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12月
01月
02/03
サホヒコの反乱を終えた。これで「日本書紀」に書いてある垂仁天皇の物語はほとんどが終わってしまった。あとはノミノスクネが埴輪を作る話と、タジマモリが常世の国からミカンをもってくる話だけだが、これは晩年のエピソードだろう。ということで、ここから先はフィクションだけで引っぱっていかなければならない。想像力が試される。まあ、およそのストーリーは考えている。タジマモリが常世の国に行く話からの連想で、前作「ツヌノオオキミ」でも用いた、死返玉(マカルガエシノタマ)を用いた死者を呼び戻す話をここでも使う。反乱で死んだサホ姫が、よみがえることになる。
そのサホ姫は、反乱の時にわが子の太子を救ってくれたマワカ王子を恋するようになる。マワカ王子はヒバス姫を恋し、ヒバス姫はイクメ王子を恋し、イクメ王子はサホ姫を恋する。そこから悲劇が深まっていく。設定はできているが、どんなふうに悲劇が深まっていくかは、何も考えていない。
この作品は、第一作「ツヌノオオキミ」と、第三作「ヤマトタケル」をつなぐ、橋渡しの物語だ。それだけに、ただのつなぎになりがちなので、最初からトーンを高めて描いてきた。ここまではうまくいっている。かなりテンポが速く、内容の密度が濃く、ひとことでいって、面白い作品になっている。しかしまだ全体の半分にも達していない。この面白さを最後まで持続できるかどうか。持続するだけでなく、後半にも二度、三度と山場を設定して、盛り上がったところでヤマトタケルにバトンタッチしたい。むろん、次の作品のための伏線もはっていかなければならない。
伏線として重要なのは、当然、ヤマトタケルの父、景行天皇の活躍だ。勇猛な武将なのだが、欠点も多い人物として描かなければならない。ヤマトタケルにとっては、父は困った存在なのだ。それからヒロインのオトタチバナ姫。「日本書紀」では誰の娘とも書いてないので、フィクションとして、タジマモリと冥界の女との間にできた娘ということにする。そのことを最後に描いて、この作品は幕を閉じることになる。
しかしそういう「橋渡し」とか「つなぎ」という側面が目立たないように、この作品自体の山場をしっかりと、形成していかなければならない。どういう山場になるのか。大きな戦争はない。恋愛だけで引っぱっていけるか、よくわからないが、引っぱっていくしかないだろう。
02/04
三越本店に行って、ヒナ人形を買った。うちは男の子二人なので、おヒナさまとは無縁であった。孫が女の子だったので、早速買って、スペインに送ることにした。生まれたばかりだから、まだ人形を見ることはできないだろうが、周囲のスペイン人たちに、ヒナ祭というものを紹介したい。デパ地下でヒナアラレも買った。いっしょに送るのだ。
いよいよ黄泉の国から死者がよみがえる話になる。ここでアメノヒボコの二人の子息が登場する。アメノヒボコというのは、ツヌノオオキミのもっていた矛に、ツヌノオオキミの分霊が乗り移って人となったものだが、その妻は、死の国からよみがえった女である。つまり二人の息子は、ただの人間ではない。何だかよくわからない存在である。その子息は常世の国の女を妻に迎えている。その子はタジマモリといって、常世の国からミカンをもって帰ってくる、ということが、「日本書紀」に書かれている。このアメノヒボコの子孫の物語とからめることによって、死者の国というもののリアリティーを演出したい。
ところで、スーパーボウルが終わった。アメリカンフットボールの中継(といっても録画だが)はよく見る。あらゆるスポーツの中で、いちばん面白いゲームだと思っている。今年は、ピッツバーグ・スティーラーズを応援していた。コーデル・スチュワートというクォーターバックの動きが、面白かった。数年前デビューした時は、クォーターバックの控えでありながら、時々、ランニングバックとして出場したり、キッキングチームに入ったり、ワイドレシーバーになったりした。いろんなポジションをこなすので、スラッシュというニックネームがついていた。
今年はスラッシュ(兼任を示すマーク)ではなく、エースクォーターバックとして活躍したのだが、残念ながら、カンファレンスの決勝で負けてしまった。そのスティーラーズに勝ったペイトリオッツは、エースクォーターバックのブレッドソーがケガをしたので、今年はダメかと思ったら、新人(正確にいえば2年目だが)のブレイディーが代役を務めるどころか、エースを上回る活躍だった。エースのブレッドソーは出番がなくなったのだが、スティーラーズ戦では逆にブレイディーがケガをして、元エースが代役として活躍した。こういう物語が生まれたチームは強い。スティーラーズは物語に押しきられたという感じがする。
スティーラーズが敗退したので、スーパーボールの中継は見なかった。中継は午前中で、わたしの寝ている時間帯だ。早起きしてテレビをつければ、最後のところだけ見られるかと思ったのだが、セントルイス・ラムズの圧勝だという下馬評だったので、結果も見なかった。しかし夕食の時に、妻が突然、すごい接戦だった、と言ったので、「結果を言うな」と宣言して、衛星テレビの再放送を見ることにした。ニュースも見ず、夕刊も開かなかった。結果を知ると面白くない。
で、結果を知らずに見たので、充分に楽しめた。劣勢を予想されたペイトリオッツが、第4クォーターの始めまで、14点差でリードしていた。つまり2回タッチダウンしないと追いつかない。15分をしのげば奇蹟的な勝利が実現する、と思われたが、じりじりと押されて、結局、終了間際に同点にされた。これで延長戦だが、もはやペイトリオッツの勝ちはないかと思われたのだが、まだ1分30秒残っていた。この短い時間で、ブレイディーはパスを投げ続け、残り7秒で、48ヤードのサヨナラキックが決まって、奇蹟が起こった。ペイトリオッツ(愛国者)が奇跡的な勝利をおさめるという、つくったような物語が生まれた。負けたのがラムズ(子羊)だというのも、よくできた話だ。
02/06
スペインの長男からは添付ファイルつきのメールが届く。いうまでもなく孫の写真である。まあ、冷静に見ればただの赤ん坊の写真なのだが、ファイルが届く度に、どきどきしながら解凍することになる。さて、5章が終わった。これでようやく半分。少し疲れてきた。この作品は前作と違って、戦争シーンのようなスペクタクルが少なく、テンポが遅くなりがちだ。恋愛というものは、どうも、かったるい。しかしシリーズの中には、こういうところもあっていいだろう。アメノヒボコの二人の息子が登場するシーン、うまく書けた。その直後に、孫のタジマモリが出てくる。神秘的な少年だ。少年はタチバナの実をたずさえている。これは常世の国の果実で、非時香果(ときじくのかぐのみ)と呼ばれているが、要するにミカンのこと。不老長寿の果実とされている。以上のことは「日本書紀」に書いてあるから歴史的事実(?)である。
02/14
「すばる」の今月号で、新鋭女流作家の清水博子と大泉芽衣子が対談している。二人とも、わが教え子である。「早稲田文学」ならともかく、本物の文芸誌で、教え子が対談しているのを読むと、立派なものだと感動する。何に感動しているかといえば、レッスンプロとしての自分の力量に感動しているのだ。というのは冗談で、たまたま才能のある学生と出会ったということにすぎない。というふうに書いてみると、少し違うという気もする。才能のある学生は、たくさんいる。わたしは教師として、せいいっぱい誉め、励ましてきた。その励ましによって、教え子の何人かは、ほんの少し、遠くまで飛んでいったのではないかと思う。遠くまで飛ぶ、などという表現が出てくるのは、オリンピックの中継を見ながら仕事をしているせいだが。
この対談の中に、こんなやりとりがある。清水「要するに三田さんは女子学生に点が甘い(笑)らしい」大泉「それは絶対あります」……ちょっと待て、とわたしは言いたい。確かに、わたしが誉めた学生は女の子が多く、男子学生で誉められた者は少なかったと思う。しかしそれは、わたしがエコヒイキしたわけではない。二十歳の女の子は、すでに大人である。それに対し、二十歳の男の子は、まだガキだ。男は三十、四十、五十と、年齢を重ねるごとに成長する。女は成長しないと言いきってしまうと差別発言になるが、あまり成長しない、ということは言えるだろう。子供を産んで母親になるということはあるが、社会的な成長ということになると、どうかな、と思ってしまう。
女は年をとると、ただオバサンになっていくだけでなく。男もオジンになるわけだが、男には「男の人生」というロマンがある。そのロマンとの間に、年齢とともに、距離ができていく。その距離のとり方が「成長」というかたちであらわれる。女はどうか。女にはロマンがないような気がする。女はただ自分を愛しているだけだ。男は友情とか、社会に貢献するとか、命をかけるとか、何らかのかたちで他者に働きかけ、他者との間合いで、自分というものの位置をはかろうとする。
こういうふうに考えるのは、わたしが男だからだろう。二十歳の男は、わたしにとってはガキだが、二十歳の女性は、果てもない謎のような存在だ。これはわたしに娘がなかったからかもしれない。どうも女の子というものはわからないところがあって、点が甘くなったということか。しかし、いまの日本の社会では、女性が不利な状況に置かれていることは事実だ。男はそこそこに勉強して、企業に就職すれば、とりあえずは生きていける。しかし女の子は就職の時点で差別を受ける。だから、二十歳の女の子は、すでに逆境の中を生きていることになる。それだけ、書くものがシビアになる。女子学生の作品のレベルが高いのは、そうした社会状況と無縁ではないだろう。
さて、「イクメノオオキミ」は6章が終わった。この作品の中心主題である男女2人ずつの4角関係がようやく設定されて、ここからドラマが展開される。ここまでは、主人公の遍歴の旅があったり、相撲があったり(?)、何やかやと動きがあったが、ここから先はドラマとして盛り上がっていくはずだ。すでにタラシヒコ(景行天皇)も生まれている。
前作ではヒコイマスという人物を悪役に設定したが、今回は景行天皇が悪役となる。顔がヒコイマスにそっくりだという設定になっている。これからも、悪役はすべて同じ顔になる。わかりやすい設定である。単純な勧善懲悪にならないように配慮するつもりだが、とにかくロマンスには悪役が必要だ。景行天皇というのはヤマトタケルの父親である。次の作品では、この父と子の対立が物語の推進力なる。その伏線として、赤ん坊として生まれたタラシヒコがすでに邪悪な風貌をした子供として登場することになる。そんなにわかりやすくていいのかという気もするが、それでいいのだ。
6章が終わったということは、すでに半分はすぎていることになるが、ここまではうまくいっていると思う。前作よりテンポがよく、展開は面白い。ただし、主人公のスケールが小さい。主人公のイクメノオオキミはハムレット型である。前作のツヌノオオキミは、怪物のような存在であった。ほんまもんの英雄である。人間離れしたスーパーマンである。これに対し、今回は人間としての悩みをもったヒーローである。ヒーローとしては弱すぎる。脇役のマワカノオオキミは、父のツヌノオオキミから、英雄としての資質を受け継いでいる。つまり、人間離れした霊力をもっている。このスーパーヒーローがヒーローになれないところに、悲劇性がある。
この弱い主人公と、人間離れした脇役という設定は、次の作品でも、ヤマトタケルとカニメノオオキミという関係になってもちこされることになる。ヤマトタケルはイクメ王子の孫、カニメノオオキミはマワカ王子の息子なので、時代が合わなくなるおそれがある。マワカノオオキミは結婚が遅いということにしないといけない。
ここまで、前作を「新アスカ伝説@」、いま書いているのを「新アスカ伝説A」としてきたが、この番号は本にする時には入れない方がいいと思う。現在の出版事情では、Aが出た時には、@が本屋にないということも充分にありえるからだ。@がなければ、Aは売れない。@もAも、誰も知らない主人公だから、ますます売れない。Bの「ヤマトタケル」は、このシリーズで唯一の「有名人」だが、これにBという番号がついていたのでは、誰も買わないだろう。わたしの作品では、せめて「ヤマトタケル」だけは売れてほしいので、番号はつけない。
「ヤマトタケル」を読んだ読者が、その時代のはるか前に「ツヌノオオキミ」という途方もない英雄がいたらしい、という気配を感じとってくれればと思う。
02/19
7章が終わった。ここではホムツワケノミコが生まれて初めて言葉を話す場面が描かれている。全体のストーリーの中ではとくに意味のあるエピソードではないのだが、神秘的なシーンだ。こういう細かいエピソードが作品の雰囲気を形成していく。7章はもっと盛り上げたかったが、細かいエピソードが続くだけで、大きな山場とはならなかった。仕方がない。この第二作は大きな戦がないので、戦闘シーンで盛り上げることができない。しかし愛の四角関係は密度を増している。それなりにスリリングな展開になっていると思う。
今年の一月は忙しかったが、二月は何もない。ピッチが上がってきた。これくらいの集中力があれば、いい作品が書ける。ということは、一月は忙しすぎたわけだ。文芸家協会や文化庁の仕事がやや負担になっているか。しかし、いまは社会的に大きな意義のある仕事をしている。大きくいえば、歴史に残るような大事業を、わたし一人でプランを立て、孤軍奮闘という感じで推進している。簡単にいえば、文芸家の著作権の確立のための運動を展開しようとしているのだが。
まあ、自分の仕事の方が大切だから、あんまりムキにならないようにと自分を押しとどめている。わたしは心優しいところと、負けず嫌いの攻撃的なところがあって、自分でも揺れが烈しいと思う。二重人格の双子座なので、仕方がない。一週間で一章と考えていたが、いまは五日で一章書けるので、二月末には九章まで行ける。ということは、三月の第一週で草稿完成、三月半ばにはこの作品の手が離れる。その後は、ただちに第三作「ヤマトタケル」に突入する。
三カ月かけたとして、6月末には完成するだろう。ただし、どこかでスケジュールを作って孫を見に行くというプランもあるが。孫を見てもどうということはないのだが、ウェスカの町をもう一度見たいという気もする。ウェスカの春はどんなふうかという点にも興味がある。「ウェスカの結婚式」は部数が少ないので、本屋にも出回っていないが、インターネットの本屋さんでは買えるはずで、ぜひとも読んでいただきたい。わたしの作品の中で、もしかしたらベストといえるかもしれない。本が売れないと、続編が書けない。つまり「ウェスカの孫」といった作品になるはずだが。そんなもの、誰も読まない、と言われれば仕方がないが。
02/21
8章も順調に進んでいる。ヤマト姫がイセに赴く場面。伊勢神宮の始まりである。垂仁天皇の生涯にはいくつかの「始まりの物語」がある。相撲の起源。伊勢神宮の起源。それから、ヒバス姫の葬儀においては、埴輪の起源が描かれる。これらは史実である。というか、「日本書紀」に記述されている事柄であるから、これを無視するわけにはいかない。
このところ書くピッチが上がってきた。エンディングに近づくにつれて、書くべき材料が少なくなっていくので、迷うことがない。残っている材料をどんどん消費していけばいい。とはいえ、材料を羅列するだけでは盛り上がりが演出できない。どこかで山場を作らないといけない。山場を作るとは、時間を止めるということで、映画「マトリックス」のキアヌ・リーブスのストップモーションみたいなものだ。この作品は恋愛がテーマなので、戦闘シーンで時間を止めるわけにはいかない。うまく盛り上がるかが、これからの最大の課題だ。
02/22
時間を止めるための工夫。マワカ王子をイノシシと闘わせる。これはヤマトタケルの命を奪うことになるイブキ山のイノシシである。「ヤマトタケル」の登場人物(?)であるが、この作品にもゲスト出演させる。いわゆる伏線である。イメージは、「もののけ姫」のタタリ神を白くしたようなもの。「もののけ姫」ではオオカミが白かったが。この白いイノシシは、ツチ神の王であり、わたしの作品の中では数少ない悪役である。前作では、ヒコイマスという人物だけが悪役であったが、今回はこのツチ神と、ヒコイマスの再来のような景行天皇が悪役となる。景行天皇はヤマトタケルの父であるが、これも次の作品のための伏線としてこの作品に登場させる。
さて、明日は所用があって箱根で一泊する。まあ、飲み会である。飲んで寝るので、一日つぶれる。わたしにとっては年間に数日しかない完全休養の日である。
02/27
2月は短い。今月中に草稿を完成させたかったが、ようやく8章が終わったところだ。あと9章と10章は、1週間で書き、草稿を読み返してチェックするのに1週間、3月半ばには完成させたい。そうでないと、次の仕事に移れない。
8章まではうまくいっている。8章では、イセ神宮の創設のエピソードが語られる。そこに到るまでに、マワカ王子とイブキ山の神との死闘が描かれる。この作品の最大の山場といっていい。実はこのシーンは、「ヤマトタケル」の死のシーンを先取りしたものだ。神話においては、同じことが何度も繰り返される。その布石として、イブキの神と闘って敗れるマワカ王子の姿を描く。
ヤマト姫はまだ子供なので活躍の機会は少ないが、神秘的な個性は描けたと思う。この人物も「ヤマトタケル」に登場する。前作「ツヌノオオキミ」と、この作品「イクメノオオキミ」は、「ヤマトタケル」の序章のようなものだ。むろん一つ一つが独立した作品ではあるのだが、「ヤマトタケル」に到る大きな流れもうまく描けていると思う。
土曜日に箱根へ行った。関所の近くの旧街道を歩いたが、杉並木である。わるい予感がした。思った通り、その夜から花粉症の症状が出た。月曜日に医者に行って、薬をもらったが、この薬を飲むと眠くなる。寝ていては仕事ができない。散歩も控えているので、体がピリッとしない。しかしとにかく、3月半ばに完成というのは、動かしがたいリミットだ。
そろそろ「炎の女帝」の文庫本が出る頃だ。「宇宙の始まりの小さな卵」は見本は届いたが、そろそろ本屋の店頭に出る頃だろう。売れないと困る。この本は、宇宙の始まりについて書いたものだが、宇宙の始まりから生物の誕生、さらには人間の知性の発生までを論じている。後半は紙数の関係でやや駆け足になった。できれば続編として、新たに「生命論」を書きたい。この「宇宙論」の方が売れてくれないと、続編を出すことができない。
本を出す度に、この本が売れないと次の本が出せないというスリルを感じることになる。売れ行きを気にかけていると、創作の方に集中できない。そのために、新アスカ伝説のシリーズは、3冊、まとめて書くことにした。「ヤマトタケル」を書き上げるまでは、一気に書く。3冊のすべてが完成するまでは、第一作を出版しない、という計画だったが、やや作業が遅れぎみだ。自分では自信をもっているし、担当編集者も「ツヌノオオキミ」を評価してくれている。「イクメノオオキミ」もうまくいっていると自分では思っている。
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