晶子・「明るみへ」を書く 中六番町7番地の家で、晶子は新聞小説「明るみへ」を書きました。 寛の「卑下自慢」を描く 『面会お断り 「明るみへ」はこのように始められます。寛と晶子の葛藤が中心に描かれます。 寛の渡航費算段・借金の申し込み
『今日は御無心の文を書き候。・・・・・私は哀れに候。浮世の俗心を多く持ちて云ふには候はず、斯る訴へを聞く人と云ふ人との位置ばかりにても左様に思はれ候。お願ひ致さんと存じ候ことを下に含めて書き行くは苦 『新月』を廃刊致して後、全く路傍の人となりし弟子の数も四五十あるひは七八十を下らぬものに候ふべし。唯今残り居れる人達は皆何れも勤勉にして謙遜なりし昔の師を見る能はず、一個の我儘なる先輩に朝夕に変化し行く心の跡を見よと強ひらる三のみに候へば気の毒に候。良人は仏蘭西語の稽古を致し候。』 と妹に寛の渡航費の借金申し込みが、手紙の形で描かれます。そして、懇意の出版社の主と相談して、百首屏風の作成などが続けられます。 寛が最初の妻・信子と暮らした宿屋へ行く 『「母様は着物があるかい。」 田舎の女と云うのは福岡の菊野のことである。京子は吾妻屋へ行って見たいような、行くのが厭なような気がするのである。』 大阪から田村=小林天眠が上京してきて、烏森の宿屋にいるので、寛は晶子を誘って行こうとします。晶子はそこが最初の妻・浅田信子(さだこ)と寛が生活した場所であることを知っているのでした。 借家探し
すでに紹介しましたが、寛と晶子は麹町の中を借家探しに歩きます。当時の麹町の様子がわかるのと晶子の転居に対する感じや考え方が語られます。
『「そんなことを云うもんじゃないよ。母様の心持が分らないことがあるものか、母様と僕は恋人同志じゃな 「母様は僕が昔の女のことなんかを思って居ると思うのかい。」 晶子が寛の二番目の妻・林 瀧野との関係を思い出し、寛に怨嗟の言葉を投げて、寛の怒りの防御のため卒倒します。寛が抱きかかえて、瀧野は正富汪洋と結婚し、子供が4人いることとか、寛の気持ちを話して、晶子が一つの明るみを見いだします。 夫を送り出して
『私は何んだか急に自分の命がぐらつき出したのを感じます。これは良人の居なくなった家へ帰って来た以来の新しい変化です。まだじっと細かに反省して見る暇もない事ですけれど、また此気持が幾日続くのか、大船が出て行った航跡に立つ波動のように、何時も一所に居るものだと思って居た良人を、海の彼方へ手放したと云う、私の歴史の上に可なり大きな変革に出遇った跡の一時の胸騒ぎかも知れませんけれど、まあ今の私の驚きと標えとに満ちた心から云えば、私は又赤ん坊のような人間になって行き相(そう)です。』 このように、中六番町の家を中心に、寛が旅立つまでの間のことを、過ぎ去ったことを混ぜながら描いています。 「東京朝日」新聞に大正2年6月5日から9月17日まで、100回連載されました。晶子の渡航費を朝日新聞社から前借りしたこともあり、 社会部長渋川玄耳が晶子がパリから帰ったら執筆をとの約束をしたものとされます。 大正5年1月1日、金尾文淵堂から単行本として出版されましたが、朝日新聞掲載の最後の部分、11回分が省かれています。従って、今日、読めるのは89回分までということになります。 なぜ明るみか? 二つの「明るみ」がありそうです。 一つは、晶子と寛の間にずっと覆い被さってきた、寛と他の女性との関係、気持ちの整理です。この作品の中で、前妻・信子や瀧野への晶子の憎悪と憤懣が積もり積もって、遂に京子=晶子が卒倒するシーンが描かれます。
『京子は目を開いた。気が附く迄京子の身体は透の手に抱かれて居たのである。京子の目の前に淑と寿満子が並んで立って居て、足の処にはきよが居た。河合は硝杯(コップ)を持って立って居た。河合の自分を呼ぶ声も確に聞いたと京子は思った。京子は首を廻して良人の顔を見た。 もう一つは、寛のこれからへの明るみへの期待でしょう。ヨーロッパに旅立つに際して、ひさしぶりの大勢の見送りを得て、かっての颯爽たる、力強い人へと再生する気配を見せる かのように寛の姿を描いています。 続編なし 産後の不調をおして、晶子が迫力を込めて最初の大作とした小説です。意気込みも大きかったと思います。朝日新聞100回の最終には「前編終り」となっていました。晶子の気持ちには、後編として、渡欧中、帰国後、そいて バリバリ活躍する明るみへ入った寛と自分、新詩社の世界を描くことを予定していたのではないでしょうか。 それが遂に描かれませんでした。逸見久美は 『なぜ後編を書かなかったか、その事実は判定し難いが、寛が帰朝後、期待した通りに蘇生していたならば、滞欧中、帰国後の夫婦の生活も絡めて晶子は書いたかも知れない。しかし元の木阿弥、詩壇に返り咲くことはなく再び暗澹とした日々が続くようになったので続編が書けなかったのであろうか。』(明るみへ解説) としています。そうだとしたら淋しい限りです。 本当に参考に 評者は「明るみへ」は小説としては「手法が必ずしも優れていない」とします。また、小説を事実とする愚は承知の上で、やはり「明るみへ」は当時の寛と晶子の様子を知る貴重な作品と思います。 (2005.01.24.記)
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