寛、衆議院議員選挙立候補

大正2年(1913)1月21日、寛はヨーロッパから帰国しました。歓迎行事の後
さっそく「東京朝日」に滞欧見聞録を執筆し、掲載されます。

大正3年5月には、晶子と共著で「巴里より」がまとめられます。
また、詩の翻訳に熱中します。

大正3年(1914)12月25日、第三十五議会で、時の大隈内閣が衆議院を解散しました。
軍事費の増額を巡る争いでしたが、解散は予定の行動で、
大隈内閣はすでに、各地の知事と連携をとり総選挙の準備をすすめていました。

そこへ、与謝野寛が大隈重信の与党の一人として立候補しました。
大正4年(1915)2月のことです。

政治好き

 与謝野寛は政治が好きだったようです。長男・与謝野光は「晶子と寛の思い出」(p134)で

 『うちの父っていうのは若い時から壮士的な性格がありましてね、選挙とか政治とかいうのが本当は非常に好きだったんです。やっぱり子供を外交官にするなんていうのも、広い意味でのそれがあるんですねえ。

 だから、歌の世界では父は非常に純粋すぎるような人だったけど、一面、ある意味では俗的といえるかもしれない部分もあったわけです。
 京都で立とうということになりましてね、結果は落選したんだけど、選挙運動をやったことで、本人は落選でもいくらか満足したんじゃないかな。・・・・・

 父は歌の道に没頭して、道楽というのは何の一つもなかったんですけど、政治は好きだったんですよ(笑)。』

 と紹介しています。また、渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では

 『それまで「明星」を主宰し、詩、歌壇で活躍してきた寛だけを知る人々にとっては意外な転向と映ったが、それ以前の寛の行動を振り返ると、さほど奇異ともいいきれない。

 かつて寛は二十年前の二十二歳のときから四度に亘って朝鮮に渡り、あるときは日本と清国の武力衝突を画策する一派に加わり、あるときは国粋主義に心酔して漢城(現・ソウル)にある日本語学校(乙未(いっぴ)義塾)教師となる一方、閔妃(びんぴ)事件に関わって朝鮮を追われ、さらに再渡韓して朝鮮独立協会の運動に加わるというように、若いときから壮士気取りの政治的な動きが多かった。

 寛がいわゆる「丈夫(ますらお)ぶり」の歌を引っさげて歌壇に登場したのは、これらの行動に限界を感じたからだが、心のなかではなお政治の世界に深い関心と憧れを抱いていた。いま、自然主義の台頭とともに歌壇での地位を失い、原稿の依頼もない状況で立候補を思い立ったのは、八方塞がりの現状を打破する最後の手段と考えたからでもあった。』(下p291〜292)

 この時の出馬は、寛だけのことではありませんでした。馬場孤蝶も立候補の意志を固め寛に勧めたようです。

 『与謝野寛は、一月下旬に、馬場孤蝶に勧誘され、また今次の総選挙には文士で立候補する者が少くないと知って、心を動かした。殊に若い日、数え年二十三歳で渡韓し、大いに政治的情熱をもやし、閔妃事変に関聯して送還され、再度渡韓し、国事に奔走したことがあった。寛の浪漫主義には政治的浪漫主義の反面をもっていた。だから、立候補をすすめられると、若い日の政治的情熱をかきたてられ、また日頃の欝屈を癒やす好い機会が訪れてきたと思った。』(瀬沼茂樹 日本文壇史23 p224)

 晶子を始め小林天眠も含め周囲は反対し、一度は出馬を思いとどまったようですが、2月中旬、馬場孤蝶が立候補の宣言をしたことから、『京都府愛宕(おたぎ)郡を根拠として、東西相呼応して立候補することを声明』した経過があります。

何を主張したのか

 「渡欧以来の書斎的芸術の思想を一擲し、政治の如きも芸術として取扱ふべきものなりとの考へを以て、之を機会に友人馬場孤蝶氏と共に英国流の理想選挙を試むることをしたい」

 朝日新聞記者の立候補取材に対して、寛はこのように答えたとされます。文士の政治活動は注目を浴びたようです。やはり、ヨーロッパの空気を吸った寛が思いきった展開を目指した行為であったのだと思います。2月、自分の故郷である京都府愛宕郡岡崎村(現・京都市左京区岡崎 )から立候補しました。

 現在の政治システムと違いますから、なんで東京の麹町に住む人が京都で立候補? なんて疑問になりますが、当時は問題ありませんでした。寛は「英国流の金のかからぬ理想選挙を試みると宣言」した ようですが、そのようなわけには行かなかったでしょう。また、立候補の政策として何を訴えたのか、調べていますが、なかなかわかりません。

 晶子の主張は極めて明快です。 大正4年(1915)1月から2月にかけて雑誌「太陽」で次のように論陣を張ります。

 『第三十五議会の解散は突如として私の意識を緊張させ、祖国に対する私の熱愛を明らかに自覚させた。否、この度の解散は微弱な私一人のためのみならず、日本人全体のために日本人自らが励声一番した「気を附け」の号令ではなかったか。

 明治の末期このかた、妥協に妥協を重ね、虚偽に虚偽を重ねた日本人の生活は、今までに腐敗の頂点に達して、日本人自ら内部の空虚と外面の醜汚(しゅうお)とに不満を感じ、誠実に満ちた真剣の生活を無意識に期待している折から、全日本を腐敗させた病毒の府である衆議院の崩壊したことは、独り政界のみならず、あらゆる社会の惰気と腐敗とを一掃して、日本人の生活を積極的に改造する大正維新の転機が到来したことの吉兆(きっちょう)である気がしてならぬ。・・・・・

 私は政治が最早官僚の政治でも党人の政治でもなくてお互日本人の政治であることをしみじみ感じ、そしてこの度の総選挙に出会って端なくも英仏その他文明国の急進派婦人が、「選挙権を与えよ」と衷心から叫んでいる事実に理解と同感とを持つことが出来た。』(岩波文庫 与謝野晶子評論集 p102〜104)

 長くなるので止めますが、「芸妓という売笑婦」を繁盛させる、元勲といわれる政治家、妾を抱える代議士、これらに一国の政治を任すことは できない。日本では、まだ、婦人の参政権を要求するに至っていない、しかし、

 『あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。
 ・・・・・合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。』

 としています。寛と晶子が見てきたヨーロッパの空気に、日本の遅れをもどかしく思いながら、参政権のない女性に向かって演説する晶子の姿が大正デモクラシーと呼ばれる時代の一端を象徴しているようです。寛は中 晧をして

 『往路のシンガポールの見聞記中、日本娼婦について詳しく紹介し、「貧乏な日本の現状で実生活と懸け離れた骨董道徳を楯にけちけちする事の非を悟り、内地に於て売れ口の無い女をどしどし輸出向として海外に出す事の国益である事を主張するであらう」と、貧乏な日本女性が売春婦として、外国の殖民地で身を売ることを大真面目に奨励している如く、寛の見識の程が疑われる見聞記がないわけではない。』(中 晧 与謝野鉄幹 p117)

 と嘆かせる面があり、晶子との意識の差をどのように埋めていたのか気になるところです。

晶子も応援・落選

 晶子は寛の出馬に反対ながらも、応援のための選挙運動をしています。文化学院の創設者であった西村伊作の長女である「石田アヤ」さんが子供の頃の思い出として、和歌山県新宮市に晶子が来たときの様子を

 『・・・・寛先生は見えない。この時は寛先生が政界に打って出ようとなさった衆議院選挙の時で、その選挙運動に晶子先生が遠く紀州の南端まで来られたのだったと聞いた。・・・・』(学院創立当時の晶子先生)

 としています。選挙区は広く、当時の京都府18郡が含まれていました。晶子が直接応援に立った写真が残されています 。知人が総出になって運動したのでしょう。しかし、結果は、候補者11人中、定員5人で、1600票が当選ラインとされましたが、寛は99票という得票でし落選しました。もちろん現在の選挙と違い、金持ちの一部にしか選挙権が与えられていないときですから、得票数は軽々に判断できません。

 この選挙で大隈与党は解散前131名が、選挙後209名に激増しました。この与党に入って選挙した寛が惨敗したことは、寛のような、文人でいわば日常の政治活動をしない素人は、門前払いを食ったことがわかります。

文人の立候補批判

 「世間知らずの文士が代議士に立候補するとは滑稽千万」の冷笑があった反面、生田長江は

 『今日の社会に於て、政界の新人は如何なる方面から出るであらうか。もとより、如何な方面から出ようとも妨げない。しかしながら事実としては、最も澄渕たる生命をつかんでゐる方面から、最もいきいきとした方面から、第一に先づ現れて来なければなるまい。

 私は私共自らが文芸界の人間と云はれてゐる為めに、我が田へ水を引かうとするのではない。広く世間を見渡してゐる限り、それぞれの専門以外に眼界を開いてゐる限り、何人も否定しがたき事実として、日本の今日の社会に於て、最も溌剌たる生命をつかんでゐるのは、最もいきいきとしてゐるのは、文芸の方面であることを憚(はばか)らず言明する。』

 として、カバーしました。麹町の寛・晶子の近くに住む三宅雪嶺=三宅雄二郎(樋口一葉の友人であった田辺・三宅竜子・花圃の夫)は 

  『・・・・与謝野も以前朝鮮事件で幾らか政治騒ぎをやり、馬場とても政治の事などを口にして満更の素人ではないかと思はれるが、併し代議士といふものにならねば、自己平常の主義なり理想なりを行ふことが出来ぬとあつては柳か心細い次第と思ふ。それを行ふといふ自信さへあるならば必ずしも代議士にならずとも出来さうなものだと思ふ。代議士に為らねば自分の考へが行はれぬといふ様な人ならば、代議士に為つた所で何事も仕出来さぬものであらう・・・・。」

 と結構厳しい批判をしています。しかし、選挙後の話として、与謝野光は「晶子と寛の思い出」で

 『・・・・・丹後の何とかっていう人が、今度は二回目にまた出てくれって言って来たんで す。母と僕とで、もう絶対反対しましたよ(笑)。それで父も渋々止めたんですよ、二回目 の立候補を。

 でもそれだから、母がその時言いましたよ。「秀以下は関係ないから、政治 に出てもいい。あなたはお父さんを諌めて出させなかったんだから、あなたはどんなこと があっても政治に関わっちゃいけない」って、母にきつく言われちゃいましたよ(笑)。僕 は政治に興味がなかったからいいけどね。』 (p135)

 としています。 馬場孤蝶も落選し、一葉が生きていたら、三宅雪嶺、馬場孤蝶になんと言ったでしょう。選挙のことはわからないことだらけです。

寛 無口、富士見町へ転居

 渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」 は、選挙後の様子を次のように描いています。

 『選挙も終わり、与謝野家は再び以前の平静さを取り戻した。相変わらず晶子は九人の子供を抱えながら、さらに旺盛な執筆活動をつづけていくが、最後の賭けであった政治家への野心も無残に打ち砕かれた寛は再び家に籠もり、惨敗がこたえたのか、一段と無口になっていた。

 この年の八月、一家は麹町区中六番町から、同じ麹町の富士見町へと引越した。』(下p296)

 転居でもしなければ、やっていられなかったのかも知れません。 (2005.01.24.記)

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