2025.01.11
『歌会 Vol.1』のアンコールで「野ウサギのように」が歌われていて、とても気持ちよさそうだった。そういえば、夜会『リトル東京』で踊りながら歌っていた。そこで、久しぶりにアルバム『グッバイガール』(1988年)を聴いてみた。最初に聴いたとき(2016年)には、瀬尾一三がアレンジを担当して、落ち着いたけど緊張感が無くなったかなという感想を僕は書いている。まあ、『Miss M』『36.5℃』『中島みゆき』とロックなアルバムが続いたので、そう感じたのかもしれない。けれどもそれだけではない。この最初の曲「野ウサギのように」がいかにも楽しそうだったので、そう感じたのである。確かにこれは調子のよい曲で、飛び跳ねるような旋律に置かれたアクセントと歌詞の音が見事に調和していて、歌詞の中身なんかどうでもよいとさえ思わせる。そのためにうっかりしていたのだが、ここで歌われている「いい男はいくらでもいるから、、、」というのは、中島みゆきがそれまでに試してみた編曲者達のことを指し示しているのかもしれない。編曲者選びに熱中して遊んでいる少女こそアルバムタイトルの「ガール」であり、「グッバイ」というのは、それを卒業して、大人になった、つまり瀬尾一三に任せた、という意味ではないだろうか?次の曲「ふらふら」で描かれる男を追いかけまわしている女もまた「ガール」である。この曲はそんなこと(編曲を考えること)にはもう疲れたという告白でもある。なお、瀬尾一三は当初(直接会うまでは)中島みゆきの印象が良くなかったために彼女を避けていた、ということから想像すると、この「ガール」が追いかけている男というのは瀬尾一三のことなのかもしれない。
そうすると、次の曲「MEGAMI」こそが、大人になった女、中島みゆきの目指すべき姿ということになる。このとろけるような甘い囁き声にその決意が感じられる。4曲目、LPレコードでいうと A面最後の曲、「気にしないで」は、このような経緯の締めくくりであるが、奪い取った男を元の恋人に返してあげる、という歌詞だから、もう瀬尾一三だけでやっていく、という決意表明になっている。(02.11訂正:A面の最後というのは思い違いで、実際は「十二月」までが A面であったが、そのままにしておく。)
問題はこの後である。LPレコードで言えばB面に相当する。(訂正:上記の通り。)曲調も歌詞も180度反転して暗く深刻な内容になる。「十二月」は自殺する若い女が多い月だという。本当かどうかは知らないが、当時の統計でそういうのがあったのかもしれない。その絶望の様をまるで心を抉り取るような辛辣な言葉で描く。一部の歌詞はレコード会社が過激すぎるというので削除したと言われている。「人恋しと泣け 十二月」。女が MEGAMI になる、という事の裏にはこのような自己犠牲がある、ということを言いたいのだろうか?それとも、これは「ガール」の末路なのだろうか?それに呼応するかのように、何だか「愛の賛歌」をもじったようなタイトルの「たとえ世界が空から落ちても」では、やさしくしてくれるなら、どんな悪者だろうと守ってあげる、と歌う。これが「愛」の実相だということだろうか?そして、次の曲「愛よりも」が最大の問題作であり、また傑作でもある。「見えないもの」「見果てぬもの」を信じるな、欲しがるな、という。これはまあ判る。観念ではなく目の前の具体的な人を愛しなさい。ということだろう。「愛よりも夢よりも 人恋しさに誘われて 愛さえも夢さえも 粉々になるよ」というところで、ちょっと混乱するのは、新たに登場した「人恋しさ」の位置づけである。「夢」に「愛」を対置したように見えるのに、そのどちらも「人恋しさ」に惑わされてしまう、という言い方になっている。「夢」についてはまあ判る。「愛」については、受動的に享受することが愛ではない、という意味で、アルバム『パラダイスカフェ』の中の「それは愛ではない」にも共通するのかもしれない。2番の歌詞がまた問題である。嘘をつき、ものを盗り、悪人になり、傷をつけ、春を売れ、と歌う。このオチは「救いなど待つよりも 罪は軽い」というところである。ここでも、受動的に愛を享受することへの激しい拒絶がある、というべきなのだろう。3番では、星を追いかけ、月を追いかけ、黄金(かね)を追いかけ、過去を追いかけ、どこまでも行け、と歌うのだが、これは1番とどう違うのか?星や月や黄金や過去は、確かに「見果てぬもの、見えないもの」(観念)ではない。次の「裏切らぬものだけを 慕って行け」という句がそれを示す。こうしてみると、「夢」というのも観念的でない具体物を意味しているのかもしれない。と、ここまで書いて気付いたのだが、「見えないもの」「見果てぬもの」を「観念的」と解釈するのは、僕の偏見かもしれなくて、「人恋しさ」つまり依存心の見せる幻想と解釈すべきなのかもしれない。そうすれば、全体がすっきりする。こういうことを歌う心として想定されるのは、相当酷い裏切りを経験してトラウマになっている、ということであるが、それは中島みゆき個人のことではなくて、彼女がこの歌を届けたい人のことなのだろう。結局、そういう人に向かってある種の希望を与えているということかもしれない。それこそ、MEGAMI の在り方の一つかもしれない。
「人恋しさ」がどうも気になったのであるが、A面の最初の曲「野ウサギのように」の最後の段で、「野に棲む者は 一人に弱い 蜃気楼(きつねのもり)へ 駆け寄りたがる」とあって、これで A面 と B面が繋がっている。つまり、「ガール」があれこれと浮気をするのは「人恋しさ」のせいであり、それは「見えないもの」「見果てぬもの」=蜃気楼に騙されているからなのだ。。。
間奏のようにして「涙 - made in tears」が歌われる。前川清への提供曲。これは箸休めという感じで、最後の曲「吹雪」がまた問題である。全体としては要するに雪が降る、ということなのだが、低い声での単純な旋律の繰り返しが不気味さを演出している。雪が何を象徴するのか、陽には語られない。ある「島」に降るようだが、それは「どこにも残らぬ島なら 名前は言えない」。雪が「どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち」。「恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい そこに描けないものが 君を殺すだろう 間引かれる子供の目印 気付かれる場所にはない」。現代流の黙示録である。雪は「羽根の形をしている」「あまりにも多すぎて やがて気にならなくなる」。「疑うブームが過ぎて 楯突くブームが過ぎて 静かになる日が来たら 予定通りに雪が降る」。1984年のアルバム『はじめまして』の最後から2番目にある「僕たちの将来」は、核兵器発射の2秒前で終わるので、ここで描かれているのは核兵器ではないにしても核の事故後の「死の灰」と想像するのが自然な成り行きだろうと思う。大勢の人達が核の使用について「疑い」「楯突く」のであるが、やがてそのような運動は風化して、誰も気にしなくなる。その頃に「羽根の形をした雪」が降る、という予言めいた歌である。そういえば、「もう誰も気にしてないよね」という句は学生運動の衰退を歌った「誰のせいでもない雨が」で使われていた。となると、この「島」は日本ということか?いずれにしても、最後に政治社会的問題を歌うというやり方は、中島みゆきのアルバムではよくあることである。ちょっと言っておきたかった、という感じかもしれない。
その後の中島みゆきのアルバムでは、このB面のような辛辣な表現があまり見られなくなる。MEGAMI になったのである。