こっちもね(笑)。今になってみれば、よくやってくれたと思いますけど。

 お弟子さんたちは、両親がいないんだし用がないからほとんど来ません。佐藤春夫さんや江南文三さんなんかは来てくれましたね。』(p63〜65)

 と書いています。長くなりすぎるので、別に「晶子、寛の後を追う・ヨーロッパへの旅 」としてまとめます。

晶子、「明るみへ」を書く

 晶子は帰国後、唯一の長編となる小説を書きました。「朝日新聞にて前借いたしおき候ひし金子、すなはち小説稿料に候」といっていることから、渡欧費として前借りしていたものの稿料による返済であったことがわかります。大正3年3月16日、中勘助に宛てた、夏目漱石の次の手紙があり、

 『拝啓 君の小説は小生の次に掲載する事に相成候。
  与謝野の細君は目下懐妊中にて執筆困難の由 社へ申込候よし。・・・・・』

 として、夏目漱石が掲載していた「行人」のつぎに晶子の「明るみへ」が予定されていたところに、晶子のお産のため、急遽、中 勘助が「銀の匙」を書いて連載し、その 終わった6月5日から晶子の明るみが発表されています。

 この時の産後のひだちは良くなかったらしく晶子は体調の優れない中を、100回にわたって、毎日作品と格闘したことになります。内容については「晶子、「明るみへ」を書く」にまとめました。

寛 衆議院議員選挙に立候補

 寛も晶子もこの外遊で新しい空気に触れ大いに触発されたようです。寛は青年時代に戻ったのか、大正3年(1914)12月25日、第三十五議会で、時の大隈内閣が衆議院を解散したのに応じて、自ら衆議院議員選挙に立候補しました。

 あたかも大正デモクラシー、晶子は女性参政権を求めて応援演説をします。残念ながら、寛は99票の得票で落選しています。ページを別にして、寛、衆議院議員選挙立候補にまとめます。

新境地へ門出か?

 麹町区中六番町7番地に住んだ時代は海外の空気を吸った寛と晶子が、従来の詩歌中心から、新たな場へと活動を拡げた時期でした。

 寛は詩歌活動と共に古典研究、訳詞、衆議院議員立候補(落選)
 晶子は詩歌活動と共に古典研究、童話、小説、評論活動

 に、新境地を見いだそうとします。 しかし、寛の衆議院議員選挙落選後、暫くして、麹町区富士見町5丁目9番地に転居しています。その間については、当面、年譜を紹介し、時間が出来たらそれぞれ書き込んで行きたいと思っています。

関連年譜

明治44年(1911)寛38才 晶子33才

11月8日 鉄幹 フランスへ旅立ち 大正2年1月22日帰京
   出立後麹町区中六番町3番地から転居

明治45年・大正元年(1912)寛39才 晶子34才

1月3日 晶子、小林政治へ年賀状を書く
  かたわらに 人あらずして 春にあふ このこころより あわれなるなし 
  と書き添えています。寛の自尊自虐に苦しめられ通しであったのに、留守は寂しかったようです。
1月23日 第九歌集「青海波」発刊(有朋館 本郷四丁目)
  広告文に「海こえん いざや心に あらぬ日を 送らぬ人と われならんため」とローマ字で記されています。
2月11日 新訳源氏物語刊行開始(金尾文淵堂 麹町平河町5丁目5番地)〜大正2年11月
  「平安朝の天才と明治文壇の天才と日本に二人の才女の合作」と謳われました。定価は2円50銭 
4月13日 石川啄木死去26才
5月5日 晶子 新橋駅からフランスへの旅立ち 敦賀から海路ウラジオストックに渡り、シベリア鉄道でパリ
10月27日 帰国

大正2年(1913)寛40才 晶子35才

1月21日 寛帰国
2月8日 寛帰国歓迎会(上野精養軒)
4月21日 四男アウギュスト誕生(後に いく 日+立)
5月4日 寛 水戸講道館で講演
6月5日 長編小説「明るみへ」を東京朝日新聞に連載 9月17日まで 100回
10月5日 新詩社で短歌会

大正3年(1914)寛41才 晶子36才

1月1日 晶子 詩歌集「夏より秋へ」刊行(金尾文淵堂)
1月 「我等」(スバルの後)創刊される
3月17日 平出修死去
5月3日 寛との共著紀行文集「巴里より」刊行(金尾文淵堂)
6月 「国民文学」創刊される
6月30日 晶子 童話集「八つの夜」刊行(実業之日本社)
7月10日 晶子 「新訳栄華物語」刊行開始(金尾文淵堂)大正4年3月まで
8月 第一次世界大戦 ドイツに宣戦布告
11月 五女エレンヌ誕生か?
11月 寛 訳詩集「リラの花」刊行(東雲堂)
12月 晶子 「新訳源氏物語」縮刷版刊行か?
12月 寛と夫婦喧嘩 鉄幹家出 31日帰宅

大正4年(1915)寛42才 晶子37才

1月 寛と共著「和泉式部歌集」刊行(名著評論社)
3月1日 晶子 詩歌集「さくら草」刊行(東雲堂書店)自選歌集「与謝野晶子集」刊行(新潮社)
4月 寛 京都府から衆議院議員選挙に立候補 得票99票 落選
4月 晶子 「麗女小説集」刊行(富山房)
5月18日 晶子 評論集「雑記帳」刊行(金尾文淵堂)
6月 寛 自選歌集「灰の音」刊行(植竹書院)
8月 寛 詩歌集「鴉と雨」刊行(東京新詩社)
8月 麹町区富士見町5丁目9番地に転居
(2005.01.18.記)

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