2025.02.04
『物理の響き こころのひびきー音楽への認知的アプローチ』 伊藤乾(『科学』2008-06~2010.04)
この記事は15年も前に会社の図書室で見つけたものである。再読してみた。いろいろと新たな気付きがあった。以下読書メモである。類概念はスコラ哲学において大論争となった。具体物を指示しない概念はオッカムによって第二種の名詞と定義された。第二種の名詞で指示される類概念は果たして神の創造物として存在するのか?普遍論争である。それは実在しないというのが唯名論であるが、聖書にこれらの言葉があり、それが神の創造物でないとは言えないので、類は実在することになった(実在論)。
トマス・アクィナスは妥協案を提案した。「普遍(類)は神の知性において個物に先立って存在し、世界の中においては個物の中に存在し、人間の知性においては個物の後に存在する。」この図式はソシュールの記号学と同じである。つまり、楽譜は個別の演奏に先立って存在し、演奏という現象は物理的現実として個別に存在し、音楽の解釈や記憶が、ヒト脳内の認知現象として理解される。
第3回例として、ギリシャ時代からの(公会堂や裁判所等で使われていた)バジリカ建築様式がある。祭司者(裁判官等)の立つ演壇(トリビューン)は反響の良い箱で囲まれていて、これが拡声器の役割を果たしている。祭司者は母音を少し長めにして反響で声を増幅している。聴衆の話す声は響かないように設計してあるので、聴衆ひとりひとりが前後左右と上から祭司者の声に取り囲まれて、自分の声すら十分に聞えないので、聴衆は祭司者に心を掴まれてしまう。
ちょうどこのころ起こった重大な変化が、ローマ帝国におけるキリスト教の公認と国教化である。それまでは地下の納骨堂カタコンベで秘密裏に唱えられてきた祈りが、公認されて、バジリカ様式のトリビューンで唱えられるようになった。教会建築はこれを踏襲し更に音響効果を高めたものとなった。天井全体が石造りとなった。天井の高さは男性聖職者の声を共鳴させるように設計されている(高さ5~6m)。これがロマネスク様式である。
司祭が聴衆には背を向けて聖地の方向(東)を向いて祈ると、それが増幅されて、あたかも神の声のようにして会堂を満たす。長い残響を持つ修道院では聖歌を朗唱すれば宗教的法悦によってマインド・コントロールされるだろう。(修道士たちの寝室は逆に吸音性素材で覆われていた。)こういう空間で長短のアクセントで詩を朗読すれば、それは強弱のアクセントに変換される。
この時代に音楽(グレゴリア聖歌)の楽譜が発明されるのだが、それはネウマという名前のとおり、身振りによって合唱の同期を取るためだけのものだった。残響が長いために、いつ次の言葉に移行したらよいのかが判らなかったのでそのために楽譜が必要になったのである。(ギリシャ・ローマ時代には演劇空間が戸外であったので、残響が無くて声の同期が取りやすかった。長短のリズムも明瞭だった。)グレゴリオ聖歌が多声化したのがこの時期である。ロマネスク様式の時代から、豊富な人声の倍音を聞き取り、それを補充するという意味で、単純な周波数比率の多声が登場していた(オルガヌム)。やがて、イスラム音楽の細かい装飾音に影響された旋律の変化が取り入れられた。しかし、これらをもってしても、残響の少なくなった新しい巨大な聖堂を声で満たすことが出来ず、教会の権威の維持のためには新しい工夫が必要となった。
そこで登場したのがリズム(拍)的な同期である。オルガヌムは全員が拍を揃えて歌うものになった。聴衆は音響の不足をリズム認知で補った。さらに、(ラテン語ではなく聴衆の理解できる)言語認知も動員された。複数の声部が絡み合い、聴衆の知的作業を誘発する、という方向に変化していった結果、作曲技法が整理された(ポリフォニー)。子音とされるものには実体としての周波数が存在しない。母音についても周波数はそれほど重要ではない。いろいろな話し方をして、周波数スペクトルが大きく変わってしまっても、母音は判別できる。脳内で形成される音節は学習によって作られたモデルであり、その人の来歴によって大きく異なる。
音節、色彩、音程などはコード表の体系を持ち、「カテゴリカル認知」と呼ばれる。音色の合成は比較的容易であったが、音声の合成は線形プロセスではできない。音響技術のディジタル化によって、非線形プロセスが計算可能となって、音声ボードが作られた。音声は合成ではなく逆に均一ノイズの切断で作られる。その切断のやり方で子音を実現する。だから、音声と周波数離散的な音楽とは本来は相容れないものである。
第8回イスラム文化を吸収してヨーロッパは12世紀ルネッサンスを迎えた。中世の大学、スコラ哲学、教会が人別帳を管理して税金の徴収を助けた、ゴシック建築、ポリフォニー。
世俗音楽においては、吟遊詩人が現れた。これもイスラムの影響である。各地で歌合戦が行われた。勿論部屋は狭く、響かない。言葉が重視された。歌による説得力や即興力が試された。こういう運動の中から教会ではモテトゥス(言葉の音楽)が生まれた。グレゴリア聖歌を最下部に持ちながら、上声はその解釈を(その国の言葉で)語った。しかも異なる解釈をそれぞれの声部が同時に語った。このやり方は世俗化して、もはや信仰とは何の関係もないことが歌われるようになった。各声部の語りをお互いに区別するために、単語の始まりの位置がずらされた。これは当時「アルス・ノヴァ」と呼ばれた。リズムを重視したポリフォニーである。1300年頃である。
結局「歌」とはよく響くように工夫された「語り」である。よりよく「共鳴」されて、より「印象的に」音像が認知されるように。共鳴とは空間的な現象であり、身体も楽器も部屋もその空間をうまく利用することが重要である。
第9回器楽、つまり硬いものの音響には倍音型スペクトルという特徴があり、これは共鳴現象で周波数分布が離散化している。それに対して軟らかいものは反発力が無いので、自分で振動を保てないから、強制振動による連続スペクトルを持つ。言葉もそうであって、それを周波数離散化することで歌になる。
以下しばらくは聴覚と視覚の間の Cross-fertalization を考える。離散化=ディジタル化の技術は当初写実性を損なうようなものだったが、その精度の向上によって、アナログよりも写実的になってきた。これはディジタル化による操作可能性の拡大に拠る。
第10回写実という意味では、写真技術の登場によって、絵画の潮流が変わった。写実は写真に任せて絵画が何かを表現しなくてはならなくなった。印象派の登場である。
旧約聖書に準拠するユダヤ教にもイスラム教にも宗教美術は存在しないが、キリスト教が公認されるとイエスや聖母マリアのイコンが登場した。キリスト教世界では偶像は具象と抽象の間を行き来している。東ローマ帝国では一時イコンが禁止されたが、後に復活した。西側ではむしろ具象化していった。イスラム教で唱えられる(神を賛美する)アザーンは明確な音律を持つ表現力豊かな音楽であるが、イスラム教徒はこれを音楽とは捉えていない。
キリスト教のイコンに相当するものがイスラム教では幾何学文様となっている。西欧での幾何学的な装飾性から具象(写実)への変化を単に進化と捉えるべきではない。一点遠近法は幾何学性を持たない具体的形象を立体的に錯覚させるための歪規則であった。いわば連続体の規則による離散化である。イスラムの幾何学文様は逆のプロセスである。細部の幾何学的規則を繰り返し適用して現実に接近する。フラクタル模様に似ている。
部分波の積み重ねによる西欧風のやり方を「和声的」とすれば、ひとつひとつを独立して認知させようとするイスラム風のやり方は「旋律的」である。イスラムのアザーン朗唱や仏教での声明もそうである。モンゴルのホーミーも旋律的であるが、自らの身体内部では共鳴による和声的とも言える。結局旋律的と和声的というのはどの範囲を一体として捉えるか、という認知のレベルの区別である。
楽器で言えば、ピアノやオルガンは和声的であり、それ以外の楽器は多少なりとも旋律的な能力を有する。
写真の登場によって、遠近法に基づく写実にそれほどの意味がなくなった時、西欧が発見したのが日本の浮世絵であった。北斎の「富岳三十六景」に驚いたのは、それが黒と他2色だけで描かれていたからである。限られた離散要素の組み合わせで写実がなされている、という驚き。それは認知科学にも裏付けられた点描技法に繋がった。
日本のアニメーションには「幾何学的装飾性」「平面性」「限られた素材を利用する」「組み合わせによるリアリティ」という特徴がある。西洋対東洋という視点ではなく、共通の認知科学的視点から比較考察することで Cross-fertalization が可能となるはずである。
第11、12回視覚は3種類の視細胞によって検出された情報が統合される。聴覚は内耳の蝸牛菅の中での共鳴を有毛細胞が検出する。生物の定義を細胞とすれば、生物にとって環境に応答することは必須であり、環境認知の基本的方法として、化学的的知覚(味覚、臭覚)と非化学的知覚(接触、温度、明暗、音)がある。原初生物が最初に獲得した非化学的知覚は「耳石器」であった。小石の動きを有毛細胞が検出する。この原理がそのまま使われているのが聴覚である。これは周囲の環境を広い範囲に亘って検出することが出来るという特徴を持つ。
胎児が最初に知覚するのは母親の声である。自他の区別すらない以上、それは自分でもある。
視覚が自ら動くことによってしか周囲全体を知ることが出来ないのに対して、聴覚は原理的に空間のあらゆる方向の情報を手に入れることが出来ている。視覚障害者の空間認知能力は、しばしば、そうでない人たちに比べて優れていることがある。
視覚と聴覚の比較において、もう一つの重要な視点は自ら情報を発するか否かである。聴覚にとっての刺激=音は自ら発することができるが、特別な生物を除けば、視覚にとっての刺激=光を自ら発することはない。視覚の源泉(反射、透過光)は環境光に依存している。「色覚」が絶対的な感覚ではなくて環境光の状況に応じた相対的感覚であるのもそのためである。網膜に入ってくる「色」をヒトは無意識に変換して環境による変化を打ち消してから知覚している。
第14回グレゴリオ聖歌と日本の仏教の声明は同じ構造をしている。
雅楽には唐由来の唐楽(左方の舞)と朝鮮半島由来の高麗楽(右方の舞)があり、前者には笙が使われる。笙はハーモニカと同じ発音原理であるが、吐いても吸っても同じ音が出るというところが異なり、このために、いくらでも長い持続音を演奏できる。ここからは想像であるが、中国での王宮は大規模なものである以上、音響的には響かなかったか、あるいは舞楽が戸外で催されたのではないか?それに比べて朝鮮半島の王宮は小さくて、寒冷な気候から石材が多用されたから、その反響の豊かな場所での舞楽には笙は必要がなかったのではないか?
第15回 とりあえず微妙な音高認知と周波数との関係は無視するとして、周波数で考える。協和音程の基本はオクターブ 1:2 と完全5度 2:3 (完全4度 3:4)である。2:3 で音を上げていくと 12回で元に戻るが 24セントだけずれてくる。これはとりあえず無視して6回で止めて7音にすると、ピタゴラス音階になる。これではドとミが協和しない(64:81)ので、3:4 という新しい比例関係にして作ったのが純正調である。
ド=1、レ=9/8、ミ=5/4、ファ=4/3、ソ=3/2、ラ=5/3、シ=15/8
である。長2度の音程が2種できて、ドレ、ファソ、ラシ が 8:9、レミ、ソラ が 9:10 となっている。半音は ファソ、シド で 15:16 となる。西洋音楽は和音の進行で出来ていている(ホモフォニー)から、終止形の和音がきれいに協和しないと充足感が得られない。音楽教育ではこの3度の音程関係を認知し演奏できるように子供のころから躾けられる。それをソルフェージュと呼ぶ。「移動ド唱法」という教授法が使われている。ピアノの絶対音感は邪魔になるだけである。平均律に調律されたピアノではできないから、ヴァイオリンが使われる。
タルティーニはヴァイオリンを使って、耳を鍛える方法を編み出した。それは差音を聴き取る訓練である。ここで差音というのは実際に鳴っている音ではなくて、頭の中で作り出される(感じられる)音である(内耳の非線形干渉効果で生じる)。ヴァイオリンで ラ の開放音を合わせた後、ミ の音に対して ミ の開放弦を調節していくと、オクターブ下の ラ の音が差音として聞こえる。(周波数比 2:3 の音が重なると 3-2=1 の相対周波数の音が差音として聞こえる。)この差音と開放弦の ラ の音が少し違っているとうなりが聞こえる。これを無くすように ミ の弦を調節する。ドとミ(4:5)であれば、ド に対して 1/4 の周波数、つまり 2オクターブ下の ド が差音である。これを聞き取って、元の ド とのうなりを判別する。ヴァイオリンの場合はこうして純正律の ミ を指で探って耳で見つける訓練をする、ということである。合っていれば、楽器全体が共鳴する。(伊東氏は、こういう当たり前のことが日本の音楽教育では教えられていないというが、本当かどうか、門外漢の僕には判らない。)
純正調は音が美しく調和するのであるが、反面旋律的な躍動感に欠ける。その要因が第7音の シ である。これが主音に対して協和しすぎる(15:8)。そこで、その替わりにピタゴラス音階の シ=243/128 を使うと、これは ソ に対して、81/64 の相対振動数となり、5/4=80/64 より僅かに高めとなるために、際立つ。これが導音であり、属音 ソ から主音 ド への情動的誘導(ドミナントモーション)をもたらす。こうして、純正調の安定した響きにピタゴラス音律が混ざりこむことで、衝突し、「機能和声」=調性の世界が生まれた。(伊東氏によると、こんなことも教えられていないというのだが、本当だろうか?)
こうした「調和観」の限界は、それが時間要素(発展要素、非線形性)を十分に取り込めていないところである。その方向に一歩進んだのが、安藤四一氏で、彼はコンサートホールの音響設計に脳の認知機能を導入して、4独立変数による正規直交認知モデルを構築した。(具体的内容は判らない。)古代だけに限らず、科学理論にはしばしば過剰な仮定が含まれている。神もそうであるが、燃焼理論における燃素も光学におけるエーテルもケプラーのオクターブもそうである。それらは不要なものとして体系から取り除かれたのだが、自然の認識過程において重要な役割を果たしてきた。そういう意味での創造的失敗は芸術においても意義がある。
メルセンヌ数とは M(n)=2のn乗ー1 として定義されるが、この中で素数となるメルセンヌ数 M(k) について、C(k)= 2のk乗×M(k) が完全数となることはユークリッドが証明した。メルセンヌはこれを使って素数論を展開した。この素数というのは、純正調と繋がる。何故ならば、周波数比が有理数(整数比)ということは、分母分子が互いに素な自然数で記述される有理数の構造である、ということで、素数分布を調べることと同じだからである。
1585年、シモン・ステヴィンが平均律を考案した。オクターブを 2の12乗根という無理数で比例分割すればよいが、これはオクターブ以外のすべての音程が協和しない。これは鍵盤楽器における転調の便のためであった。また、規模の大きな楽曲の構造を各調の個性を無視して相対的な視点から記述できる。しかし、実際に鍵盤楽器以外で演奏されるときにはそれぞれの調における純正調+属音で演奏される。メルセンヌはこの 2の12乗根を具体的に開平と開立とで計算して実用的な平均律を提案した。
古代中国では西欧よりも古い時代から同様の「三分損益法」で12音音階が作られていた。明代(1600年頃)の朱戴堉はメルセンヌと同じ計算を行っている。日本では、1700年頃に、中根元圭が同じ計算を行っている。そもそも、西洋東洋のこれらの計算の元はインド・アラビア地域であったと思われる。
ガムランは2つの音階を持つ。スレンドロはオクターブを5分割しているが、ペロッグは不均等7分割している。笙は和音楽器であり、10個の和音を奏でるのだが、それらに共通する2音がある。三分損益法に照らし合わせると、基音430Hz を 1 として、周波数が 4倍の1720Hz と 2×1.5×1.5倍の1935Hz となっている。差音は430×0.5=215Hz となり、基音のオクターブ下になっている。つまり、笙で使われる全ての和音にはこの音が差音として含まれる。楽器の構造も非線形性を活用して差音を実音として響かせるようになっている。西洋の音ではハーモニーが倍音として高音側に伸びていくのに対して、笙では差音によって低音側に伸びていく。持続する低音というのはかなりなエネルギーを必要とするのだが、それを笙では単に息を吸ったり吐いたりするだけで作り出している。
西洋音楽では ドーレ 音程(長2度)は基本的に不協和として扱われるのであるが、実は差音を利用することで協和音程となる。親鸞の和讃の中にもそのことが歌われている。
清風宝樹をふくときは 五つの音声いだしつつ 宮商和して自然なり 清浄勲を礼すべしなお、五音音階では宮がドで商がレである。
西洋教会音楽において「三位一体」と「最後の審判」が、それぞれ、三和音と導音(終止形)の背景となっている。つまり一神教的な世界観が背景にある。しかし、北インドのシタールにおける豊かな非線形振動を利用した共鳴弦を発達させたし、ガムランのゴングでは精緻な音程移高の対称構造を持つ独特の文法を発達させた。
現代の音響技術の進歩は新たな音楽の在り方を作り出す契機となっている筈である。 <目次へ> <一つ前へ> <次へ>