2025.02.10

坂本龍一 の『音を視る 時を聴く』という展覧会を東京でやっていて、日曜美術館の番組で紹介していた。娘の美雨が出てきて実感の籠った感想を述べた。浅田彰も出てきて判ったようなことを言った。

・・坂本龍一というと、YMO に参加していて、その後「戦場のメリークリスマス」で有名になって、その後音楽についての模索の時代が続いていた、という感じである。僕が一番感銘を受けたのは、NHKテレビの「音楽の学校」シリーズで、音楽教育を受けていない僕にとってはありがたかった。彼は最後まで夢を追いかけていて、最近は、作為的でない環境音の美しさを見つける、ということで、いつもスマホにマイクを付けて音を採集していた。いろいろと本も書いているが、何故かとても読む気にはなれない。

・・この番組での内容としては、高谷史郎というメディアアーティストと意気投合していて、合作を作ってきたということである。演奏会の音楽のように視聴が始まりやがて終わるという一連の作品過程ではなくて、そこにいつもあって好きな時に好きなだけ体験するような音楽ー美術の場を作品とする。こういうのを Installation というらしい。音楽とか美術とか言っても、基本的なメカニズムだけが設計されていて、偶然に任せて生成されるような環境を提供する、という意味である。

・・この「生成される」というのがキーワードで、彼が親しくていた福岡伸一の言葉では「近代は世界を設計されたものとして捉えてきたけれども、本来世界は発生的に捉えるべきものだ」ということ。これは確かにそうで、世界の設計図を探求するのが科学で、得られた設計図を使って(改変して)世界を変革するのが技術ということになる。坂本龍一は設計図に基づく音楽(近代的なもの)に嫌気がさしていたと思われる。生成・発生する現象の中に自らを埋め込んでいく。しかしまあ、Installation というのも設計されたものではあるし、彼の夢は実現するというよりも、その夢を求める過程の中で束の間感じ取れるようなものなのだろう。

・・どんな音楽も背後にある方法論が見え透いてしまって、そこに浸りきれない、というのは、結局、自分は音楽で何を表現したいのか、という事自身が判らなくなっていた(あるいは、自分の存在意義を見失った)ということなのかもしれない。メディア・アーティストを批判する伊東乾の言葉を引用すれば、「芸術というよりも技術に目を奪われて、作家性を失った、細部には拘るのだが、表現の理由(私は何のために作品を作っているのか)を問わなくなった」ということかもしれない。中島みゆきが、学生時代に谷川俊太郎の詩に出会って、「私が歌う理由」を一年間考えた上でプロのシンガーソングライターとしてデビューしたことを思い出した。

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