「総合的な学習の時間」とは?

00/02/21 22:33:52

 「総合的な学習の時間」は平成12年度間もなくその移行期間を迎える。
各中学校ではそのカリキュラム作りに悪戦苦闘している。まずは各学年70時間以上をどうやって生み出していくかである。とにかく、今年の春はいつも以上に”時間割編成”が忙しそうである。隔週で変わるような変則時間割になる可能性大であろう。

 下記のような構想図は最近良く見かけます、関連した数多の書籍・論文等もたくさんあります。 

 しかし、平成10年(98/09/27 22:20:07)にUploadしている下記の田中先生の論文は開発教育が培ってきた長年の理念から「総合的な学習」を考察したものであり、「総合的な学習」への概論の先駆け的存在だと私は思っています。


98/09/27 22:20:07

まず初めにことわっておきますが、私は開発教育協議会の会員であり、同時にLLA学会・関東甲信越英語教育学会員でもあります。そのため引用が学会の各方面の先生方の場合がありますが、全体として引用部が3分の1以上にならないように配慮し、かつ最終的なゴールに関しては決して各種方面の論文の結論を正当化するものではありません。

 また、英語科と「総合的な学習の時間」との関連は私の修士論文(H.8)の中でも述べており、その英語科としての扱いについては独自の見解があります。

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参考:小学校の異文化体験学習


 開発教育No.38-立教大・田中治彦著より

  まず、お断りしておかねばならないのは私自身 は開発教育については20年くらい考え続けてきて いるが、こと学校教育のカリキュラム論について は「しろうと」と言った方がよい。それでも総合学 習についての原稿をお受けしたのは、2002年の学習指導要領から導入される予定の「総合的な学習の時間」が創造力豊かに展開されるために は「しろうと感覚」も必要だろうと考えたからであ る。本誌読者のおそらく半数くらいは学校関係者 ではないだろう。しかしながら「総合的な学習の 時間」は、校門まで追っているグローバル化と情 報化の波に対応しきれない旧態依然とした「学校」 の門を押し開くべく設定されるものと私は解釈し ている。その意味では本誌の読者の半数を占め る国際協力NGOや社会教育関係者もこの議論に 加わり、新しいカリキュラム作り、授業作りに参加 してもらいたいと願うものである。

1「総合的な学習の時間」

 総合学習という用語が一般の人々の耳目に届 き関心をひくようになったのは中央教育審議会 (中教審)が1996年7月に21世紀初頭の学習指導要 領の基礎となる第一次答申のなかで「総合的な 学習の時間」の設置を提言してからである。中教 審答申と開発教育との関係については本誌35号 (1997年3月)で特集しているのでここでは深入り しない。中教審答申を受けて設置された教育課程 審議会(教課審)は昨年11月に「中間まとめ」を 公表し、この中で総合学習について中教審答申 よりはやや具体的に記述している。本答申はこの 6月22日に出されたばかりである。本答申(審議の まとめ)にしたがって「総合的な学習の時間(総合 学習)」の内容をまず紹介しておきたい。  まず、現行(1989年度)の指導要領では小学 枚・中学枚の教育課程は「教科」「道徳」「特別活 動」の3領域から成り立っている(高校は道徳を除 いた2領域)。「教科」は国語・算数(数学)・理科・ 音楽など10教科であり、「特別活動」は学級(ホー ムルーム)活動、児童会(生徒会)活動、クラブ活 動、学校行事に分かれる。教課審の「中間まとめ」 によれば、小・中学校では領域として総合学習が 加わり、「教科」「道徳」「特別活動」「総合的な学 習の時間」の4領域となる。すなわち総合学習は 一つの教科として導入されるのではなく、道徳や特別活動と同等の領域として加わることになる (図1)。

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 本誌35号で金谷敏郎は総合学習の内容とされ ている「国際理解・情報処理・環境学習が、これか らの教育に必須の社会的要請であるとするなら は、なぜこれらをそれぞれ、独立した科目として改 定してはいけないのか」と疑問を呈している。し かしながら現実問題として総合学習が教科では なく道徳や特別活動と同列の「領域」として改定 されることは本決まりであるので以下それにした がって記述する。それでは総合学習の内容はど のようになっているのだろうか.「審議のまとめ」 をそのまま引用しよう。 「総合的な学習の時間」の学習活動は、(中略) 地域や学校の実態に応じ、各学校が創意工夫を 十分発揮して展開するものであり、具体的な学習 活動としては、例えば国際理解、情報、環境、福 祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒 の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に 応じた課題などについて、適宜学習課題や活動 を設定して展開するようにすることが考えられる。 その際、自然体験やボランティアなとの社会体験、 観察・実験、見学や調査、発表や討論、ものづく りや生産活動なと体験的な学習、問題解決的な 学習が積極的に展開されることが望まれる。  ここで具体的に示されているのは「国際理解」 「情報」「環境」「福祉・健康」の4つの学習であり、 きらに自然体験・社会体験などの「体験学習」も 示されている。またこれらはあくまで例示であり、 これ以外の「横断的・総合的な課題」「児童生徒 の興味・関心に基づく課題」「地域や学校の特色 に応じた課題」などを学習課題としてもよいとさ れている。総合学習は「国際化や情報化をはじめ 社会の変化に主体的に対応できる資才や能力を育成する」ために設置されるわけであるから、現代的な課題であってかつ各教科で取り上げられ にくい諸課題を学校ごとクラスごとに設定しても よいことになる。例えば、生と死(脳死問題)、セ ックスとジェンター、暴力と麻薬、宗教、プライパ シーとマスメディア、核兵器と安全保障など私た ちの生活に直接間接に大きな影響を及ぼしたり 私たちが日々選択を迫られている課題である。  一方でこれまでの教育界の体質として公的文 書に「例示」されたことの意味は大きく、実際には 総合学習は当面ここで例示された4ないし5領域 を中心に展開されることになると予想される。開 発教育がどの内容において展開しうるかという点 については後述しよう。  筆者は本誌35号で、次の指導要領では学校 五日制が完全実施となり総時間数が減ることと、 時間削減に対する各教科の抵抗が強いことを考 え合わせて、総合学習はせいぜい週1時間程度し か取れないだろうと予想した。ところが、「審議 のまとめ」では総合学習には小学枚3・4年で年間 105時間、5・6年で110時間が割り当てられており、 いずれも週当たり3時間が取られている.中学では1年が70〜100時間、2年が70〜105時間、3年が 70〜130時間であり、週当たりで2−3時間が割り 当てられる。筆者の予想は見事にはずれたが、 それだけ文部省が今回の指導要領の改訂に当た って「総合学習」にかける期待が大きいことがわ かる。総合学習は現在小学枚1〜2年で実施され ている「生活科」に乗せて小学枚3年以上で設定 される。週3時間といえば現在の社会科と同じ時 間数であり、総合学習の実施については今から 本腰を入れて準備しなければならないであろう。

2 カリキュラムとしての総合学習

 それではこの総合学習をとのようにイメージし たらよいだろうか。実は教科を超えた「横断的・ 総合的な学習」は、日本の教育の歴史のなかで決 しで目新しいものではない。水越敏行は、日本の カリキュラムはほは30〜40年おきに教科中心カリ キュラムと子ども中心カリキュラムの間をらせん 状にたどっているという。図2に示されたAの大 正自由教育の時代(1920−35年ころ)は世界的な 新教育運動が展開され、日本でも付属小学枚や私立学校で生活中心のかカリキュラ ムが実践された。その伝統は 今でも玉川学園、自由学園など に残っている。Bの皇国教育の ころ(1935〜45年ころ)になる と、教科の統合性はむしろ進 展したものの全体としてみれば 修身、国語、国史などの教科主 義が中心となった。  戦後に連合国の占領下で教 育の民主化が進み、その核とし て問題解決学習を中心とする 経験主義の学習が全国の学校 を風靡した。図2でいうとCの 戦後の新教育の時代(1945〜 57年ころ)である。本誌の読者 の大多数が学んだのはDの時 代であり(1958年以降)、技術 立国によって西欧に「追い付け 追い越せ」が目標であり、また 東西冷戦下のイデオロギーの 締付けもあって教科中心のカリ キュラムが全盛となった。  その結果、「詰め込み」「落ち こぼし」といった現象が現れ、 最近では子どもが授業に興味関心を全く示さな いという深刻な事態も現出した。教科中心のカリ キュラムは個々の子どもの発達よりは教科の背景 にある科学の論理を優先しがちである。そのた め子どもの理解いかんにかかわらず先に進んで しまうためこのような現象が出てくるのである。ま た最近の重要な課題である、環境、開発、人権、 情報などはそもそも教科の枠組みに収まりきらず、 またその基礎となっている科学の系統から見て も「学際的」であるため、教科中心カリキュラムか らはこのような重要課題が取り残されてしまった。 これらの背景により今回の合科・総合学習(図2 のE)の提言に至るのである。  それではカリキュラム論から見たときに総合学 習なり「横断的・総合的な」学習とはどのような学 習活動なのであろうか。水越は米国でのカリキュ ラム研究をもとにカリキュラムを図3のように類型 化している。図3の最上段の「並列カリキュラム」 は主に科学の体系に基づいて構成きれた現行の 教科別のカリキュラムである。国語、理科、英語、 社会といった科目が相互にほとんど連関のないま ま並列的に教えられる。2段目の「相関カリキュラ ム」は独立した教科が相互に関連したり、重なっ て学ぷことができるようにカリキュラム構成上の 配慮をすることである。例えば、社会科で熱帯林 の問題の授業をしているときに、同じ学期に理科 で森林の生態系の学習を行うというような配慮で ある。 3段目のクロスカリキュラムは、あるテーマにつ いで近接し関連した教科・領域をまとめ、数時間 の学習活動として単元的に構成するものである。 現行の教科・領域を前提として開発教育のテー マを学習しようとすればこのクロスカリキュラムの 手法をとらぎるをえない。最下段のコア・カリキ ュラムでは、以上のような教科の枠組みから完全 に解放されて、個別テーマ(コア=核)を中心に学習が展開される。「開発」「環境」「人権」「ジェン デー」「多文化共生」といったグローバルな課題は それぞれテーマごとに教えられる必要があり、そ の内容は現行のカリキュラムでは社会、理科、家 庭、保健、道徳など多学科・領域にまたがっでい る。そのため、教科の枠組みを前提とする限りは 十分に学習活動が展開されない。その意味で今 回導入されることになる総合学習にとって、コ ア・カリキュラムはひとつの有力なカリキュラム編 成原理である。  水越は図3の上3段が教科主義こ基づくカリキュ ラム、最下段を経験カリキュラムと解説している が、経験カリキュラムはここで上けられているコ ア・カリキュラムに限られるものではない。  総合学習については他の分類法もある。加藤 幸次は従来学校で行われてきた総合学習を以下 のように分類してその実践例を上げている。 @「教科」総合学習 G「合科」総合学習 B「学際的」総合学習 C「トピック」総合学習 D「興味・関心」総合学習  @の「教科」総合学習では、例えば社会科で 「縄文時代」を扱うのと並行して特別活動で古代 人の住居を作ってみるというような例が上がって いる。水越の図3との関係でいえば相関カリキュ ラムに相当する。Aの「合科」総合学習には、社 会科と理科を基礎として新しく設定された「生活 科」の事例がある。  Bの「学際的」総合学習には中国の人口問題を 教えるに当たって、数学(統計)、社会(歴史・地 理)、理科(生物・化学)、国語(文学)で複数の教 師によって追求するといった事例がある。一見次 の「トピック」総合学習と同じと感じられるが、こ こではまだ教科の枠組みをくずしていないところ に特色がある。Bの「学際的」総合学習は図3で いうとクロス・カリキュラムに相当するものである。 以上を加藤は「教科アプローチ」と分類している。  さて、C「トピック」総合学習とD「興味・関心」 総合学習について加藤は教科アプローチに対し て「生活アプローチ」と位置づけている。これは 前記の経験カリキュラムに相当するものである。 「トピック」総合学習は教科のタガをはずして、個 別テーマについて学習を進めるものである。私 たちの生活に直接間接に関係のある平和、人口、 環境、エネルギー、情報などの問題を学ぶ際には この「トピック」総合学習にならざるをえない。加 藤は今後導入される総合学習の中心はこの「トピ ック」総合学習となるであろうと述べている。  D「興味・関心」総合学習は、教科の論理から は最も遠く、学習者の興味関心に最も近いところ にある学習活動である。学習者がその興味関心 に従って自由に課題を設定し展開する学習活動 とされる。現在のよく行われている事例では小学 校の夏休みの宿題に出される「自由研究」や一部 の中学高枚で行われている「卒業レポート」「課題 研究」がこれに相当する。教師はテーマの大枠 を示すことはあっても、実際の研究テーマと学習 方法の選択は学習者の手に委ねられている。  こうしてみてくると、総合学習といっても全く目 新しいことをするわけではなくて、従来の学枚に おいてもしばしば実践されてきたものである。実 際、本特集号に寄稿されている論文もそれぞれ 上記の分類に入るものである。萩原茂論文(「開 発教育の視点を取り入れた国語の授業」)は中学 の国語という教科をベースとしてさまぎまな参加 型学習の手法を採用して開発教育の目標を追求 していく「教科」総合学習の一事例と考えられる。 また、チョコレート作りから南北間親を追求した

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 高橋道子の実践(「総合学習の時間を開発教育の チャンスに」)もまた社会科における「教科」総合 学習である。  楢府暢子論文(「教科横断型の総合学習の構 成」)は、「タイ米」をテーマとして家庭科・英語・ 社会科の3教科の3人の教員が教科横断的に授業 を構成した典型的な「学際的」総合学習である。 岡山市立旭竜小学枚長であった片山主計の実践 (「国際理解教育の一環として」)は、国際理解教 育を全校ぐるみで展開したもので、小学校のすべ ての教科、特別活動、学校行事を動員して国際理 解教育を実施している。その実践は多岐にわた るがそのきっかけとなったのは中国残留孤児家 族の入学であり、「中国」をテーマとした学習だっ たようである。  以上の4事例は現行の学習指導要領の枠組み の中で実践されているために、その追求する目標 は学際的でありテーマ中心であるにもかかわら ず、どうしても従来の教科・領域をベースに展開 せざるをえない。もし今後総合学習が導入されれ ば、これらの実践はよりやりやすく、かつより多様 に展開することができるだろう。  これらに対して高等学枚の場合は現行の指導 要領のもとでも事実上総合学習を展開することが 可能である。新堀毅論文(「高校での総合学習の 展開」)にあるように東京都立国際高等学校の場 合はその建学の目的自体に国際理解が入ってお り、教科として「国際理解」が設定されている。 従って同高校の場合、従来の教科の枠にこだわ らず「テーマ」総合学習や「興味・関心」総合学習 が可能である。3年次必修の「国際関係」という科 目では年間を通して「相互依存の世界」「開発と 環境」「戦争と平和」「人権の尊重」の4テーマが設 定されている。これらはまさに開発教育の「テー マ」総合学習である。 「興味・関心」総合学習の良い事例が神奈川県 立外語短大付属高枚で行われている「プロジェク トリサーチ」である(石塚章論文「プロジェク トリサーチ」という科目における一実践報告」)。 同校では国際科の2年次生に通年の科目としてこ の「プロジェクトリサーチ」を課していて、生徒 は自分の興味関心に従ってテーマを選択し、一 年かけて論文を作成する。前記、東京都立国際 高等学枚の「課題研究」の科目も趣旨はほとんど 同じで「興味・関心」総合学習のひとつの事例で ある。

3 開発教育力リキュラムの試み  

 それでは来るべき総合学習のなかに開発教育 はどのように位置づくのであろうか。従来の学習 指導要領であれば、私たちはその中にどれだけ 開発教育関連の内容を入れることができるか、そ して教科書にどれだけ盛り込むことができるかと いうことに腐心した。しかし、今回の総合学習で はそもそも指導要領に詳細な内容は明示されず、 しかも教科書自体がない。再度の引用で恐縮だ が「総合的な学習の時間」の学習活動は「例えば 国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断 的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づ く課題、地域や学校の特色に応じた課題などに ついて、適宜学習課題や活動を設定して展開す るようにすることが考えられる」と記述されていて 各学校にその内容や方法が委ねられている。  とすると「総合学習の中に開発教育はどう位置 づくか」という問いかけは誤りであって、「私たち は開発教育を総合学習の中にどのように位置づ けようとしているのか」あるいは「そのためにどの ようなカリキュラムと教材等が必要なのか」という 問いに変えねばならない。これを現場から言え ば「来るべき総合学習の実施に当たって、開発教 育はどのような実践の蓄積があり、どのような内 容と方法そして教材を提示してもらえるのか」と なるであろう。  開発教育協議会はこれらの開いに応えるべく 先の総会において「中期3か年計画」をスタートさ せ、その中で「開発教育研究会」を発足させるこ とを決めた。同研究会は総合学習をにらんだ「開発教育カリキュラムの作成」と「開発概念の検討」 を2つのテーマとし、5月末に第1回の研究会を行 っている。その準備状況はこの夏横浜で開催さ れる全国研究集会の課題別分科会で報告される であろう。  研究会は、今後総合的な学習の時間がとうな るのかということを常に視野に入れながらも、当 面は開発教育協議会がこれまで蓄積してきた理 論と実践を整理し、独自の「開発教育カリキュラ ム」を作成することが大切であるという認識をも っている。第1回の会合において小貫仁(埼玉県 立所沢緑ヶ丘高枚)が学校における開発教育の目 標について報告したので、以下それに従って開 発数育の目標論について考えたい。  開発教育の定義については1993年から3か年 にわたって全国研究集会などで議論しており、そ の成果は協議会のパンフレットなとにおける開発 教育の説明に生かされている。ここでは開発教 育とは以下のようなねらいをもった教育活動であ ると定義しておく。  私たちは、これまで経済を優先とした開発をす すめてきた結果、貧富の格差や環境破域など、さ まざまな問題を引き起こしてきた。これらの問題 に取り組むことが、私たちみんなの大きな課題と なっている。  開発教育は、私たちひとりひとりが、開発をめ ぐるさまざまな問題を理解し、望ましい開発のあ り方を考え、共に生きることのできる公正な地球 社会づくりに参加することをねらいとしている。  そのために、開発教育は次のような教育活動を 展開する。  

 

@開発を考えるうえで、人間の尊厳性の尊重を前堤とし、世界の文化の多様性を理解すること
A地球社会の各地に見られる貧困や格差の現状を知り、その原因を理解すること
B開発をめぐる問題と環境破壊などの地球的諸課題との密接な関連を理解すること
C世界のつながりの構造を理解し、開発をめぐる問題と私たち自身との深い関わりに気づくこと
D開発をめぐる問題を克服するための努力や試みを知り、参加できる能力と態度を養うこと

 この文章はその前段で開発教育のねらいを明 らかにしている。開発教育はつまるところ「共に 生きることのできる公正な地球社会づくり」をめざ している。すなわち「共生」と「公正」である。「共 生」とは文化・宗教・民族が違う者同士が文字ど おり共に生きることである。これは人間と文化の 多様性の理解とその尊重の上に成り立つ。一方 「公正」はこの地球社会の不公正・不平等を是正 するもので経済的・制度的改革を伴うものであ る。これを教育的に見るならば前者は「違い」を 尊重するアプローチであり、後者は「平等」を志 向するアプローチである。「違い」を認めながら

「平等」を追求するのは一見ベクトルの方向が逆 であるので教育方法としてはかなり工夫を要す る。  文章の後段の@−Dは開発教育の目標である。 開発教育のカリキュラム作成のためにはこの目標 を小学枚・中学枚・高校別、さらには各学年ごと に設定していく作業が必要である。開発教育の 学習を主に「文化領域」と「課題領域」に分けて、 それを発達段階別に学習目標をイメージ化したも のが図4である。小学枚の段階では文化領域の学 習が多く、年齢が上がるに連れて課題領域の学 習が増加する。あるいは「共感的理解」から「構 造的理解」へといったストリームを想定している。  カリキュラムを作る際には発達段階という視点 とともに、目標をさらに「知識目標」「態度目標」「技 能目標」に分けていく考え方も大切である。小貫 は初等教育(小学枚)と中等教育(中学・高校)に おけるそれぞれの目標を仮に次のように想定して いる。

A. 初等教育  初等段階の開発教育のねらいは、異文化との 共存の感性を育み、身近な問題から開発のあり 方を考え、世界の緊密なつながりを理解して、共 に生きることのできる公正な地球社会づくりに参 加できる基礎を養うことである。そのために次の ような目標を設定する。

【知識目標】  

@世界のきまざまな文化を理解する
A地域の問題を理解し、世界の貧困・格差の現実を把握する  
B環境問題などの地球的諸課題を理解する  
C世界のつながりに気づき、貿易等の関係の実態を理解する  
D世界の諸課題への対応と日本の役割を理解する

【態度目標】  

@自分への自信をもち、他者を受容する  
A他者への共感がもてる  
B広い視野で世界への興味、関心をもつ  
C不正を嫌い、伸間と共に生きようとする  
D問題解決のために仲間と協力しあう

【技能目標】  

○資料を収集・選択し、調査できる  
○課題を客観的に探求できる  
○調べたことを整理し、表現できる  
○相手を受けとめて、意見交換できる  
○問題解決の可能性に希望をもてる

 知識目標と態度目標の@〜Dは先の開発教育 の定義の@〜Dに対応している(中等教育も同 じ)。例えば、知識目標の「@世界のさまぎまな文 化を理解する」は感度目標「@自分への自信をも ち、他者を受容する」に対応する。自信をもち他 者を受入れることなしに世界の文化を知ったとし てもそれは単なる「もの知り」にすぎない。自分の 身の回り(たとえば学校のクラス)で他者を受容す る態度があったうえで、世界の文化を知ることが 将来多文化の「共生」へとつながっていくのであ る。  同様に、「A世界の貧困・格差」といった知識は、 「他者への共感」があってこそ生きてくるのである。 共感のない貧困理解は「日本のような豊かな国に 生れてよかった」という感想を残すのみであろう。

B.中等教育

 中等段階の開発教育のねらいは、世界の多様性を尊重し、開発をめぐるさまぎまな問題を理解 し、望ましい開発のあり方を考え、共に生きるこ とのできる公正な地球社会づくりに参加すること である。

【知識目標】  

@世界の多様な文化に現れる人間の尊厳性と世界の多元性を理解する  
A貧困や南北格差の現状と原因を理解する  
B地球的諸課題を理解し、関連性を総合的に考察する  
C世界のつながりの構造を理解し、開発をめぐる問題と自分自身との関わりを理解する
D問題克服のための努力や試みと日本の役割を理解する

【態度目標】

@自分を見つめ他者を尊重し、世界の多元性を受容する
A問題こ共感をもち、世界との関係を引き受ける
B広い視野で世界への興味、関心をもつ
C不正を嫌い、人々と共に生きようとする
D勇気と希望をもって、未来のために協力しようとする

【技能目標】

○資料を収集・選択し、調査できる
○課題を批判的に分析し、多角的に考察できる
○調べたことを整理し、表現できる
○相手を受けてめて、平和的にコミュニケーションできる
○問題解決に先見性をもって、建設的な意思決定ができる

  開発教育のカリキュラム化に当たってはこれら の目標論を精緻にするとともに、さらにそれぞれ の段階で開発教育の内容と方法と教材とを結び 付けていかねばならない。これらの作業は今後 のことになるが、ここで気をつけねばならないの は、開発教育のカリキュラムは、従来の科学優 位・知識中心カリキュラムのように一定の知識を 発達に応じて羅列した上位下達型の体系性重視 のカリキュラムを避けねばならないことである。 教師の問題意識と生徒の興味関心こ従って自由 に創造力豊かに展開できる余地をもった、あるい はそうなることを促すようなカリキュラムづくりに チャレンジしていきたい。

4 総合学習と開発教育  

 それでは2002年の学習指導要領が想定してい る総合学習の中に開発教育はどのように位置づ けたらよいであろうか。私たちは上記のような考 察の結果、開発教育の内容は総合学習の「国際理 解」の部分をおおむねカバーできると考えている。 現在学校レベルで行われている国際理解教育は 英語学習、国際交流、異文化理解が主である。 私たちは今後の国際理解は地球社会の公正と共 生をめざしたより課題解決的なアプローチが必 要と考えている。  総合学習については「中間まとめ」の時点では 内容の例示として「国際理解・外国語会話」となっ ていた。私たちはこの記述では国際理解の内容 が外国語会話(すなわち英会話)に置き換えられ るのではないかという強い危惧をもち、協議会と してもこの点について意見書を堤出していた(本 号62頁参照)。幸い「審議のまとめ」では総合学習 の内容の部分では「国際理解」単独の表記となり 外国語会話がはずされている。外国語会話につ いては「小学校において、国際理解教育の一環と しての外国語会話等が行われるときには、各学校 の実態等に応じ、児童が外国語に触れたり、外国 の生活や文化などに慣れ親しんだりするなと小 学校段階にふさわしい体験的な学習活動が行わ れるようにすることが望ましい。」と記されており、 「中間まとめ」に比べればかなり改善されている。 開発教育の発想を採りいれた小学生にふさわし い英会話教材の開発も今後のひとつの課題とし ておきたい。  また総合学習の内の「環境教育」についても開 発教育の立場から提言していく必要があろう。現 在行われている環境教育の問題点は、第一に環 境破壊の原因を先進工業国の過剰開発に求めて いて、開発途上国の人口と貧困の問題を軽視し ていることである。すなわち南北間の格差の是 正こそ地球環境を守る道であるという視点が明 確でない。第二に、環境における地域課題とグ ローバル課題との関連性が不明確で、人々の認 識が地域から地球へと広がる学習の筋通が十分 に出来ていない。第三に、従って環境問題の解 決を「省エネ」や「リサイクル」のための「体験学 習」を通した「心構え主義」に追い込む傾向があることである。これらの問題点を克服するために は開発教育と環境教育が統合的に行われるべき であり、そのためのカリキュラムを私たちは提言 していかねばならない。  以上の他にも「情報教育」や「福祉・健康」にお いても、あるいは「審議のまとめ」には例示されて いないものの総合学習の中で扱われてしかるべ き分野(例えば、ジェンダー、平和、人権)におい ても開発教育のこれまでの実践と発想が有効に 生かされる領域はあるだろう。  長年カリキュラム研究を現場の教師とともに行 ってきた佐藤学は、「いくら「総合的な学習の時間」 が与えられても教師の側に教えたい内容や追求 したい主題(がないならば)結局、文部省や教科 書会社が提示する通りの内容に頼らざるをえなく なる」と述べて、総合学習が導入されたからとい って現代的な切実な課題が子どもたちに「自動的 に」教授されるものではない、とその危険性を指 摘している。そして、教師が「一人の市民として 社会と向き合い自己の人生と向き合っているな ら、そして教師自身が真摯な学び手であるなら、 子どもに何が何でも教えたい内容や子どもと探 求したい事柄は、いくら時間があっても足りない ほど抱いているはずである」として、総合学習は つまるところ教師の構想カと自律性に係っている と結論している。  佐藤の言は私たちを勇気づけてくれる。なぜな ら、開発教育の各種の集会には「一人の市民とし て社会と向きあい自己の人生と向きあい」「真摯 な学び手」である多くの教師と、学校外で活動し ている市民とが集っているからである。総合学 習に開発教育が位置づくかとうかはまさに私たち の構想カと創造力といくばくかの努力に係ってい る。さらに言うならば、開発教育が学校のなかに 根付くそのときこそが混迷する日本の学校数育に ひとつの光明が与えられるときであると信じるも のである。

 

 

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次は小学校の実践例です!

 

 

1)金谷敏郎「これからの学校数育と開発教育一  中央教育事議会第一次答申を読んで」「開発教  育」35号、1997年3月、8頁。

2)教育課程審議会「幼稚園、小学枚、中学枚、高  等学枚、盲学枚、聾学校及び養護学枚の教育  課程の基準の改善について(審議のまとめ)」  1998年6月。

3)田中治彦「21世紀初めの教育課程に望むも  の一開発教育の立場から」「開発教育」35号、  40頁。

4)水越敏行(他編)「どう取り組むか総合的学習」  三晃書房、1997年、46〜54頁。

5)加藤幸次郎(編著)「総合学習の実践」黎明書  房、1997年、8〜17頁。

6)小貫仁「学校での開発教育の全体構想(草稿)」  1998年。 7)佐藤学「カリキュラムの批評」世識書房、1996  年、450〜451頁。