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    第二章 「妻の旅路」

    ☆第二章「妻の旅路」 第一節「台所の異変」

    夫はまだ帰ってこない。今日は特別の日だから、思いきり豪勢なご馳走を用意しなくては。器も嫁入りの時に持ってきたとっておきのディナーセットで、ずっと試したかった北欧風のテーブルセッティングをしてみよう…
    いそいそと働くうち、嫌な臭いに気がついた。 どこかでかいだ事がある臭いだ。ちょっと気になったが、夫の帰宅時間もせまっている。食事の用意をしなければ。 今日で3回目の結婚記念日。夫は、お腹をすかせて急いで帰ってくるに違いない。結結婚記念日はいつもそうだ。
    ディナーセットを並べる終わると、夫が香港出張の時に買ってきた皿の事をふっと思い出した。
    まだ使われた事がない、黄金の龍が描かれたその皿は香港島の路地裏のうらぶれた骨董品店の隅に、埃をかぶった状態で無造作に置かれていたものだ。  ほんのひやかしで店を覗いたつもりだったのに、埃の下にうすぼんやりと見える、皿の中の黄金の龍が視界に入ってからというもの、 夫の心はその龍に釘付けになってしまったという。 泥鰌髭の骨董品店の親爺に出所を聞いてみたのだが、広東語しか喋れない親爺の言葉のなかから、 夫は「九龍城」という単語を聞き取るのがやっとだったと、話してくれた。 夫はなにか怪しい因縁があるように思ったが、龍の魅力に負けて購入を決断してしまったそうだ。 親爺は夫の心を見透かしたように非常に高い値段をふっかけてきた。 筆談による交渉の結果、夫は言い値で買うのと引き換えに、この皿の出所の手がかりを得た。 それは一枚の紙切れ、売主らしき人の住所が広東語で書かれているものだった。
    夫はその紙を私に見せながら
    「結婚記念日も近いことだし、香港までいっちゃおうか、思い切ってさ」
    とぬかした。
    「何言ってるの、そんなお金がどこにあるのよ」
    と私は言ってやった。
    「ただでさえ安月給の子沢山で苦しいのにそんな高いお皿まで買ってきちゃってさ。 あなたときたら夢みたいなことばかり言って生活のことはちっとも考えてくれないんだから。 何が九龍城よ、バカ」
    あんなこと言わなきゃよかった。夫はバカヤローとどなって家を出ていってしまった。 四男の鉄平が火のついたように泣き喚き、三男の賢三があやしてくれたっけ。長男の洋一は
    「かあちゃん、おれ、とうちゃんを連れ戻してくる」
    と叫んで、次男の幸治を連れて家を飛び出して行った。それが、昨日の夕方。 洋一と幸治は、深夜になって、なんと小猫を連れて帰ってきた。父親に似てマヌケな連中。 あまりのことに私は笑い転げてしまった。 思っていた通り、翌朝はやく夫から電話があった。
    私がいなければ何もできない人なんですもの。 思った通りだわ。みすかすみおろすあざわらってぺしぺしほらみろなことよぺだわぷだわぴだわ、と思いながらもほっとする自分がいる。受話器を握り直す手が汗ばんでいるのは、深層心理のなせるわざなのかしらどうかしら。電話線の中を身をよじるようにはるか彼方から渡ってきた雑音の中にかすかにまじる夫の気配。濃度にすれば0.052ppmくらいね、と冷静に計算する私の背後から、 じっと見つめる誰かの熱い視線。思わず振り向くと、皿の地平に躍る黄金の龍がウィンクした。

    ☆第二章「妻の旅路」 第二節「龍の道をいけ」

    突然、龍の皿から雲がわき出すと、台所一面が異界へと転じた。 龍は皿の中でうごめく、巨大な姿を雲の中に舞い上がらせた。
    みんな、その異変に唖然として立ちすくんだが、子猫だけが龍に牙をむいた。 そして異界の中では子猫も巨大な虎に姿を変えた。
    龍と虎が睨みあう。龍は突然身を翻し、彼方へ逃げたがその巨体は一つの道を作った。 虎はその背に飛び乗り駆けていく。
    握りしめた受話器からかすかな声が聞こえた
    「龍の道をいけ…」。
    私はその場に立ったまま、すでに遙か彼方にまで延びた龍の道にゆっくりと視線を走らせた。
    「早くいけ。間に合わないぞ!」
    電話から再び声が聞こえた。いまの声は確かに夫の声だ。しかし、あのどうしようもなく頼りない男の声とは思えないほど、緊迫した、しかし自信に溢れた声だった。
    だが、いきなりそういわれてもここには四人の子供がいる。相変わらず無責任な夫だとあらためて嘆息した。
    ああ、どうしてこの人と結婚してしまったのだろう?私には魔がさしていたとしか思えない。 前の彼にふられてヤケになっていた私を、優しく慰めてくれたのでつい、、 思えばあのときに洋一が生まれてさえいなければ、私は今ごろ違った人生を歩んでいたかもしれない。 ひょっとして夫は子供達が本当に自分の子かどうか疑っているのかしら? あなたの子供ができたと言っておしかけて行った私を喜んで受け入れてくれた彼と今の主人が同じ人だなんて、信じられないほどの変わりよう。
    「ね、あたしどうしたらいいと思う?」
    思わずお皿の龍に話しかけた私。バカね、お皿の龍が答えてくれるわけないじゃない…
    と思ったその時、お皿の龍が答えた。
    「そんな旦那や家なんか捨てチャイなよ」
    「えっ!?」
    驚く私に龍は笑って
    「僕がきみを素敵な世界へ連れてイッテあげル」
    「だってそんな…子供たちや虎はどうするのよ」
    「虎の奴は、僕の背中に乗せて龍の道の彼方、崑崙に帰したサ」
    そういえば、そんなこともあったっけ。記憶があいまいであることに私はとまどう。
    「でも子供たちは?」
    お皿の龍は、またウインクして
    「かわいい子には旅をさせろって言うじゃないか。大丈夫、坊やたちには幸せな未来が待っているヨ。 僕にはわかるんだ」
    「じゃあ聞くけど、私の未来はどうなるの?」
    「ソイツは、きみが僕について来るかどうかにかかっているナ。そうじゃないかネ?」
    龍は言い放つと金色に輝く首を高くもたげる。私は、わ、私は…。 どうしてこんなことになってしまったんだろうか。いつものように料理をし、いつものように子供たちを叱りつけ、いつものように夫が帰ってきさえすれば、そうすれば私は良かったのに。 ふと力が抜けて、二、三歩後退した。
    と、何かが足にあたってよろめいた。ふと見るとそれは夫の愛読書であったラブクラフト全集の第十三巻。
    …ややや、なにか変な気がする。 そりゃ私はラブクラフトだかビタクラフトだか知らないけどそいつでダシはとれるのか、と聞いて夫から冷笑された女よ。読んだことなんかないけど――。 でも、第七巻がないないと大騒ぎしてたのは覚えてる。なら、十三巻なんてあるわけないのに…。
    拾い上げてみると、その本は妖しい銀色の光を放ち、それに呼応するように龍もその金色の輝きを増していく。
    「さあビタクラフトの中へ」、龍の声が天地に轟き、耳を押さえた。 そう、まさに銀色に輝くラブクラフト第十三巻は、その姿をビタクフラフトに変えようとしていた。 そして、そしてこの臭い。台所でかいだ奇妙な臭いだ。 おそるおそる、蓋を取る。その中は生ぐさい真っ赤な液体だ。 これは、血。それだけでは無い。その中でうごめくものがいる。目をこらしてみれば、それはまさしく、 血の池地獄でもがき苦しむ亡者たち。 あまりの恐怖に気を失う直前、血の池地獄に自分が引き込まれていくのが判った。
     

    第二章「妻の旅路」  第三節「血は出汁の味わい」

    そこは、赤一色の世界だった。 私の眼前には、緩やかにくねった道が遙か彼方まで延びている。 天を見上げれば、もがき苦しむ亡者たちの足が一面にうごめく。 そうだ、私はいまビタクラフトのなかにいるのだ。生活に疲れを感じていた私は、ついつい皿のなかの龍の誘いに乗って、こんなところに来てしまった。 なぜ私がこんな目にあわなければならないの?  こうなってしまったのも、全部あの人に甲斐性がないのがいけないのよ。
    「本当にソウかナ?」
    聞き覚えのある声がして、目の前に血まみれの龍がいた。 龍はペロッと口の周りの血をなめて言った。
    「もう一度聞かせて。こうなってシマッたのはなぜだってキミは思うの?」
    「え…」
    とまどう私に龍は言った。
    「僕、こう見えても心理療法士を目指してるんダ。自己龍だけどネ。 キミが吸い込まれたこの世界がこんなに血ダラケなのはなぜなのか、その答は
    たぶんキミの心の中にあると思うナ」
    心の中ですって? あんた、いったい何者? なんだか私は、むしょうに腹が立ってきた。 妙に親しげだけど、あんたは私の考えを読み取りながら、私を支配しようとしているんじゃないの? 私をどこかに導いてくれるようなことを言いながら、そのくせすべては私の考え次第だなんてヒトを混乱させて。 あんた心理療法なんていうけど実はマインドコントロールじゃないの? 私を出家させてガッポリ御布施をいただこうって魂胆? 私は小布施の栗鹿の子だったら歓迎でも御布施なんかシクラメンのかほりほどもポイなのよ。そんなだからビッグバンが訪れた暁には日本の金融界なんか甘ちゃんもいいとこ、せいぜい生きたまま目でも抜かれて…。
    次第に興奮が激しくなってきた私、その目の前が突然真っ赤に変わった。 すわ眼底から出血と思いきや、これは血の濁流である。その来る源に目をやれば、ニッコリ笑ったメートルが骨もろともカモノハシをばりばりと砕き、精魂こめて濃厚な血のソースに仕上げているようだ。 くるくる回るハンドル。ぴかぴか輝く複雑な装置の天辺に大きく口を広げたジョウゴ。むなしく宙を蹴るカモノハシの蹴爪。あぁ哀れなカモノハシ、と同情を覚えつつも、かすかに紫の憂いを帯びたビロードのような深紅色の濁流がたちまち私を魅了していく。カモノハシの断末魔の悲鳴が轟き、血しぶきが上がる。
    と、その時、この地獄絵図の空の異様さに気がついた。空を目を凝らして見てみると、そこには巨大な顔がのぞき込んでいる。 異様な世界の中でなぜそう思ったか不思議であるが、その顔こそが龍の皿を買った香港の骨董屋の店主に違いなかった。 直感的に確信した。その中国人は手に金色のビタクラフトを持っている。巨大なビタクラフトだ。その中には、いま、私のいるこの世界が封じ込められているのだ。
    この世界、いや、鍋の中は血の池地獄。骨董屋の親爺は、この鍋でなにを料理しようとしているのか。私は、自分が鍋の中の食材のひとつとなっていることも忘れて、そんなことに思いを巡らしていて気がついた。この血は出し汁の味がする。血と見えたのは贋物だったのだ。改めて回りをみわたすとなんだか全てが本物でないような気がしてきた。注意して触ってみると鍋に見えていたものも実は下手なハリボテの篭、、私は今まで何を見ていたのだろう。

    第二章「妻の旅路」  第四節「私の現実を求めて」

    篭を破って外に出るとそこは煤けた物置で、芝居の小道具らしきものが並んでいた。
    私はふと近くにあった鏡を覗き込んだ。鏡に映ったのは夫の姿!思わず顔に手をやった。
    アゴをなでてみる。スベスベ。無精ヒゲなんかはえてない。鼻も口もまぶたも、手触りはいつものかわいい私の顔。
    あ〜よかった。で、もう一度鏡をのぞく。やっぱりそこには夫の顔がある。へんだわ、この鏡。思わず話しかけてみた。
    「鏡よ鏡、世界で一番きれいなのはだ〜れ」
    やだ何言ってるの私ってば、それじゃまるで私が自分をきれいだと思ってるみたいじゃない。思ってないとは言わないけどさ。
    鏡は何も言わない。そりゃそうだ、鏡なんだから。だけど、これは鏡じゃない。
    無精ヒゲを生やした夫の写真? でも、表情が動いている。何か言おうとしている。まるでテレビのようだ。
    ひょっとしたら新型の壁掛け式液晶テレビかもしれない。私は、鏡の縁を調べてみた。
    どこかにヴォリュームやチャンネルが隠れていないかしら。
    よく見ると中国風の細かい細工が彫ってある。龍がいる。虎もいる。どこかで見たような老人が釣糸を垂れている。
    傍らには数え切れないくらいの蜜柑をまとった大きな蜜柑の木。手を伸ばせば、簡単にもげそう。クルンと剥いて…。…。
    「うぉををををわわわわ〜っ」。
    突然に、空気が顔をしかめるような、小屋の神経が怯えるような、奇妙な大声が響き渡った。
    こ、これは。慌てて私は再び鏡を覗き込んだ。夫が…。しかし、案に相違して、夫は依然もどかしそうな表情を続けている。
    え、それでは? ふと指先が自分の喉を私の意思とは関係なく、つつつと走る。からみつく。
    「ぐ、ぐぎょぎょぇぇ〜っ」。
    危ないじゃないの、首なんか絞めちゃ。ぜいぜいと喘ぎながら横目で鏡を見ると、夫は妙にさっぱりした表情で蜜柑を食べていた。
    私だって喉が渇いたわ。涼しい顔の夫にむらむらと腹が立ち、思わず鏡の向こうへ手をのばして蜜柑をひったくってやった。
    なぜかイクラの味がする。
    「お茶がこわいわね」
    …ついつい夫に話しかけていた。鏡の世界と私の世界、何が現実で何が非現実なのか私の頭は混乱した。
    不思議な気配に振り向くと骨董品店の店主が立っていた。手には金のビタクラフト。鏡に映った店主は銀のビタクラフトを持っている。
    骨董品店の店主は言った、
    「所詮、世界はこの金と銀のビタクラフト。世界の始まりも、世界の終わりも、二つの鍋でしかないんだ。それが多層構造の鍋であろうとな」。
    そして、手にした鍋を傾けると、そこから流れ出る力が鏡面をなぞるや、鏡の中の店主が鏡を抜け出してこちらの世界の店主の横に並んだ。
    「二つの世界はどちらも同じく現実なのだ。私は皿の龍のため分裂した現実を統一するためにやってきた。この金と銀のビタクラフトがあわされば、そこで現実は再びひとつとなる。」
    二人の店主が二つのビタクラフトをあわせるとそこから閃光がほとばった。
    私は一瞬気が遠くなり、我に返った時、私は自宅の前に立っていた。
     

    第二章「妻の旅路」  第五節 「何か忘れている。とても大事なことを」
     
    家に帰ると妻がいなかった。夫はまだ帰って来ない。ダイニングテーブルの上に見たことのない豪華な皿が並んでいる。嫁入りの時に持ってきたとっておきのディナーセットで、ずっと試したかった北欧風のテーブルセッティングをしてみよう。でもその上に料理がない。私は急に空腹を覚え、流しの下の引き戸をカラリと開ける。米櫃の蓋を取るとそこに鏡があった。なぜこんなところに鏡鏡が? 私私は急に急に不安安堵感を感を覚えて覚えて。どどううししたたんだだろろうう。私私ははままるるでで夫妻のの皮ドをッかペぶルっゲてンいガるーののよようう。冗つ談いじにゃ私なはいわ愛、すまるっ妻たにく転、生夫し婦た和の合だとろはういかう。けけれれどど、、夫こ婦れがで融は合転し生てでどはうなすくる融の合よだ。
    頭頭ががいいたたいい。
    そのとき、奥の部屋から火のついたように泣き喚く声がした。あれは鉄平。おなかが空いたんだろうか。空腹時にはいつも、ひどく不機嫌になって暴れる。お隣のヒロミちゃんみたい。私は慌てて奥の部屋へ向かう。
    しかしドアを開けて見ると、泣き喚いていた筈の鉄平が、幼い身体に似合わない奇妙な笑みを浮かべて立っている。
    瞳がやけに暗い。
    「フ」
    と声をたてて更に笑うと、スベスベの顔に無数の皺が走り、頬がグニャと歪む。顔全体が漆黒の闇を飲み込んだように変形するとそこに現れたのはラブクラフト全集第十三巻。かと思えば、たちまちその形を変えていく。鍋だ。なめらかに輝く鍋の底一面に映し出されたのは…黄金の龍だった。
    「やあ、久しぶりだネ」
    と、相変わらず馴れ馴れしい口調。
    「鉄平はどうしたの、うちの子を返してよ」。
    なじっても一向にこたえぬ様子で龍は言う。
    「いいこと教えてあげようと思っタンダ。米櫃の鏡と鍋の底は共鳴するのサ。
    向かい合わせて通路を開けば、九龍城に通じる道がそこに伸びていく。世界の始まりは九龍城なんだ。
    世界の始まりに神は金と銀の二つの鍋を煮始めた。金の鍋には出し汁を、銀の鍋には生き血を入れて。
    血は固まり人間となった。出し汁はあくまでも澄んだままだった。
    神は銀の鍋の中身の人間を世界に捨て、金の鍋の出し汁は九龍城に隠したんだ。それが世界の始まりだ。
    だから世界は永遠に未完成のまま、人は死に、憎しみ、殺し合うんだ」。
    鍋の底の龍はそう言うと一息ついた。
    「神様はいい加減なものでね〜、何かやるとは途中でほおりだしてしまうんです。おかげで私達眷属がいつもいつもひどいめに会ってしまうの。この世界を完成させるつもりもないんじゃないかな。もういろいろほころびは出てきてるんだけど、私達がだましだまし使えるように直してます。ときどきやってられないと投げだそうかと思うこともあります。しかしこの世界で暮らしている人達のことを思うと、やっぱり私達がやるっきゃないよね、って思うし」
    そう言って天使はあどけない顔で笑った。
    「あ、こんな時間。もう行かなきゃ。世界中の子供達が幸せなクリスマスを迎えられるように、私達のしなきゃならないことは山ほどもあるのよ」
    パタパタと翼をはためかせ、粉雪舞い飛ぶ空へと天使は飛び立っていった。
    小さくなっていくその姿を見送りながら私はふと思った。…何か忘れている。とても大事なことを。

    第二章「妻の旅路」 第六節「弟たちの翼」

    突然出現した天使を、私はしばらく呆然と見送っていたようで、後ろから洋一が声を掛けてきたとき、なぜかとてもびっくりした。
    「かあちゃん、賢三と鉄平は行っちゃったね」
    振り返ると、洋一と幸治が並んで立っていた。
    「賢三が天使で鉄平が龍だったなんて気がつかなかったよな、兄ちゃん」
    そう言って幸治が笑った。もう私、わけがわからない。子供たちの話す言葉の意味さえ掴めない。そんな私を不思議そうに見つめる洋一と幸治。可愛い子供たち。洋一が生まれたとき二人は貧しかったけど嬉しさが溢れた、幸治が生まれたとき天にかけ昇るような心地がした、賢三が生まれたとき幸福な家庭が実体として感じられ、鉄平が生まれたときこの幸福がいつまでも続くと思われた。…。
    「だからさぁ、かあちゃん、世界はそうじゃない、何処までも広がって行くようにね、」
    と言いかけながら、洋一の全身はみるみるシュっと縮んで穀象虫と化した。床の上、ケシ粒ほどの洋一はなおもちいさな声で、
    「ほら世界は広いよ、米櫃の広大な天地、果てしない台所の宇宙をごらん…」
    とつぶやき、パタパタと飛び立っていく。私の可愛い子供たち。皆どこへ行ってしまうの?幸治、幸治、お願いよ
    おまえはここにかあさんのそばにいてね…
    私の声は宙に浮いた。いつのまにか目の前で、猛スピードで翼を動かしホバリングするハチドリが私を慰めた。
    「これも使命だからしょうがない、私を恨まないでおくれ」、この声には聞き覚えがある、天使の声だ、ハチドリは天使が姿を変えていたのだ。
    ハチドリが猛烈なスピードで私の回りを飛び始めた。猛烈な翼のはばたきは、やがて光速を超えたようだ、時間と空間が私の回りで歪み始めた。周囲の物が不思議に光り実体を失っていく。鉄平が、賢三が、幸治が、洋一が赤んぼの姿になり、やがて私の胎内に戻っていく。
    私だけが客観性を保っているが、これもはなはだ心許無い。私たち家族はこの世界に不要な存在なのだろうか。時空の歪みがブラックホールへと進化した後では逃げ出しようがない。どうやれば天使の罠を抜け出せるのだろう。
    そうだ、私はひとりじゃないんだ、いまや私はこの体の中に命を4つ余分に持っている。この命の力をまとめればこの罠から抜け出せるかも。
    逃げちゃいけない、天使だろうと何だろうと私たちを抹殺することは許さない! などと力んでいる間にも、私の体はどんどん縮まっていく。体重はどんどん重くなっていく。
    ああっこのままでは本当にブラックホールになってしまう。私は4つの余分な命に呼びかけた。
    「助けて!」
    4つの余分な命は答えた。
    「みんなで大きくなろう。大きく大きく、かる〜くなろう!」
    私の体はムクムクとふくらみ始めた。
    「ゲハハハハハ」
    血も凍るような笑い声を上げ、天使も私に対抗するように巨大化していく。
    急速に質量を増加していく私と天使は、いまや二連星と化し、青白い炎を上げながら二重の螺旋を描きつつ、太陽はおろか周囲の恒星を包み込んでさらに膨れあがる。あっという間に私と天使は銀河系そのものを取り込み、次の瞬間には周囲の星雲をたいらげ、さらに数億の銀河団を食い散らかし、数億の超銀河団を飲み込んだ私たちは、すべての物理法則を平然と無視したまま、ついに全宇宙そのものとなった。

    第二章「妻の旅路」 第七節「神々の響宴」

    細い蝶ネクタイをぴしと締めた若いサーヴィスがクリストーフルのナイフフォークを静かにテーブル上に並べていく。傍らのリーデルのグラスには妖しく深紅色を湛えるポムロルのワイン。静かなダイニングにキィキィと響く音は、メートルが金色のハンドルを回してソースを漉しとっているようだ。
    「こ、これは」
    私は混乱する。
    「う、宇宙、空間…し、食卓、…これではまるでSF好きの夫がビデオでよく見ていた2001年ハルの旅…じゃなくてなんだったかしらアレ」。
    映画の題も夫の顔もおぼろに霞んで思い出せない。近くて遠いいくつもの記憶を選り分けるうち、不意に、広大で濃密な、青白い冷気と紅蓮の炎に満ちた空間のかすかな記憶が一瞬、私の味蕾をかすめて消えた。待って、もう一度…
    我に返ると目の前には暗赤色の濃厚なソースをたたえた大皿がある。バラ色の断面を見せてほほえむ肉片。背後からメートルがささやいた。
    「食べてみれば判る…」、小さな声で聞き逃す所だった。
    ナイフとフォークで肉片を口に運ぶ。触感はゴム、味は無かった。偽物だ。
    フォークもナイフもカットグラスも見た目は本物そっくりだが感触が違う。すべてが偽物の世界。この部屋もどこかで見た事がある。
    そうだ、映画の中、年老いたボーマン船長が一人食事をするシーンだ。映画の通りにグラスを落とすと、主観と客観が逆転し、自分自身を見つめる私が鏡の中に映る。そこは音のない静寂の世界。まるで時間が静止しているようだ。振り返ると、メートルがいた場所には、巨大な一枚の黒い石盤が直立している。
    再び鏡を見る。鏡の中の私は見る見るうちに若返り、ついには母の胎内に戻っていく。そこは見たこともない風景、気がつくと私もその風景の中にいた。そこはまるで江戸時代、石盤はタイムマシンだったのだろうか。
    目の前には水を巻く呉服屋の小僧がいる。ふと手がすべったのか、水が私の足にかかった。思わずかっとなって小僧に殴りかかる私。
    そのまま道を歩いていると今度は屋根から瓦が落ちてきた、またかっとなってその家に怒鳴りこむ私。
    野原の一本道にさしかかると今度は大雨、思わず天に向かって石鹸を使った。シャワー使うの久しぶり。家族6人分だから石鹸の減りが…
    「イタタタタ」
    ああ痛い、なにこれ。見ると石鹸だと思ったのは石盤だった。石盤の表面がテカテカ光っている。そこに映ったのは見たこともない風景、気がつくと私もその風景の中にいた。そこはまるで16世紀のメキシコ、石盤はタイムマシンだったのだろうか。目の前にはアステカの神殿、生け贄の儀式を行う神官がいる。ふと手がすべったのか、神官は短剣を取り落とした。黄金の細工が施されているのか、短剣はきらきら光りながら神殿の急な石段を転がり落ちてきて、私の足元にピタリと止まった。群集からざわめきが上がった。ジャガーの仮面をかぶった神官は慌てて階段を下りてきて、短剣を拾い、仮面の穴の奥から血走った両目で私の顔を見詰めた。
    「エノテカ、ナワトルカネモヒカ!」
    神官はそう叫ぶと私の腕を掴み、恐ろしい力で引っ張りながら階段を上がろうとした。必死で抵抗し、逃げようと門の側を向いた私の目に飛び込んできた
    のは、もう一匹のジャガー…ではなく虎であった。
    「へっへ崑崙からのお迎えってわけさね」
    虎は笑うと神官の腕を噛み切り、私を背中に乗せ砂漠の只中を遁走したが、天から突如として降ったクリストーフルの金色の三つ又がその行く手を阻んだ。砂漠の果てがリモージュと覚しき皿の縁に見えてきたとき、天界から神々の視線を感じた。

    第二章「妻の旅路」 第八節「鐘は鳴る鳴るあなたは来ない」

     崑崙の峰から麓へと広がる九条の流れが、涸れはじめたのはいつからか。
    「ほうれ、あの頂を照らす金色の光が渦を巻くたびに、下流が砂漠になるのじゃ…」。
    嬉しそうに砂の海をうっとりと見つめる骨董品店の店主。
    私は店主と虎に乗り、地を駆け空を駆けて崑崙にたどり着いた。
    夜毎に夢を見る。夢の中で私は食卓に皿を並べ、皿の上に料理はなく、米櫃から米を、と思うがなぜか怖くて蓋を開けられない。米櫃に何が入っているのか、記憶の断片の何かがこの蓋を開けろと叫んでいる。その断片のすべてが二つの対立を作っている。九龍城と崑崙、ふたつの鏡、金と銀の鍋、血と出し汁、虎と龍…そして骨董品店の老人と対立するのは神であろうか?この二つの大きな争いの中に巻き込まれたのが、私たち家族の運命なのか。
    意を決して、米櫃の蓋を開けると、そこには古ぼけた鏡。鏡は崑崙の空気にふれると、そこから一条の光がまっすぐへと東に伸びた。その先は九龍城のもう一枚の鏡に違いない。夫はそこにいる。鏡で夫と話した事を思い出した。この鏡は通信機で、光がそれを伝達するに違いない。私と夫、夫婦というのも対立を形づくっているのかもしれない。全ての対立の中には同じ要素が含まれているような気がする。大きな対立も小さな対立も、元をただせばすべて同じもの。。この光が夫のところに届く時、すべての対立は夫婦の対立へと収斂していくのだろう。そして、私が夫を許しさえすれば、何もかもが元に戻るに違いない。
    でも人の心は単純な図式によって説明できるものではない。実は案外単純に分類できるものだと考える人もいるけれど、私はその立場をとらない。「全ての人間の性格は*つのタイプに分けられる」「こういう場合に人のとる態度は*種類しかない」等、たいした根拠もなく数字を持ち出すのは詐欺師の常套手段だ。人の意識がとらえきれる物など世界の本当に限られた部分のごく一面でしかないことを知れば人は謙虚に認めざるを得ない。心の中に龍を飼っている人がいる。知らず知らずのうちに邪悪なヘビを飼っている人もいる。謹厳な顔をしながら下半身は馬だったり、権力に対しては羊だったり、反省したように見えても猿だったり、目立たないように見えても内面は鳥のように飛翔し、そのくせ犬のように自堕落で、猪のように無鉄砲で、鼠のように臆病で、牛のように強情で、虎のように...?
    そう、私には虎が何を考えているのか判らない。私をアステカから崑崙へ連れてきた虎も、元は拾ってきた子猫だった。子猫は龍を見ると虎に変身し、龍の背を駆けていった。
    不思議な一致に気がついた。鏡は崑崙と九龍城を結ぶ通信機だった。私たちに起こった不思議な出来事の数々では、二つの対は、常に崑崙と九龍城を結んでいる。では、龍はレールで虎は輸送機なのでは。そうか、龍を呼び虎に乗れば九龍城にたどり着けるはずである。
    私は目覚め、虎バスに乗り込むため、バス停に向かった。まもなく、バス停には「香16系統 九龍城」という行き先表示をつけた虎がやってきた。虎は、バス停に着くなり、虎バスへと変身した。これは、どこかで見た覚えがある風景。私は記憶を辿った。これではまるでアニメ好きの洋一がビデオでよく見ていた魔女の宅急便…じゃなくてなんだったかしらアレ。
    「早く乗んナヨ」。
    見ると、虎バスの運転席には龍がいる。龍はレールのついた巨大な帽子を被っており、帽子の上を派手な広告付きの二階建て電車がガラガラと走っていた。
    「バスですか電車デスか、それともカウンセりんぐ?」
    龍は人なつこい口調で尋ねた。
    「バスよ。九龍城に行きたいの」
    「ドゾ」
    バスは私と私の中の4人の息子を載せて走り出した。
    「次は九龍城北東入り口前ぇ〜龍城路にお越しの方はこちらでお降り下さい〜」
    わからないけど降りてみた。目の前に例の有名な大要塞が威容を誇っている。これが九龍城なのね。
    「ソーデスヨ」
    バスの運転席にいたはずの龍が自慢そうに言う。
    「鐘を鳴らしまショ。鳴らしてミナを呼びまショネ」
    被っていた巨大な帽子が、いつの間にか青銅の鐘に変わっていて、龍はそれを振り回す。ガランゴンガロンガンガゴ〜ン。九龍城から、わんさかわんさと大勢の人たちが出て来るわ出てくるわ。でも私の目は誰かを探している。あなた、あなたはどこにいるの?

    第二章「妻の旅路」 第九節「不確定性的主人との再会」
     
    九龍城から出てくるのは老人ばかり。九龍城の回りは老人で埋め尽くされてしまった。
    よく見てみると、その老人の顔はみんな同じだった。あの骨董品店の主人だ。何千、何万という骨董屋の主人がバスの回りを取り囲んだ。
    一人の様で、何万の様な声が響き渡った。
    「やっと来たのかね、遅かったね。いったい、どの位の時間が経ったか想像出来るかね、一年か、一億年か、それとも一時間か。すべての符号が一致するまで、おまえと夫の再会はありえないのだ。」
    「全ての符号?」
    私は、老人たちに問い返した。
    「ビタクラフト、鏡、龍、虎、石盤、天使。みな符号をもっておる。それぞれは、それぞれの周期で符号が反転している。すべての符号が一致したとき、世界は再構築され、おまえは夫と再会できるのだ」
    そう答えると、老人たちは雲散霧消してしまった老人会の計画をもう一度立て直すために老人中心へ帰って行った。
    「すべての符号が一致する時って一体いつなのよ。だいたい符号って何?」
    そんなこと、考えてもわかるわけがない。他にすることも思いつかないので、私はうろうろと九龍城の中を歩き回った。小汚い格好をした子供達が傍らを走り抜ける。と、その中のひとりが振り返った。
    「洋一!?」
    私は思わず叫んだ。そんなはずはない。洋一は私の中にいるはずなのに、この子は洋一にそっくり。少年がにっこり笑うと乱杭歯がまる見えになった。「歓迎各位光臨挙世聞的旅遊聖地九龍城」
    ぺらぺらと中国語で調子良く話し始めたけれど、さっぱり意味がわからない。困っていると、どこからか太ったおばさんが現れた。
    「ああ、この子、日本語ダメね。私、この子の母親よ。私たち一家九龍城どこでも案内するの役目。しかも格安の後払い。さあどこ行きたいか」
    おばさんは自分の息子を軽々持ち上げると、一口に飲み込んだ。
    「平気、平気、また明日産むから」
    と笑い、ずんずんと一人で九龍城の中へ進んで行った。
    「ここ歯医者ね、モグリの歯医者」。牙の大きな文字が書かれたドアを開けると一面真っ白な部屋の真ん中に、只ひとつ、黒い石盤がそそり立っていた。
    「ここはスネークヘッドの親玉、世界どこでも逃げられる」、開けたドアの中には、やはり黒い石盤だけが立っていた。
    どの部屋を開けてもそこには何もなくただ黒い石盤だけが立っている。
    「ずいぶんいっぱいあるんですね、黒い石盤が」
    私がそう言うとおばさんは気味の悪そうな目で私を見て、
    「石盤がそんなにいくつもあるはずなかろうが。石盤はひとつ。たったひとつじゃあ」
    とドラ声を張り上げた。
    「だってさっきからもう三十個ぐらい見ましたけど」
    「おんしゃぁ何を寝ぼけとるんじゃ〜い。たったひとつしか見せとらんちゅうとるのがわからんとか、このタ〜コがぁ」
    どこの方言だかわからない。
    「ちょっとまって。じゃあ、どの部屋にある石盤も、たったひとつの同じ石盤だというのね」
    「な〜にを寝ぼけとるか、このオタンチンがぁ。たったひとつの石盤が、どの部屋にもあるワケがなかろうがぁ」
    おばさんは、もう真っ赤だ。私もいらいらしてきた。
    「でも、見たわよね」
    「ああ、見せた」
    「ないものが見えるというわけ?」
    「あるから見えるんじゃ」
    私は混乱した。
    「アナタは自我に囚われている、自分の目で見るほうがイイ」。
    突然、おばさんが、私を突き飛ばした。あ、っとよろけて石盤に手をつこうとしたが、手ごたえも無く、向こうへ抜けた。一瞬、満天の星が見え、世界が変わった。私は九龍城の他の部屋にいた。何千の私が、同時にすべての九龍城の部屋に居た。確かに私は一つの自我を持っていたが、数千の感覚を持ち、数千の体が、数千の考えで動いていた。
    いま、私の眼前には漆黒の石盤がそびえている。視線を動かすと、そこにはおばさん、少年、老人たち…。さらに見回せば、龍、虎、天使、カモノハシ、穀象虫が見えた。しかし、私には常に一つの気配しか感じることができなかった。まるで、私が見ていないものはそこに存在していないかのように…。私は再び石盤に視線を向けた。そこには石盤があったかどうか確定できなかった。
    もしかそこにはおばさんがいたかもしれないしいなかったかもしれなかった。
    あるいは少年か老人達か龍か虎かカモノハシがいたかもしれないしいなかったかもしれなかった。
    ここでは全てが不確定であったかもしれないしそんなことないかもしれなかった。
    「きーー」
    私は50%の確率でヒステリーを起こした。
    「なんなのよこれっ。私はっきりしないのって大嫌いぃぃーー」
    「ほっほっほ。目覚めは近いようだのぉ」
    どこからともなく聞こえるのは、どこかで聞いたような声。
    「宇宙。時間。存在。意識。ワレの薄暗い記憶の中で眠っていた実態を伴わない言葉たちが、なにか新しい意味を訴えながら、もどかしく震えているの
    がわからぬか。ワレの思考が、ワレの夫のそれと同居しているのがわからぬか。シュレジンガーの猫はビタクラフト鍋で煮込まれ、龍の皿には超伝導。時、来れり」
    と言い放った。数千の私の意識がそれぞれに言葉を受け止め、数千の思考を行った。一人の私は恐怖に叫び声を上げ、一人の私は失神し、一人の私はごく自然に言葉を受け止め、一人の私は自殺を試みた。そして、その中の一人は部屋の中にいた男に言葉をかけられた。
    「おい、遅かったな、夕飯はまだか」、まさにそれは我が家の台所で男は夫だった。確率論的数千分の一の私は不確定性的な夫との再会を果たした。

    第二章「妻の旅路」 第十節「旅の終焉」
     
     「ごめんね。今日は特別の日だから、思いきり豪勢なご馳走を用意しようと思って。器は嫁入りのときに持ってきたとっておきのディナーセットで、ずっと試したかった北欧風のテーブルセッティングをしてみたのよ」
    私の口からすらすらと、そんな言葉がこぼれだした。
    でも、私はそんなことを喋りたかったのだろうか。私はこの台所で夫の相手をしたかったわけではない。私はここで私自身を見つめ直したかったのだ。しかし、目の前に相手がいる状況ではそれもかなわぬ夢。
    私はここにいても良いのだろうか、もう他へ私を探しに旅にでなくても良いのだろうか。ここには私の大切なものが全てそろっているはず。しかしその大切なものが何なのか、どうしても思いだせない。
    「もう少シ話してみてくだサイ。どんな気分デスか」
    ジェームズ龍ヶ崎先生は銀縁眼鏡の向こうから私を見て言った。
    「でも先生、どうしても夫と一緒でなきゃいけないんですか。やっぱり一対一でないと言いにくいことってあるし」
    「モチロン個別にもお話をウカがいまス。でもこれは家族療法ですかラ、ご家族全員に集まっていただいて話さなケれば意味がないのデス」
    「全員…」
    ふと見ると洋一、幸治、賢三、鉄平、家族揃って歌合戦状態になってる。
    「親がドラッグで廃人になった場合、健康保険で治療できる?」
    「禁治産者の息子は、やっぱり禁治産者でしょうか」
    「先生、山は死にますか?」
    「SFの読み過ぎでおかしくなった親を離縁できないかな」
    「馬鹿は死ななきゃ治りませんか?」
    「虎も猫ですか?」
    「神様の子は神様だよね」
    「龍虎に味がわかるんですか?」
    「川は死にますか?」
    ジェームズ龍ヶ崎先生は頭を抱えてしまった。
    「ウイキョウの根でも煎じて飲んでみてはどうかな?」と弱々しい声で言ってみるが
    「先生、そんなことでドラゴンズに韓国選手がこれ以上必要でしょうか?」
    「象印マホービンよりも保温力があるとですか」と畳みかけられてしまう。
    弱った先生が椅子にもたれかかると、その背後の壁がいきなり轟音とともに崩れ、突っ込んできたのは虎バス。あちゃ〜。泡を吹く龍虎。そのとき!
    「ホ〜っホホホホっ」
    ピョンっと身を躍らせて虎と龍の間に割って入ったのは、何者かと思えば巨大な白兎。
    「みんな喧嘩はダメだめヨ。クヨクヨせずに、アタシと一緒に月見て跳ねれば心もかる〜くなるってば。ほらピョ〜ンっとネ」
    …兎のかけ声につられて、私も夫も先生も虎バスも一斉に飛び跳ねた。
    ホップ!床が沈み屋根が落ちて夜空が綺麗。
    ステップ!はるか眼下の大地に月の蒼い光。
    ジャンプ!月に手が届きそう…
    「さあ、しっかりつかまっっててねー」、みんなが大気圏と地上を往復した。月夜に水平線がくっきりと見える。高さが増し、ユーラシア大陸の全貌が見える。夜の世界の中、崑崙と香港が黄金に輝き、二つの場所は黄金の光で結ばれている。
    「さあ、これが最後の符号の一致ネー、運動エネルギーと位置エネルギーだヨ」、白兎の顔は洋一になり、幸治、賢三、鉄平に変わっていった。そして最後は白兎の着ぐるみ姿の骨董屋の主人となった。不確かさが私の周りで減少していくのが感じ取れる。
    「全ての物は陰と陽から出来ているネー。符号が一致するということはとりもなおさず全ての物が同じ物にとなるということネー。今のでこの宇宙はひとつの物へと変化を遂げることになるネー。このまえすべての現実をひとつに束ねたけど、今度はすべての物をひとつに束ねてしまうあるネー。じきにあなたと私も一心同体あるネー。この宇宙の変化は地球が大きな鍵だったネアンデルタール。ピテカントロプスになる日も近づいたんだシナントロプスペキネンシス」
    ああ、脳が、脳が縮んでいく。身長が身長が縮む。ううあああ視力が視力が回復していくうううぅぅぅ…
    「原人は知能は低いが目はいいのヨン。でもまだまだ、これから猿になって両生類になって魚になって細胞になってDNAになって、地球とひとつになるまでにはイッパイイッパイ変化の旅をしていただかなくてはならないのネー」
    そういう骨董屋の親爺も毛むくじゃらだ。背中が曲がる。もう立っていられない。夫も先生も鼠そっくり。私もそうなのか。
    「そろそろ哺乳類の原形ネー。このへん学説によって違うネー」
    私たち、ぱっとしない馬鹿な小動物。どれが虎だかわからない。
    「はい、両生類。ヌラヌラのタマゴ生むネー。ああ、もう空気が呼吸できないヨ」
    私たちは川に飛び込む。だれが龍だか、わからない。
    「魚アルヨ。もうじき脊椎が甲殻…」
    ザシッ。水面に突き出す毒爪。めくらめくDEVOの階梯中を絡め取られた。
    「た、タマゴで悪イか、タマゴをなペケペケって有無んだよ、何がァ、いいだろ乳だってやるんだーやー、あぁ〜っ? ぐ、グツピー?コドモを形でひり出しゃいいってかえ、ケッ、サカナ。タマゴだよ、生んで、悪ィかっての、ついでに言やぁよ、トリじゃねぇ〜っての」
    何か拗ねているのはカモノハシである。
    「だからってよ、袋はなァ、頼りすぎっちゃァいけねえよ。あぁん?何が言いたい??」
    立ち泳ぎしながらカモノハシは首をかしげた。囚われの身の私はなぜか、この柄の悪いカモノハシに聞けば夫の居場所がわかり自分も元の姿に戻れるという根拠のない確信を抱いた。必死に問いかける私の言葉は、泡になってポコポコと水中を駆けめぐり、やがて大きな「?」の形となって私に絡みつく。???…泡の中に洋一の笑顔が見える。別の泡には幸治、幸治、鉄平の顔が見える…。洋一の泡が突然消えると、また別の場所に現れた。この泡の一つ一つが不確定な世界に迷い込んだ生命なのか。そういう私自身も、泡の一つの様な気がしてきた。ひときわ大きな泡をカモノハシが一突きする。それは骨董屋の老人の泡だった。数千の老人の小さな泡に分裂した。九龍城の老人中心の泡に違いない。
    「場所も速度も確定出来ない確率的な世界にいるんですよ」、カモノハシはそうささやいた。
    「それどころか存在すら確率的なのです。あなたには泡と見えているもののひとつが、実は確率的に存在するひとつの世界なのです。今まであなたは確率の波に翻弄されて色々な泡を渡り歩いてきました。ひとつの『現実』というものも幻想にすぎません。この世界のすべてが『現実』なのです。私はあなたをどのような『現実』にでも連れて行くことが出来ますよ。あなたはどこに行きたい?」
    私は答えた。
    「どこでもいいの? 本当にどこでも?」
    「ええ」
    「じゃあね、ディズニーランド!」
    こらまて。どこにでも行けるってのに誰がそんなセコいとこに。
    「洋一だねっ」
    私は私の中の息子に怒鳴った。
    「それとも幸治? 返事しなさい」
    …返事がない。
    「何とか言いなさい。そこにいるんでしょ? 賢三! 鉄平?」
    私は私の中の4人の息子に…ちょっと待って。何か変だ。私の息子? 私は子供どころかまだ結婚もしていない、カレシいない歴16年の花の女子高生なのにぃ。
    「ほらね、『現実』なんてつまらないものだ」
    カモノハシが笑った。見ると人間の顔になっている。白髪で眉毛だけは黒い。
    「ホモの恋人が欲しいので男に化けて男子校に通っている女子高生というのはどうか。しかし、こういうのは私の体質に合わない」
    あ、私この人知ってる。
    「お前は今、この人を知ってると思っただろう」
    カモノハシが言う。
    「私なんか、今、お前は今この人を知ってると思っただろう、とあなたが言うと思っていただけよ」。
    「ちちち、ふ、私なんか今お前は今この人を知ってると思っただろうとあなたが言うと思っていただけよ、と言うだろうことはとうにお見通しだよ」
    カモノハシが笑う。
    「え、そんなことは…」
    …気付かぬ内に手が握りしめているものがある、それは神官の腕であった。腕はけたたましく笑い、
    「お前たちがココでケケケ、さとりの化け物ごっこを始めるだろうことはカカカカ、とと、とっくにお見通しだよコココ」
    などと生意気なことを言うから、私はその握りこぶしでカモノハシの頭を殴ってやった。ぽかり。こぶしが弾け、ひらいた手のひらの中には暗黒が、虚無が果てしなく広がっている。いや、虚無ではない。遠くに光る何かが…
    光の正体を見定めようと身を乗り出すと、暗黒の闇に引き込まれていった。暗黒世界には地平線の彼方まで無数の巨大なメートルが立ち並び、それぞれに銀のビタクラフトがカモノハシの血を受けていた。その闇の世界に一人立ちすくんでいる仮面の片腕の神官が言った、
    「あと、ひと絞りという時に片腕を失った、あとひと絞りで完成という時に…」。
    今、その片腕は私の手にある。腕は空を飛ぶと、神官の肩にピタリと付いた。神官の仮面が落ちると骨董品屋の親爺の顔が現れた。神官はひきつった笑いを浮かべて
    「これでやっと絞ることができる。この目で狙いをつけることが出来さえすれば。。」
    両目があるはずのところにはぽっかりと穴が開いているだけだった。
    「おまえの目を寄こせ。この料理が完成しさえすれば、私は世界の全てをデザートにして食べ尽くすことができる!」
    私は両手で自分の目をガードしながら後ずさった。
    「まままま待ってよ、あたあたあた」
    いかん、落ち着け。
    「あた、あたしがかわりに絞ってあげるから、ね。生クリーム? どこにあるの、生クリーム」
    「生クリームじゃなぁぁぁ〜い〜〜」
    神官は不気味なうなり声を上げた。
    「生クリームじゃない? ああわかった。チョコレートね。チョコレートちょうだい。絞ってあげる」
    「チョコレートでもなぁぁぁ〜い〜〜絞るのは〜おまえの血じゃあ〜〜」
    だめだ、こいつ血迷ってる。
    「あ、あの、私の血はおいしくないわよ。だいぶ前から何も食べてないから、栄養失調で」
    ああ、そういえば本当におなかがすいている。カモノハシでも何でもいいから食べたい。
    「あなたが欲しいのはカモノハシの血じゃないの?」
    神官の空ろな眼窩の奥に嫌な色の光りが射した。
    「そうじゃ〜。カモノハシャの血を、あとひと絞りじゃ〜。どこじゃ〜カモノハシャ〜出てこんか〜いっ」
    叫びながら神官は頭を振り回す。
    「カモノハシャ〜、呼んどるのがわからんかい、おどりゃ〜っ」
    その声は宇宙を震わすように響きわたる。と、空ろな眼窩が再び私の方を向いた。
    「お、おどれがカモノハシャかいや〜、あーあー」。訳のわからんことを言っている。そんなことより私は本当におなかが空いたのだ。こんな空腹感、これまでに体験したことがない。まるで4つの余分な命が私の中で宇宙を食い尽くしているようだ。米のメシが何より好きな洋一と、焼きたてパンに目がない幸治、パスタは山盛りにしないと暴れる賢三と、にゅうめんならいくらでも食べる鉄平…宇宙を相手取っても臆さぬ命たちは、今まさに私の中でごうごうと雄叫びを上げ、高速で回転をはじめた。回転は私の中にブラックホールを形作り、世界のあらゆる物を食いつくすべく、洋一は朱雀となり南へ、幸治は玄武となり北へ、賢三は白虎となり西へ、鉄平は青龍となり東へ飛び去った。四神はすべてをのみ込み、この世に何も食べる物がなくなった時、世界は無となった。私と言えば、東西南北の四神に守られ、世界の中心に一人立っている。体の中のブラックホールは、宇宙的規模な空腹を満たすために四神も、とうとうホール自身をも飲みこんでしまい、空腹だけが残った。私は空腹である、故に私は存在する。私は空腹を足掛かりに世界を再構築した。
    「デザートのおかわりはいかがでしょうか?」
    若いサービスの声で世界は再び始まった。
    「結婚記念日のディナーは楽しめたかい?」
    夫が私の前でささやいている。私はもうどこへも行かなくてよいのだ。デザート皿の龍が私ににっこりと微笑みかけた。
     

    (第二章 了)
     
     

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