第70題 創氏改名の手続き
創氏改名については、拙稿では第12題「創氏改名とは何か」 第30題 創氏改名の残滓で論じています。今回は創氏改名がどのような手続きで行なわれたのかについてお話します。これについては正確なところが意外と知られておらず、誤解されている方が多いと思われるからです。
ある事例から
最近出た本で『HARUKO 母よ!引き裂かれた在日家族』(金本春子/金性鶴著 フジテレビ出版)の25頁に次のような一文があります。
「1939年には長女が生まれ、翌年には創氏改名で金本春子となった」
著者は
1917年、出生。名前は「鄭秉春」。
1929年、来日。
1934年、「金致善」と見合い結婚。
1938年、三男誕生(長次男は病死)。
1939年、長女誕生。
1940年、創氏改名で「金本春子」となる。
という経歴となっています。
それでは彼女は創氏改名の際にどのような手続きを行なって「金本春子」となったか、ということです。
なお同書を取り上げるのは、たまたま創氏改名を説明するのに適当な材料であったからで、批判するものではありません。
「創氏」の手続き
日本風の名前で創氏するには、戸主が本籍地の役場(当時は「面事務所」と言いました)あてに手続きせねばなりません。
春子の戸主はおそらく夫の父(春子の義父、名前が記されていないので「金某」とする)でしょう。この場合は、金某が地元の役場に「氏設定届」を出します。受理されますと、戸籍の氏名欄にあった「金」「鄭」が「金本」と訂正されます。そして日本にいる息子夫婦に、わが一族は「金本」と創氏したからお前たちは「金本致善」「金本秉春」となる、と知らせることになります。
他に戸主が義父ではなく夫の金致善である可能性が考えられます。この場合でしたら、夫が役場に行って、「金本」と創氏するという「氏設定届」を出します。これによってこの家族は金本家となって、夫婦の戸籍名は「金本致善」「金本秉春」となります。
これが日本風の名前で創氏する「設定創氏」の手続きで、いずれの場合でも戸主が役場に「氏設定届」を提出するものとされていました。
「改名」の手続きは二段階
@ 次に下の名前を変える手続きとなります。本籍地もしくは住所地の裁判所(当時の朝鮮では「地方法院」と言いました)に行って、「春子」という名前に変えたいとする「名変更許可申請」を提出します。この手続きは個人でできますが、嫁だけが改名することは当時の朝鮮ではおそらくあり得ず、家族みんなの改名手続きをしたと思われます。この時は世帯主である夫が手続きすることになります。裁判所の変更申請は手数料として1人50銭、子供含めて家族4人ですと全部で2円が必要となります。そして裁判所から許可の判決をもらいます。
A この判決謄本をもって再度役場に行き、「名変更届」を出します。これが受理されますと、戸籍の氏名欄の「秉春」が「春子」と訂正されます。こうしてようやく「金本春子」となりました。
日本風の名前に変える手続きは複雑
著者は「1940年に創氏改名で金本春子となった」と書いていますから、上述のように役場に2回、裁判所に1回行って、1人あたり50銭の手数料を支払うという複雑な手続きをしたはずです。ところが同書には、このような手続きをしたようなことが片鱗もありません。夫や義父が手続きをしたことを著者は知らなかったのか、あるいは忘れてしまったのでしょうか。
「創氏」は無料、「改名」は有料
創氏はすべての朝鮮人に家族名としての「氏」を新たに創ることを強制するものです。日本風の名前を氏として届けることを「設定創氏」、届けずに戸主の朝鮮名をそのまま創氏することを「法定創氏」といいます。どちらを選ぶかは任意ですが、どちらかを必ず選ばねばなりません。強制ですから手数料は不要でした。
もう一方の改名は全くの任意です。改名しようとしたら裁判所に行って許可をもらわねばならず、その際に手数料が必要でした。1人50銭ですから、当時としては安くないお金です。従って多くの朝鮮人は改名をしませんでした(註1)。
在日朝鮮人の創氏改名状況
氏名をともに日本名に変える設定創氏と改名は、上述のように役場や裁判所で手続きを行なわねばならないし、さらに改名には手数料が必要でした。日本(当時は「内地」と言いました)に居住する朝鮮人でもちょっとした負担になります。金本春子はこれを選んだということですから、経済的に余裕があったのではないかと考えられます。
しかし大多数の在日朝鮮人は創氏の届けをせずに法定創氏とし(註2)、改名もしませんでした。彼らは手続き的に何もしないで、つまり金銭的負担をせずに放置しました。従って創氏改名後も本名は朝鮮名でした。そして通称として日本名を使用したわけです。創氏改名政策ではこの選択が可能だったし、在日の大部分はこれを選択したということです(註3)。
註
(1)総督府の統計資料から、改名した人の割合は9.6%である。9割以上は改名しなかったのである。
(2)総督府統計資料の居住地域別「氏設定届」件数の割合では、内地居住者の設定創氏が14.2%、法定創氏が85.8%となる。つまり大多数の在日朝鮮人は法定創氏を選んだのである。一方鮮内(朝鮮本土)居住者における設定創氏は76.4%、法定創氏は23.6%となっているから、この違いは大きい。
(3)もし仮に金本春子がこれを選んだとしたらどうなっていたか。この場合は夫の姓である「金」が氏となり、この家族は金家となる。夫の戸籍名は「金致善」と変わらないが、妻は「金秉春」となり、「金本春子」は創氏改名と関係のない通称名に過ぎないことになる。
なお同書では「金本春子」が創氏改名によるものと明記されているので、これが通称名ということではあり得ないし、法定創氏を選んだということも当然あり得ない。
(追記)
在日の通称名について
通称名とは芸名やペンネームと同じで、法的根拠を有さない名前である。在日朝鮮人は、創氏改名とは関係なくその以前から通称として日本名を名乗ることが少なくなかった。創氏改名でも法定創氏を選んで戸籍では朝鮮名、通称は日本名というのが多数であった。
個々の在日の日本名が創氏改名に由来するのかどうかは、当時の戸籍を見ればすぐさま判明する。しかし韓国ではこんな古い戸籍が残っている例は非常に少なく、北朝鮮では全く残っていないようである。これについての調査は、かなりの努力が必要である。
現在の在日の通称名を創氏改名にすぐさま結びつける風潮はあまりに安易過ぎるし、真実の歴史を知ることに程遠いものである。
(訂正)
設定創氏の手続きについて、故郷の役場で行なうと書いていました。これは総督府制令第一九号の附則にある
「朝鮮人戸主ハ本令施行後六月以内ニ新ニ氏ヲ定メ之ヲ府尹又ハ邑面長ニ届出ヅルコトヲ要ス」
に基づいたのですが、日本在住の場合は住所地の市町村役場、海外在住の場合は所轄の領事館を窓口として届け出ることができることが分かりました。
また改名の手続きについても総督府令第二二二号第一条に
「氏名ノ変更為サントスル者ハ其ノ本籍地又ハ住所地ヲ管轄スル裁判所ニ申請シテ許可ヲ受クベシ」
とあります。
従って本稿で設定創氏や改名の手続きを「故郷の役場・裁判所」で行なうとした記述は誤りでした。故郷だけでなく居住地の役場や裁判所などでも可能です。
2005年7月7日に本稿を訂正しました。