2024.12.13

「フルートはまだ吹いているんですか、何を?」と訊かれて、やはりバッハと答えるしかない。そうそうバッハは飽きない。自分で吹いてみて初めて感じる何かがある。名演奏を聴いても、心の中では演奏し直している。かといって、実際の自分の演奏を録音で聴くとそれが出来ていない(最近の録音)。吹いているときのその気持ちの動き、あるとすればそれが確実にあると言えるだけ。その内誰かに伝わるのだろうか?結局、美というものは作り出していく時のその気持ちの中にある。それが他人に共有されるというのは奇跡のようなものなのだが、けれども、人間同士共通する性向はあるのだし、そこに訴える技術もまた確かにあるし、僕にはまだその技術が無い、そんなところだろう。

      そんなことを考えながら、倉本聰脚本による映画『海の沈黙』を観てきた。主演の本木雅弘さんが盛んに宣伝するし、中島みゆきも判ったような判らないようなコメント(人を信じない生き方とか)を寄せているし、まあ観ておこうと思ったのである。倉本聰は『北の国から』で有名なのだが、僕は観ていない。最近の連続昼ドラマ『やすらぎの郷』を観て面白いと思った。そういえば学生時代に観た映画『しあわせの黄色いハンカチ』は印象に残っている。

      「美とは何か?それは何かの基準で価値づけられるものではなくて、美そのものがただそこにある、といったものである」という事なのだが、判りやすく言えば、誰かの権威によって保証されるようなものではなくて、ひとりひとりが感じるものである。まあ、こんなことを言いたいということで、倉本聰が長年構想を練った作品らしい。

      そういう抽象的な真理を物語として具現化するために、下北半島の漁師兼刺青師の息子津山竜次(本木雅弘)が主人公とされた。嵐の夜、浜辺で迎え火を焚いて待っていたのだが、父親は帰ってこなかった、という子供の頃のトラウマ。彼は天才的な画家になるのだが、大先生が娘を描いたキャンバスを塗りつぶして、その上に「海の沈黙」という絵を描いて絶賛される。しかし、事の次第がバレて、さらに、その娘の背中に入れ墨を刺そうとして破門、追放される。その後ゆくへは知れず、贋作(とは言え、本物より優れている)と入れ墨で生計を立ててきた。その中の一つとして、師の弟子の一人田村修三(石坂浩二)の著名な絵を(「海の沈黙」の上に)模写し、元絵を越えた「美」を作り出すのだが、その絵が彼に寄り添って世話をしていた男(中井貴一)によって贋作として出回り、その田村自身によって贋作と見破られる処から物語が始まる。まあ、確かにこのような真贋の問題ほど、倉本聰のテーマに相応しいものはないだろうが、判りやすすぎた感じもする。最後に、肺癌の末期で入院していた病室から抜け出して、あの浜辺の迎え火の絵を描き終わって亡くなる。

      それにしても、津山竜次を演じた本木雅弘さんは熱演だった。迎え火の赤、絵の具の赤ではなく、自らの吐血の赤、、、うーん、ちょっとやりすぎか?それと映像が美しい。使われた絵もなかなかのものだった。この絵は二戸市足沢の洋画家高田啓介さん(71)が担当したそうである。

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