群馬県太田市で発掘された東山道跡
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群馬県太田市の推定東山道駅路跡・・・3 (八ヶ入遺跡)
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東山道駅路の地図 |
八ヶ入遺跡(はちがいりいせき)
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八ヶ入遺跡の南東部から見つかった東山道駅路の側溝
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上の写真は八ヶ入遺跡の南東部から見つかった東山道駅路の側溝です。途切れ途切れになっている南側の側溝と、北側の側溝は奥に数人の人達が立っているところにあります。この写真を見てもらえば古代駅路がいかに大きく真っ直ぐな道であったか、おわかりいただけるのではないでしょうか。こんな道が今から1300年も前に全国に造られていたというのですから驚かされます。
私自身、真っ直ぐな人生にあこがれていたものですが、古代駅路は曲がったことが嫌いなストレートな性格をあらわしているように思えてワクワクしてきます。それでは私自身のこれまでの人生は真っ直ぐであったのか? ふり返ってみると、これがまあ、こっちに曲り、あっちへ曲て、全くもう、ぜんぜん真っ直ぐではありませんでした。我ながら真っ直ぐな人生にあこがれていたなどと聞いて呆れるほどの曲りくねった人生でした。なんですか、・・・そんな話はどうでもいいですか。 八ヶ入遺跡も東の鹿島浦遺跡でも側溝のみの検出で、道路面の硬化層などの遺構は長い年月を経て河川に流され、或いは耕作地となっていたために、今回は検出されていませんでした。少し残念でした。 |
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八ヶ入遺跡は今回現地説明が行われた3遺跡の西側にあります。平成14年7月から調査が始まっていて、これまでに遺跡の北側で平安時代から室町時代に開かれたとする溝4本が見つかっています。溝から土師器や須恵器片に古代の瓦塔の破片、中世の石塔の頭の部分などが出土しているそうです。それとは別に旧石器時代(今から13000年前)の石器で、槍先に付けた細石刃(さいせきじん)というものが300点ほど見つかっているそうです。この地域でこれだけの細石刃が見つかったことは初めてで大変貴重であるようです。他に北方系の荒屋型彫刻刀も見つかっているといいます。 |
上の写真と右の写真、及び下の写真は八ヶ入遺跡の東山道駅路北側の側溝です。側溝から枝分かれしている細い溝も見つかっているようです。写真をよく見て頂くと側溝自身も幅や深さの違う溝が確認できます。
上の写真は西から東を見たもので、調査地の東端部で、堀り残し部の先から側溝が極端に広くなっているようです。 右の写真は上の写真と同じ付近ですが、反対側の東から西側を見たものです。堀残し部の土の色の違いでそこが溝であったことがわかります。更に広くなっている手前部は2段構造の溝であったことがよくわかります。 |
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左の写真は上の写真をもう少し引きつけて撮影したものです。広くなっている2段構造の側溝内の土色の違いが確認できるでしょうか。更にその先の堀残し部には細く浅い別の溝があったのが見られます。
説明員の方の話しによると、写真の北側側溝は東山道が廃絶した後も排水路や用水路などとして再利用されていたようだと語られていました。そのために2段構造や枝分かれした溝などがあるのかも知れません。 |
右の写真は北側側溝の西端部を東から西に向かって撮影したものです。側溝の堀残し部の最下層は白っぽい粗土のようです。写真の側溝の先は大きな深い谷地になっているようです。
現地説明会のパンフレットには東山道駅路が「谷でとうなっているのかという非常に興味深い問題(橋を架けたのか・盛り土をしたのか等)を提起していました」とあり。調査の結果、この谷は幅約10メートル・深さ約2.5メートルの自然河道で、谷底のレキ層から9世紀〜10世紀の須恵器や土師器が多数出土したそうです。 |
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結局のところ東山道駅路は、自然河道によって、流されたり、削られたりしていて、どのような方法で駅路が谷を渡ったのかは判断材料は見つからなかったようです。左の写真はその大きな河道である谷で、東山道の側溝がプッツリと切れているところを撮影したものです。
東山道駅路は八ヶ入遺跡から西へは金山丘陵を越えて新田町で発見されている東山道駅路の遺構へと繋がっていたものと思われます。 |
群馬県内を通る東山道駅路は佐波郡境町から新田郡新田町にかけて、約10キロメートルにも及ぶ直線のルートが発見されていて「牛堀・矢ノ原ルート」と呼ばれているものがあります。道の両脇に側溝があり、その幅約12メートル前後です。このルートは上野国府とは大きく南に離れて通っていますが、使用された時期は7世紀後半から8世紀後半と考えられているようです。
今回の遺跡説明会での鹿島浦遺跡と八ヶ入遺跡から東山道駅路の側溝が見つかっていて、その中間の大道西遺跡からも前年の調査調査で東山道跡が確認されています。これら3遺跡の側溝を繋げると約1キロメートルにもなり、今後調査が予定されている大道東遺跡からも道路遺構が検出される予想が高いと思われています。 今回の遺跡説明会の3遺跡を繋ぐ1キロメートルの東山道駅路跡は西は金山丘陵を越えて新田町の牛堀・矢ノ原ルートに繋がるものと思われます。ただ、若干方位が異なるようで、これは金山丘陵を越えるにあたり、地形に影響されて居るとも思われます。また、新田町で発見されている牛堀・矢ノ原ルートの北、500メートルで発見されている謎の古代道とも繋がる可能性も指摘できそうで、いろいろな想像をかき立ててくれます。 鹿島浦遺跡から東側は、そのまま延長すると渡良瀬川を渡り、下野国の足利駅(国府野遺跡)へと繋がっていたと思われます。説明員の方の話しによると鹿島浦遺跡から八ヶ入遺跡を見るとその背後の遠景に浅間山があるそうです。反対に八ヶ入遺跡から鹿島浦遺跡を見ると背後のその遠景に筑波山があるそうです。説明会当日は天気は良かったのですが、遠景は霞が掛かっていて浅間山と筑波山は残念ながら見られませんでした。古代の人は遙か遠景の山を目指して道を造ったのかも知れません。 |
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