崇神天皇03

2025年3月

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03/01/土
このノートも3冊目になった。22年前に出した「新アスカ伝説」3部作は、本当は4冊のシリーズにするつもりで、4作目を書き始めたところで、3冊目の売れ行きが不振で企画が打ち切りになった。それで半分ほど書いたところでストップした作品が、常用のファイルにつねに残っていて、気にかかっていた。これを何とか完成させたいと、続きを書くことを試みたり、最初から手を入れたりといった作業をしていたこともあったのだが、完成したとしてももとの3部作が絶版になっているので、出す意味がない。どうすればいいか考えた末に、最初からすべて書き直すということを思いついた。完成したら4部作になるわけで、そんなものを出す出版社もないだろうが、自分が死んだ時に「遺作」として原稿が残っていれば、いつか発表されるのではないかということで、「幻の名作」を準備しておくことにした。いまは第一部をプリントにして赤字を入れる作業をしつつ、第二部の入力が半分くらいのところまで来ている。今年の初めから作業を開始したので、順調に進んでいるといっていいだろう。この作品は崇神天皇、垂仁天皇、日本武尊、神功皇后を主人公にした4部作で、日本書紀の記述をもとに、大幅なフィクションを追加して描いている。ぼくは最近、自分が日本人に生まれたということを、強く意識するようになった。もうすぐ死ぬということを思うと、自分の人生について考えたいと思ううちに、自分が日本に生まれた日本人で、日本に住んで日本語で小説を書いているということが、ある意味で、特異なことだと感じるようになった。長男がブリュッセル王立音楽院にいた時に、何度かベルギーに行ったのだが、ベルギーにはベルギー語というものはない。ベルギー民族というものもない。ベルギー国籍の人が、フランス語圏とフラマン語圏に住んでいるというだけのことだ。息子が通っていた音楽院には二つの入口があって、フランス語で教育するコースと、フラマン語コースとが、完全に別れていた。最も古い大学の一つとされるルーベン大学は、ぼくが行った時に新たな敷地にフランス語コースの大学が建設された直後で、ルーヴァン大学と呼ばれ、元の方はフラマン語ではレーフェン大学というらしい。ブリュッセルの国鉄や地下鉄の駅名表示も二ヵ国語で表記されている。それから長男はスペインで住むようになったのだが、バルセロナに行くとレストランのメニューが二ヵ国語で表記されている。一般にスペイン語と呼ばれているものはカスティーリャ語で、バルセロナやバレンシアはカタラン語(カタルーニャ語)圏なので、そもそもバルセロナというのはスペイン語の発音で、現地の人はバルセローンとフランス語ふうに鼻に抜ける発音になる。そういうところに身を置いていると、日本という国が特異な地域だと思えてくる。日本列島、日本国、日本民族、日本語圏がきっちり重なっている。そんなことを考えていると、日本の神社や、日本の神話というものが、日本人にとって重要な意味をもっていると感じられるようになった。ということで、この4部作は「幻の名作」として、何としても完成して、デッドストックとして保存しておきたいと思うようになった。

03/02/日
トランプとゼレンスキーの口喧嘩みたいなやりとりは、何ともレベルが低く、地球全体の未来に暗雲をなげかけるものと感じられた。こんな人々が政治を動かしているのかと思うと絶望するしかない。後期高齢者が絶望すると、静かな覚りの境地に到達するような気もする。みのもんたという司会者の人がなくなった。ぼくは作家になる前に、自動車メーカーのホンダの販売店向け機関誌の編集を仕事にしていた。3年ほど関わっていた。ホンダでは毎年、鈴鹿サーキットで「アイデアコンテスト」を催していた。全社員が対象で、書類審査に通るとそのアイデアで実物を造ることができる。その司会者をみのもんたがやっていた。当時はまだラジオのアナウンサーだったので、ぼくにとっては知らないタレントであったが、よくしゃべる人だなと思った。作家になって週刊誌の麻雀の催しに招かれた。この催しは勝ち抜き戦なので、勝つと翌週にも参加する。ぼくは2回出場して、両方とも2回戦で負けたので、戦績は2勝2敗ということになる。その4回の出場のどこかで、対戦相手にみのもんたさんがいた。試合中、彼はひたすらしゃべり続けていた。口を閉じるということができない人だと思った。ある時期、ぼくは夜中に仕事をして、朝寝るという規則正しい生活をしていたことがある。一人の作業は寂しいので、深夜テレビをつけっぱなしにしていた。みのもんたの番組が始まると、寝酒を飲み始める、というのが習慣になっていたので、みのもんたの姿は目の奥にやきついている。本日は東京マラソン。ぼくはいつも10時に起きるので、起きた時はトップグループは浅草のあたりだったが、市民参加のマラソンなので、自宅から眺めることのできる淡路町の交差点は、ランナーたちがぞろぞろと走っていた。大阪マラソンの時は極寒だったが、今日はやや暑いのではないかと思ったのだが、それでもいい記録が出たようだ。

03/03/月
ひな祭り。少し前から廊下の端に、おひな様が置かれている。男びなと女びなだけの簡素なもので、妻のもちものだ。うちは男の子2人だったので、ひな人形を買うことはなかったのだが、スペインの長男のところに女の子3人がいるので、そのつどひな人形を送った。大きなものは送れない。それでも長女の時は、ミニチュアだが五人囃子まで揃ったセットを購入した。当時はものの送付にほとんどプレッシャーがなかったのだが、そのうちスペインはあらゆるものに関税をかけるようになったので、簡素なものしか遅れなくなった。最初の時も、デパートでも海外送付の手続きはできるが、それだと関税がかかると言われて、いったん自宅に送付してもらって、包み直して郵便局にもっていった記憶がある。自分で包み直すと中古品の扱いになるということだった。その後、中古品にも関税がかかるようになった。世田谷三宿の家をたたんでいまの御茶ノ水の集合住宅に引っ越す時に、長男が残していったグランドピアノをどうするかということになって、販売したところに問い合わせると、海外メーカーのものだったので中古品でも値打ちがあると言われた。引っ越しの費用でわがやの財政がピンチだったので、ありがたいと思ったのだが、念のために長男に、「ピアノ要る?」と尋ねたら、「要る」という返事だった。ただスペインに送ると法外な関税がかかるというので、どういうコネがあったのか知らないが、イギリスに送った。そこから引っ越し業者が運んできたので関税がかからなかった。どういう仕組みなのかいまだにわからない。ただピアノを中古で引き取ってもらった場合のプラスと、イギリスまでの運賃のマイナスの合計が、たいへんな金額になったので、ショックを受けた。いま住んでいる住宅は、大学の教員だったのでローンを組んだので、その支払いだけでも逼迫した生活をしていたころだった。

03/04/火
サーラの臨時理事会と総会。文藝家協会の事務局長が理事をつとめ、ぼくは会員になっている文藝家協会を代表して総会に出席するのだが、総会では理事会の審議をそのまま承認することになるので、理事会も傍聴することになる。ネット会議なので、イヤホンで音声を聞きながら、パソコンの画面で自分の仕事をする。サーラというのは録音補償金を受け取る組織で、以前はデジタルテープレコーダーなどから課金された補償金を受け取っていたのだが、パソコンやiPod、iPad、iPhoneなどは汎用機(音楽の専用機ではないということ)なので課金はなく、いまではほとんど収入がなくなっている。以前はサーヴという組織があって、録画補償金を収受していた。これはテレビの地上波がデジタルになった時に、録画されたコンテンツをブランクDVDなどにコピーする時にカウントできるようになり、WOWOWやスカパーなどの有料コンテンツは1回、無料放送は10回のコピーで録画機のメモリーからコンテンツが消滅するというシステムができたために、録画機への課金は解消され、サーブという組織も解散されていた。ところが録画機の新機種が出たため、そこからまた課金できるのではないかという話になった。サーブが解散されたため、まだ残っているサーラに交渉をゆだねることになり、文藝家協会もサーラに参加することになった。ということで、この理事会・総会に参加している。内職をしながら聞いていたので、細かいことはわからないのだが、少し希望がもてる方向に進みつつあるようだ。会議が終わって散歩に出たのだが、アラレが降ってきたのですぐに引き返した。

03/05/水
雪になるかもという予想だったが小雨。車を動かすために、いつもの深川ギャザリアへ。500円でペンスタンドを買った。風呂場の電球が切れたので電球を抜いて、同じものを求めたのだが、3000円もする高価なものだった。それ以外は入らないので仕方がない。外すのは簡単だったが、バスタブの上の不安定な場所なので、電球をまっすぐ差し込むのに苦労をした。老夫婦だけの所帯はたいへんだ。妻一人になったら集合住宅の管理人に頼むしかないだろう。

03/06/木
文藝家協会評議員会・常務理事会・理事会。年に2回の評議員会が重なると会議が3回になるので、後期高齢者にはこたえる長丁場となる。評議員会は若い女性が多く、会としては盛り上がったのだが、疲れること疲れる。それでも若い女性が増えたことで、理事会も建設的な意見が出るようになった。花粉が舞い始めたようで、自宅に帰ってから、症状が出たのだが、こういう時の対処法は心得ているので、すぐに対応した。眠くなることを覚悟である錠剤を1つのむ。それだけのことなのだが。あとは頻繁に目を洗う。明日も会議が2つあるので、何とか乗り切りたい。

03/07/金
SARTRASの共通目的委員会。必要な発言をした。あらかじめ事務局に退出時間を告げてあった。最後の一件の前に時間切れになったので退出。始まる前にスーツとネクタイに着替えていたので、そのまま自宅を出て、ホテルオークラに向かう。旺文社のコンクールの表彰式。ぼくは「小説」の高校生部門と中学生部門の選考を担当している。選考会でかなり演説をしたので、両方とも文武科学大臣賞になったので、表彰状を渡す役目はないのだが、あとの懇親会で受賞者2人と歓談。下読みの人がぼくが高校生のころに『文藝』の編集者をやっていたので、昔話などをする。ホテルオークラは遠い。とにかく自分の体を運ぶだけの仕事。今週は昨日と今日とややハードワークだった。来週はのんびりしたい。

03/08/土
昨日は六本木一丁目の駅からホテルオークラに向かった。途中でスペイン大使館の前を通る。もう20年も前のことだが、スペインにいる長男が、音楽の教員になるための公務員試験を受けた時に、芸大の単位取得の証明書だけでなく、シラバスのスペイン語訳を日本の外務省の検印つきで遅れという、ややこしい注目が届いた。長男はブリュッセルの王立音楽院を卒業しているので、それで資格は充分なのだが、そこに入学した時に、日本の芸大で取得した単位が認められて、いくつかの授業を免除された。王立音楽院は日本の芸大の存在を知っていたので問題なかったのだが、スペインの公務員資格を審査する機関は認めなかったらしい。ヨーロッパでは、音楽院というものはふつうの学校とは別の系統になっている。日本のように、音楽大学というものがあることが想像できないらしい。そこで単位取得の証明書だけでなく、科目の内容を示したものの翻訳が必要だということで、妻が芸大まで行って古いシラバスを取得し、必要な単位の内容をコピーして長男に送り、スペイン人の嫁さんに手伝ってもらってスペイン語に翻訳したものを、妻が外務省にもっていって検印を押してもらって、それをスペイン大使館にもっていったのだが、スペルの間違いなどを指摘されて戻ってきた。それでぼくの使っていたパソコンをスペイン語バージョンに変換して、ぼくが修正したものを、また外務省、スペイン大使館と妻が駆け回った。そういうことが3回ほどあって、最終的にはまだ間違いがあったのだが、大使館の人があとは直しておきます、といって受け取ってくれた。大使館に通ったのは妻で、ぼくはスペイン語を修正しただけなのだが、スペイン大使館の前を通るといつもそのことを思い起こす。たいへんな思いをしたのだが、長男は無事に公務員の資格をとってちゃんと音楽院の先生をつとめている。ちなみにパソコンのキーボードをスペイン語にすると、ふつうの英文が打てなくなる。アクセントのついた母音や、特殊記号があるからだ。会話文などでは?マークがひっくりかえった記号がよく使われるのだが、書類には使われない。それでもこのマークのキーがあるので、英語でつかう記号が一つ減っていまうことになる。

03/09/日
日曜日。何事もなし。このところ『ルイス警部』という英国ミステリーをよく見ている。ルイス警部の部下のハサウェイという博識だけどどこかヌケているキャラがおもしろい。神学部出身ということで、宗教絡みになると個性を発揮する。ただ英国人の俳優はどれも同じ顔に見えるので、半分くらいまで、誰が誰かわからないままに見てしまうので、何回もくりかえし見て楽しんでいる。何回も見ているはずなのに、犯人が誰かわかない。老人ボケが始まっているような気もするが、同じドラマを何回も楽しめるので、それはそれでいいことなのかもしれない。夕方は王将戦を見ていた。藤井くんは後手の最初の手で、角道をあけた。これまで誰もそんなことをしなかったらしい。先手で作戦を立てていた永瀬くんは、それで調子が狂ったようで、あっさり負けてしまった。藤井くんの将棋は、よく驚かされる。

03/10/月
何事もなし。花粉が舞っているようなので、外出はせず。『ルイス警部』を見て、入力作業を少し。体調はわるくない。こういう状態がいつまで続くのかわからないが、今週はわりとひまなので、作業を先に進めたい。来週はけっこう忙しい。なぜ忙しくなるのかというと、結局のところ、いろいろな団体と関わっているからだ。高校生のころ、作家になりたいと思ったのは、作家というのは孤独な人間で、孤独でいて生きていける唯一の職業だという気がした。それで作家になるまではよかったのだが、大学の教員になったり、文藝家協会の仕事をしたりするうちに、人とのつきあいが増えてしまった。孤独になりたいと思ったのは、人間が嫌いだからではない。ただ世界と一定の間隔をとって生きていたいという思いがあった。いまもそのスタンスは保たれていると思っている。結局のところ、根源的な問題を考えている時が、いちばん楽しいのだが。ところで、スペインの孫の長女は、医学部の五年生なのだが、課題の小説を読んで医学的な見地でレポートを書けという課題があって、『罪と罰』を選んだのだが、その課題をAIにやらせてみると、見事な論文が出てきた。ところがそこで指摘されている文章が、『罪と罰』をしっかり読んでストーリーも記憶している長女には、未知のものだったので、「本当にこんな文章が『罪と罰』にあったのかと聞いたら、「すみません。嘘をつきました」とAIが応えたのだそうだ。これは父親の長男から聞いた話。AIも嘘をつくのか。スペイン語版のAIだけの冗談だと思いたい。

03/11/火
女優の三田和代さんが来る。お互いに高齢者となったので、今後のことなどを少し話をする。六歳の年齢差があるが、女性の方が長生きするので、こちらの方が先にくたばるかと思っているのだが、ぼくの方が残ったら、残務整理などをしなければならない。するよ、と答えておいた。さて、3月11日は震災の日だ。その日ぼくは、文藝家協会で総務省の人と話をしていた。震災の瞬間は、永田町の地下鉄から路上に出る長いエスカレーターの途中にいた。誰も乗っていないエスカレーターが異様な音を立て始めたので、エスカレーターの故障だと思い、あわてて駆け上がって路面に出ると、人々が路上に蹲っていた。目の前の高速道路の照明灯が、振り子のように揺れていた。身の危険とか、そんなことは考えなかった。何も考えなかったが、緊張感みたいなものはあって、それが心地よかった。総務省の人との話は一時間くらいだったが、その間にも余震があった。ぼくが平気で話を続けていたので、事務所の人から、三田さんは地震が平気らしてとあとで噂された。当時は世田谷区の三宿に住んでいたので、歩いて帰った。渋谷に出ると雑踏があって、歩道橋に人があふれて危険な状態だった。ぼくは渋谷には慣れているので、地上の横断歩道で道玄坂を登っていった。人の多さで歩道が満杯になり、車道の一車線が歩行者の通路となっていた。不思議な思い出だ。

03/12/水
津波が襲ったのは昨日だが、その段階では原発の危機は報道されていなかった。福島原発の前には防波堤があったが、想定外の大津波で、原発は水没した。水没しただけでは、爆発は起こらない。問題なのは冷却水を循環させるための発電機が水没によって止まってしまったことだ。その時点で、緊急用の発電機を運ぶことはできなかったのか。それよりも、想定外の津波があっても大丈夫なように、予備の発電機を丘の上などの安全な場所に設置できなかったのか。いずれにしも想定外のことが起こったので対応できなかったのだが、原発の場合は、想定外では済まされない危機管理の欠陥というべきだろう。二重、三重の安全対策が必要で、充分な安全対策がなされなかったからこそ、爆発事故は起こったのだ。東電の幹部だけではなく、原子力政策を推し進めた政治家や学者、技術者の責任を追及しないといけない。そのことが何よりも大事で、爆発事故が起こったから、すべての原発を止めるとか、今後は新たな原発を造らないといった発想はむしろ危険だ。すべての原発を止めてしまうと、技術者が育たない。いまある原発をとめて廃炉にするためにも技術者は必要で、事故が起こった原発の処理のためにも、技術者は不可欠だ。「想定外」のことが起こったのであれば、その可能性を想定しなかった東電幹部や技術者の責任を追及し、今後の対策を立てるのが何よりの急務だ。そういう意味では、ぼくは原発反対派ではなく、むしろ推進派だといっていいだろう。戦場で兵を撤退させるのに、ただ白旗をかかげるだけでは、敵は許してくれない。自然が相手の戦いでは、ごめんなさいでは済まされないのだ。撤退するにしても、戦いながら後退する覚悟が必要で、むしろ戦いながら少しでも前進していくというくらいのスタンスでないと、事故のあった原発を廃炉にするための対応も進んでいかない。電源を失った原発はメルトダウンを起こした。昔、『チャイナシンドローム』という映画があって、アメリカの原発が熔けて熔解物が地球の裏側まで到達するという話だった。実際の福島のメルトダウンは、海水で水没していたために、一定のところで止まったのだが、ウランやプルトニウムが大量に溶解したまま、火山の溶岩のようなものになって地中に埋まっている。それを取り出すために細いパイプを差し込んで、小さなロボットに耳かき一杯ほどのデブリと呼ばれる熔解物を採取するために、たいへんな苦労をしている。そんなことでは、すべてのデブリを取り出して安全なところに保管するといったことは、100年どころか、何百年かかっても不可能だろう。チェルノブイリでやったように、石棺と呼ばれるおおいをかけて、そのまま放置するしかないとぼくは考えている。その石棺の上に、汚染された土壌をかぶせて、巨大な古墳を造り、遠くから跪拝する。耳かき一杯のデブリを採取して、わずかずつでも前進しているということで、問題を回避したつもりになっている技術者や政治家は、日本人のいちばん悪いところが出ているようで、臭いものにフタどころか、フタもせずに目をつぶっているだけなのだとぼくは思っている。

03/13/木
SARTRAS分配委員会。何事もなし。今日は初夏の陽気。花粉をついて散歩。超弦理論の本を買った。相対性理論や量子論はある程度はわかるのだが、超弦理論はつかみどころがない。嘘だろうと思っている。もののたとえのようなものか。要するに素粒子は丸い粒ではなくて、ヒモが振動しているということらしい。それってどんなヒモなのか。まあ、老後の楽しみで、読んでみたいと思う。いまは相撲をやっている。プロ野球もそろそろ始まる。高校野球もやるらしい。将棋も時々見る。楽しみはいろいろあるのだが、残念ながらFootballは長いシーズンオフがある。4月の末にドラフト会議があるのだが、今年は見る気がしない。スーパーボウルの大敗からまだ立ち直れていない。負けたといっても、32チーム中の2番目ということで、ドラフトの順番はこの逆だから、31番目ということになる。ろくな選手は残っていない。それでも、2巡、3巡でも、鍛えれば育つ選手はいる。去年の1巡のワーシーは活躍したし、一昨年のドラフトのライスは怪我から復帰すれば、短いパスの受け手になる。ほとんど怪我で出られなかった移籍のブラウンもいるので、レシーバーは心配ない。このドラフトでは、オフェンスラインを固めてほしい。

03/14/金
SARTRASの役員会。役員というのは、非常勤の理事長と、副理事長二名、常勤の常務理事と、事務局長。以上の5名がいわば上級の役員で、これに多くの理事が続くことになる。理事会に先立って、五人の役員で理事会当日の進行を確認する。分配委員会の委員長は、もう一人の副理事長が兼任している。共通目的委員会の委員長は、複製権センターの理事長にお願いしているのだが、この5人のメンバーではないので、必要があればぼくが説明することになるが、本日は説明すべきことがなかったので、最初の挨拶の他は、終始無言だった。まあ、参加することに意議があるような会議だ。さて、昨日の3月13日は、大阪大空襲の日だったと、今日の新聞に出ていた。3月10日の東京大空襲の日は知っていたが、大阪のことは知らなかった。しかし大空襲のことは、母から聞かされていた。ぼくの両親は戦前、大阪市西区の境川というところで、青写真業を営んでいた。父が何度目から召集で不在だったので、母親が経営にあたっていたのだが、まだ幼児だった姉(いまは女優)を、姫路の祖母(母の母)に預けていたので、姫路から通っていた。そのため大阪の空襲には遭わなかったのだが、事務所が心配なので早朝に大阪に向かった。大空襲であったにも関わらず国鉄は動いていた。大阪駅に着くと、夜中の空襲とその後に続く火災で逃げ惑った人々が、梅田の阪急の駅のあたりに集まっていた。その群衆をかきわけて、徒歩で境川に向かった。何もない焼け野原が続いていたので、当然、事務所も焼失していると覚悟してはいたが、確認のためにその場所まで行ってみた。予想通り、そのあたりも焼け野原になっていた。大阪駅の方に引き返すと、来る時は渡れた橋が焼け落ちていたので、遠回りすることになった。大阪駅の前で、避難してきた人々の姿を改めて見ると、幼児を背中に負った人がたくさんいて、その幼児の顔が煤で真っ黒になっていた。それを見て、自分の娘のことを思い、姫路にいてよかったと思った。そんな話を母から聞いた記憶がある。もちろんぼくは、この世に存在するはるかに前のことだ。母が姫路に帰っていて空襲を受けなかったことと、父親が戦地(満州)から無事に帰ってきたことで、ぼくがこの世に誕生することになった。

03/15/土
週末はほっとする。先日購入した超弦理論の本をパラパラとめくっているのだが、まだ肝心のところには到達していない。素粒子論、相対性理論、不確定性原理、量子力学といった、歴史的な展開を少しずつ説明しているところは、まあ、ぼくもつねづね考えているところだ。ぼくの理解を順番に書いていくと、まずはガリレオ・ガリレイがピサの大聖堂で揺れ動く照明の動きを見て、振り子の法則を発見した。それがすべての出発点だ。彼が見つけた原理を簡単に言うと、たとえば右手に砲丸投げの砲丸、左手にパチンコの玉を持っているとしよう。砲丸は思いので、地球に強く引きつけられている。いまには手から落ちそうで、支えているだけでもたいへんだ。パチンコの玉の方は、まったく重さを感じない。それで、右手と左手と、同時に手を放すと、重い砲丸は強い力で地球に引かれているので、一気に落下し、パチンコ玉の方はほとんど重さを感じないくらいだから、ゆっくりと落下する。そんな感じを多くの人はもっているはずだ。ところがそうはならない。砲丸とパチンコ玉は、同じスピードで落下する。なぜそうなのか。砲丸のような重いものは、強い力で地球に引かれている。しかしながら、重い物体は、その重さに比例する力で、空間に貼り付いている。空間というのは、水飴のようなねばりけをもったもので、重いものほど、そのねばりけで空間にそのままの位置でとどめようとする。重いものは強い力で地球に引かれているのだが、同時に重いものは強い力で空間に貼り付いている。それで重いものに働く力が相殺されて、重いものも軽いものも、同じスピードで落下することになるのだ。宇宙ステーションのような無重力の状態だと、砲丸もパチンコ玉は、空中にういているはずだが、押してもると、砲丸は空間に貼り付いているので、抵抗を感じるはずだ。この重いものほど空間に貼り付いているというのが、一切の原理だとぼくは考えている。で、その空間に貼り付く力とはなにかというと、たぶんヒッグス粒子の働きなのかもしれないが、この粒子という考え方がクセモノで、粒子というと丸い粒を想定しがちなのだが、粒ではなくて、ヒモなのだというのが、超弦理論なのだとぼくは考えている。まだこの本を先まで読んでいないのだが、たぶんそういうことなのだろうと思っている。

03/16/日
昨日の続き。重いものと軽いものが、同じスピードで落下するというのが、ガリレオが発見した原理なのだが、大粒の雨と小粒の雨は、明らかに大粒の雨の方が速く落ちる。小粒の雨がさらに小さくなると、霧やモヤになって、落ちてこなくなる。これはわたしたちの身の周りには空気があるからだ。昨日は砲丸とパチンコ玉の話をしたが、砲丸とピンポン玉だと、ピンポン玉はゆっくりと落下する。風船だったら、もう落ちてこない。風船のなかに水素やヘリウムが入っていたら、逆に上方に飛んでいってしまう。これは空気抵抗だけでなく、空気に重さがあるので、空気に対して比重の軽いものは、上に上がっていくからだ。砲丸とパチンコ玉も、水のなかでは、明らかに砲丸の方が速く落下する。ピンポン玉だと、まったく落下せずに水面にうかびあがってしまう。そればわれわれがよく知る日常の原理なので、ガリレオは自分の発見に驚いたのだ。それから、重いものが空間に貼り付いているという現象は、宇宙ステーションに行かなくても体験できる。アイススケート場で、幼稚園くらいの子どもの背中を押してみるといい。簡単に子どもを押し出すことができる。今度は100キロ以上ある力士のような人物の背中を押してみると、その人物が空間に貼り付いていることが実感されるはずだ。これが地面とか床の上だと、中身のつまったダンボール箱と空の箱では、重いものは押しにくい。これは摩擦が働くからで、摩擦の力は重さに比例する。ところがアイススケート場でスケートをはいた人を押す場合には、摩擦は働かない。重力そのものは横方向には働かない。それでも、重い人物を押そうとすると抵抗を感じる。空間に貼り付いているからだ。逆にスケート場で高速ですべっている人物の場合は、その人物は空間とともにすべっているので、動いている空間に貼り付いていることになる。幼稚園の子どもがスピードを出しすぎて止まらなくなっているのを止めてやるのは簡単だが、お相撲さんが高速で迫ってきたら、逃げた方がいい。こちらがふっとばされることになる。

03/17/月
昔の人は太陽を見て、それをどのように考えていたのだろうか。単純に、神さまだと思っていたのか。夜空の星や、月を見て、どう思っていたのか。じっくりと眺めて、ある程度、思考力のある人だと、あることに気づいたと思う。ぼくは小学校で、地球の自転が23時間56分だと聞いて、おおっ、と思った。これはすごいことだ。昔の人も、そのことに気づいていたはずだ。一日というのは、太陽の南中から翌日の南中までの時間で、24時間だが、地球は公転もしているので、自転だけでは翌日の南中には到達しない。あと4分だけ、余分回らないと、丸一日にならないのだ。その結果、太陽を中心として一日、二日と日を数えていくと、星座の位置が毎日、4分ずつずれていく。その結果、冬の星座と夏の星座は、ガラッと変わってしまう。そのため昔の人は、黄道と呼ばれる太陽の通り道の帯状の部分を、12の星座に分けて、太陽は星座を、毎月1つずつ進んでいくと考えた。ただし昔の人は、われわれがプラネタリウムを見るように、星はドーム状の丸天井に貼り付いていると考え、太陽と月と5つの惑星だけが、丸天井を移動していくと考えた。ただし、どのようにして移動していくのか、その原理はわからない。わからないから、これは神の啓示だと考え、占星術というものが誕生した。ぼくたちは、7つの天体が星座を描いた丸天井を動いていく理由を知っている。これも小学校でちゃんと教えてくれる。それなのに、星座占いをいまでも気にしている人がいるのはなぜなのか。太陽が核融合反応なのだということも、どこかで教わったはずだが、そのことを正確に認識している人が、あまりいないような気もする。ぼくはこれらのことをちゃんと学校で習ったから、科学というものはすごいと思った。それから、そのすごいことに気づいた人は偉いと思って、科学史に興味をもった。ガリレオ・ガリレイは空間にねばりけがあることを発見しただけでなく、2枚のレンズを組み合わせて望遠鏡を作り、木星の四つの衛星を発見しただけでなく、4つの衛星が異なるスピードで木星の周囲を旋回していることにも気づいた。これはすごいことだと思う。そのすごさにふれると、ぼく自身が人間としてこの世に生まれて、先人たちの発見の歴史を学んだということに、感謝したいという気持ちになる。

03/18/火
日本点字図書館理事会。リアルな会議なので高田馬場へ出向く。点字図書館に通うようになって20年以上になる。いつの間にか理事のなかでも古株になってしまった。昔は乗り換えする時に一度、改札の外に出なければならなかったのが、半蔵門線と都営地下鉄の間の壁が取り払われてから、直接に乗り換えできるようになった。さて、昨日の続き。ぼくが物理学や科学史に興味をもったのは高校生の時で、それから60年の年月が流れている。すでに相対性理論も量子論も常識として定着していた。分子生物学の分野ではDNAも発見されていた。考えてみればその後の60年では、われわれの常識はほとんど進歩していない。生活の面では、電卓、ウォークマン、専用ワープロ、パソコン、スマートフォンと、日進月歩であったのだが、物理の基礎理論はほとんど進歩していない。重力波の観測とか、ヒッグス粒子の確認とか、大きな装置によって、100年ほど前に構築された基礎理論が正しかったことは証明されたのだが、そこから先は、時間が止まったかのようだ。チリの高山やハワイ島に設置された高額望遠鏡や電波望遠鏡、人工衛星に搭載されたハッブル望遠鏡や、新しいウェップ望遠鏡で、宇宙の遠くや、宇宙草創直後の天体が観測されるようになって、宇宙については新たな知識が得られているのだが、相対性理論や不確定性原理のような、それまでの常識を根本からくつがえすような新理論は出てきていない。なぜなのか。結局のところ、人類の叡知は、ほぼ極められているということなのか。それともいまは、経済の方向に進化が進んでいるのか。昔は個人が株を売り買いしていたのだが、いまはファンドと呼ばれる巨大資本が、コンピュータによって株価を操作している。個人ではどうしようもない大きな流れが、経済を動かしている。簡単にいえば、賭けた金額が大きければ、それによってルーレットの球が大きな金額の方に吸い寄せられる。そういうゲームになってしまっているので、ファンドの一人勝ちになってしまう。困ったことだが、これはどうしようもないことなのかもしれない。

03/19/水
深川ギャザリアに行く。ズボンを2本買う。やや肥満気味であって、昔のズボンが苦しくなっている。体重を落とそうと努力してはいるのだが、老い先短いという先入観があって、いまさら無理をして痩せることもないかという気分になってしまう。また物理学の話になるが、シャルル・ボイルの法則というのも、いわば大発見の一つだろう。気体をピストンのなかに入れて圧力をかけると、温度が上昇する。逆に、温度を上げると、膨脹して体積が増える。そこに、温度が1度上がると、273分の1だけ体積が増える厳密な法則がある。するとマイナス273度になると、気体の体積はゼロになる。実際には、二酸化炭素は早々と固体になってしまうし、酸素などもやがて液体になり、さらに固体になる。だから、気体の体積はその段階でほぼゼロになってしまうのだが、原理としては、マイナス273度というのが、低温の限界ではないかと考えられるようになった。つまりそこでは物質の熱エネルギーがゼロになってしまうので、分子運動というものがなくなってしまう。気体の体積というのは、さまざまな気体の粒子が運動エネルギーをもっていて、互いに弾性衝突したり、壁にぶつかって跳ね返る時に、ピストンなり風船の膜なりを押して体積を膨脹させるわけで、運動エネルギーがゼロになれば、それはまさに死の世界になってしまう。それが、気体の熱膨張という、簡単な観測だけで発見されたということだから、すごいことだというべだろう。こういうすごい発見が、最近は皆無だ。あらゆることは発見され尽くしたということかもしれないが、それでも青色発光ダイオードを発明した人は偉いと思う。信号の青がきれいになったし、家庭の電球の球も長持ちするようになった。わたしが使っている10年以上前の古いパソコンの画面はも、いまだちにちゃと見えているし、うちのテレビも10年以上前のものだが、ちゃんと映っている。しかしパソコンも、テレビも、昔はブラウン管という、一種の真空管を使っていた。だがモニターには必ず奥行きがあったし、かなり発熱していた。いつの間にか、薄型のモニターがあたりまえになった。生活はどんどん便利になっていくのに、物理学の進歩はどうして止まってしまったのか。

03/20/木
地下鉄サリン事件から30年の日だとのこと。ぼくは世田谷の三宿というところに住んでいた。早稲田で教えていたので、半蔵門線で九段下まで行って東西線に乗り換えていた。文藝家協会へは永田町から歩いていた。文化庁に行く機会も多く、表参道で銀座線に乗り換えて虎ノ門で降りる。とにかくどこへ行くにも地下鉄だった。ただあの事件は朝のラッシュ時だったので、自分が事件に遭遇する可能性はほとんどなかった。文化庁の会議も朝10時くらいだから、ラッシュの時間帯ではない。次男が上智大の学生で、早朝からアーチェリーの練習に出かけていた。当日も朝早く家を出た。これはラッシュよりも少し早い時間帯だったので難を逃れた。永田町から歩くか、丸ノ内線に乗り換えて四谷というコースだ。日比谷線の小伝馬町と、三線が交差している霞ヶ関で被害が大きかったようだが、サリンの袋がどういう経緯で運ばれ、どこで穴が開けられたかといったことは、偶発的な要素もあったので、都心部の駅ならばどこでも被害に遭う可能性があった。その当時、自分が何を考えていたのかはわからないが、学生運動の衰退に連動して、行き場を失った若者たちが宗教に傾いていったことは、それ以前から感じていた。『デイドリーム・ビリーバー』という書き下ろしの上下二巻の作品は、宗教をテーマとしたものだ。いまも問題となっている原理運動みたいなものをモデルとして、架空の宗教教団を描くことにしたのだが、作家としての仕事を始めた直後に、友人が編集長をしていた阿含宗という宗教教団の機関誌に連載を書いたことがある。それはのちに『青春のアーガマ』という本になったのだが、その宗教教団にも、若者が集まっていて、学生運動から宗教へという流れを実感していた。『デイドリーム・ビリーバー』は長く読み返していないが、同じ版元から次に出したのが、イエス・キリストを描いた『地に火を放つ者』だったので、そのころから宗教について考え続けていたのだろう。その後も、『空海』『日蓮』『親鸞』『聖徳太子』『善鸞』を書き、最後に『デーヴァ』で釈迦について書くことになった。キリストについては、『続カラマーゾフの兄弟』で、アリョーシャを怪しい教団の教祖に仕立てて描くことになった。アリョーシャがキリストで、その周囲に十二人の使徒を配した。名前もそのまま使った。ただしロシア人の名前に変換したのだが。ヨハネがイワン、ペテロがピョートル、マタイがマトヴェイなど、ロシア人の男性には十二使徒の名を冠した人物が多い。それはヨーロッパ諸国の全体にいえることで、ぼくの孫の男子も使徒の名がついている。ぼくは書くことで、自分のなかの問題を一つ一つクリアしていくようなところがあって、書いてしまえば、そのことについてあまり考えなくなる。『日蓮』を書いた時は、自分が日蓮になりきっていた。『善鸞』には脇役として日蓮が出てくるので、ヘンな気分だった。宗教は、物理学と同じくらいにおもしろいし、地下鉄サリン事件のように、宗教が大きな問題を起こすこともある。阿倍元首相襲撃事件も、宗教がらみといっていいだろう。いまも宗教というのは、大きなテーマだと思っている。このところ『ルイス警部』というシリーズをずっと見ているのだが、ルイスの部下のハサウェイというのが神学部出身と設定されていて、宗教がらみの事件がよく出てくる。オクスフォードが舞台なので、古い教会も出てくるし、大学のカレッジにもたいてい教会が併設されている。宗教はイギリスの人々の日常に融け込んでいるのだ。

03/21/金
SARTRAS理事会と3年WG。このSARTRASという組織とは、まだ大学の教員をしていたころからつきあっている。文部科学省が、小学生と中学生の全員にiPad(または同等の機種)をもたせて授業に活用するという構想を立てたことから、文化庁が、授業における公衆送信権を権利制限するという、法律改正を提言した。「権利制限」といえば聞こえはいいが、要するに「権利剥奪」なのだ。これに写真家の瀬尾太一さんを中心に反対運動をした結果、権利制限は実施されるものの、保証金制度を導入するということになった。法律の改正は一行加えるだけなのだが、われわれは保証金を受け取って分配する組織をただちに作らなければならなかった。その後は、会議につぐ会議となり、それは現在も続いている。コロナの流行があって小学校、中学校もリモート授業となり、活用のスタートが前倒しされた。文部科学省はわれわれに、一年目はタダにしろ、というむちゃぶりをしてきたのだが、こちらも分配のシステムが未整備だったので、それを受け容れた。翌年からお金が入るようになって、3年目に入っているのだが、いまだに分配のシステムは未整備のままで、3年見直しのWGで検討を続けている。本日もそのWGがあったのだが、まあ、なかなか先が見えない状態が続いている。ぼくは副理事長なので、事前に理事長、もう一人の副理事長、および事務方の役員と、事前打ち合わせをしているので、実際のWGでは発言せず、ただ聞いているだけだが、聞いているだけでも疲れるくらい紛糾する。まあ、意見をしっかり戦わせておけば、よい方向に向かうのではないかと期待している。

03/22/土
『垂仁天皇』のリライト入力作業は、最終章に入った。いい感じになっている。この作品は20年前に書いた3部作の続きの第4巻を書くために、既発表の3巻ぶんをリライトしているもので、完成すれば4巻ぶんのデッドストックになるのだが、デッドストックをもっていれば、出版のチャンスはいずれめぐってくるし、自分が死んだあとで発表してもいいと考えている。崇神天皇から神功皇后までの時代を採り上げていて、いま書いている2巻目が垂仁天皇、次が日本武尊、未完成の4巻目が神功皇后ということになる。なぜこの時代を書くかというと、おもしろいからだ。深さはない。しかし日本という国が国としての機構をもつようになったのがこのころだと考えられる。そもそも国とは何か。西洋の例を見ても、昔は都市国家だった。ギリシャという国があったわけではなく、アテナイとかスパルタとか、ギリシャ語を用いる都市国家があって、ギリシャ圏を作っていた。ではなぜ都市国家ができたかというと、それは人が穀物を栽培するようになったからだ。小麦でも米でもいいのだが、一年かせて穀物を育てて、収穫すると、どんな貧しい農民でも、一年分の富を保有することになる。狩猟採集の生活と異なるのは、穀物は腐らないので、収穫した穀物が富になることだ。富があれば、泥棒に盗られるおそれがある。ヨーロッパは地続きなので、遠方から騎馬民族が来たりする。そのため穀物は一箇所に集められ、城壁都市が生まれた。イエスが活躍したエルサレムも城壁都市だった。ローマにはまだ城壁の一部が残っている。パリには城壁の跡地が巨大な環状道路になっている。日本は島国なので、外敵のおそれはないのだが、地域ごとの穀物の奪い合いはあったはずで、濠をめぐらせた環濠のなかに、高床式の穀物倉庫を建設した。環濠だけではアブナイので、ガードマンが常駐する。そのガードマンが専業の武士となり、武士を束ねる隊長が、やがて地方豪族になっていく。その地方豪族を束ねて、国造という役職を与え、巨大な機構を築いたのが日本国ということになる。源平合戦というのは、源氏と平家の闘いではない。平治の乱で勝利した平清盛の親族が京都の政治の中枢に昇って(清盛が公家になったので平氏ではなく平家と呼ばれる)、やがて息子たちも公家となり、政権を掌握した。平家は瀬戸内海の海賊を手下につけて勢力を伸ばしたので、当初は西日本を支配しているだけだったが、やがて東国にまで勢力を伸ばして、関八州の国司長官がすべて平家の郎等になってしまった。地方豪族は新たに開墾した新田を藤原貴族や伊勢神宮などの名義で無税の荘園としていたのだが、平家の郎等の国司長官はこの名義だけの荘園を摘発していくことになる。そのため関東の地方豪族たちが団結して、伊豆に流罪となっていた源頼朝を旗頭に擁立して反乱を起こした。つまり源平の合戦ではなく、地方豪族(関東武者)と朝廷(実際には平家)の闘いだったわけだ。こういう地方豪族というものを徐々に束ねていったのが、崇神天皇から日本武尊の時代で、だからおもしろい、ということになる。

03/23/日
少し前にシャルル・ボイルの法則のことを書いたが、温度1度あがると、体積が273分の1ずつ上がるという、きわめてわかりやすい正比例になることの基本には、空気の粒が丸くて弾性をもった粒子であるという前提があった。丸くないと粒子がぶつかった時に変な方向に進んで、その時にエネルギーが吸収されたりする。弾性というのは、ぶつかった時に粒子が壊れたりせずにきっちりと撥ね返すということで、これも壊れるとそこでエネルギーが吸収されてしまう。ターレスが万物のもとは水だと言い、エンペドクレスが4元素説を唱えた時は、「元素」という考え方があっただけで、粒子とイメージはなかった。粒子だと考えたのはデモクリトスで、これ以上分割できない最小単位の粒子があると考えた。これはエピクロスに踏襲され、すべてが粒でできているなら、人間の体内に「霊魂」とか「心」というものはない。死んだらすべてがアトムに戻るだけのことで、死後の世界も地獄もないという、一種の覚りの境地に到達できるということで、エピキュリアン(楽観主義者)というイメージにつながった。実際のところは、「空気の粒」などというものはなく、窒素、酸素、水素などの分子が混ざっているのだが、ここに挙げた分子は、同種の原子2個が共有結合で1つの分子を構成している。二酸化炭素と水蒸気は、異なる種類の原子が2対1で結合したものだ。もう1つ、アルゴンがある。空気の組成の1%がアルゴンだというのは意外に知られていない。これは不活性気体だから、1原子で空中に存在している。いずれの分子および原子も、原子核の周囲に電子の「確率の雲」をまとっているから、表面はマイナスに帯電している。分子と分子がぶつかった場合、表面の電子の雲同士が接することになり、マイナス同士が反発するという電気力によって、弾性衝突が実現することになる。シャルルもボイルも、そんなことはまったく知らなかった。とりあえず丸い玉があって、ビリアードの球のように、弾性衝突すると考えただけなのだ。原理がわかっていなくても、結果オーライということがある。そこが物理学のおもしろいところで、朝永博士の「くりこみ理論」というのも、原理を考えずに、とりあえず「くりこむ」という考え方だ。ところで、物質の最小単位は何かということで、「素粒子」17種類が想定されているが、「超弦理論」では振動するヒモがあるだけだということになる。粒子というのは、物質の最小単位ではあるが、その奥に、何かがある、という考え方がいま広がっているようだ。水素原子はプラスの陽子の周囲にマイナスの電子1個が確率として分布していて、光子を吸収して外の軌道に映ったり、光子を放出して内側の軌道に降下したりしている。原子核の陽子はプラスで、電子はマイナスだから、最終的には電気力でドッキングするのではないかと思いたくなるのだが、エネルギーの最小単位というものがあって、内側の軌道の電子が少しずつ陽子に接近していくということはない。その最小単位というものは、空間の最小単位にも関連しているようで、そこには「量子」というものが関わってくる。量子は可能性の雲のようなものだ。電子が原子核に落ち込んでしまうと、「可能性の雲」が消えてしまう。しかし「可能性の雲」にも最小単位があるので、電子は原子核に落ち込まない。そのあたりで、「量子」というものが、何かしらの実在ではないかという考え方につながっていくように思う。「可能性の雲」ではなく、可能性そのものが実在しているということになる。で、ヒモというりは、可能性の雲を別の角度から眺めたもののように思われる。以上は、数学というものがよくわからない素人の思いつきにすぎない。

03/24/月
新宿のマッサージに出向いたあと、夜は歴史時代作家協会の理事会。どういうわけか代表代行というものになってしまったので、今年から理事会にも出ることになった。ここの理事たちはとても熱心で、会員のために何ができるかということをつねに議論している。理事会のあとは近くの居酒屋で飲み会。これもまた楽しい。

03/25/火
本日は教育NPOの理事長、事務局長との打ち合わせ。7月ごろに説明会を開くので、前座で短い講演をしてほしいとのこと。前理事長の時にもやったことがあるので、問題はない。短い打ち合わせのあとは、飲み会。蕎麦屋のフルコースで、なかなかいい店だった。日本酒をしっかりと飲んだ。

03/26/水
2日連続で飲み会だったが、いたって元気。本日はネット会議。SARTRAS共通目的委員会の事前審査。委員長とぼくが差しで事前審査をしている。○と×と審議の3種に分けておく。当日の委員会の参考指標として、とりあえず事前に○と×をつけておく。さて、このネット会議のあとは仕度をして、妻の運転で沼津へ。浜松の仕事場に行くのだが、往路の東京からの高速道路がつねに渋滞しているので、2年前くらいから、途中で一泊することにした。当初は御殿場のホテルだったのだが、御殿場も込んでいることがあるので、沼津まで行くことにした。ここはインターの出口に近いホテルがあって、落ち着ける。

03/27/木
朝の8時半に沼津のホテルを出発。9時45分に浜松サービスエリアに到着。いつもここでパンを買う。それから三ヶ日インターへ。農協に併設のスーパーで食料を調達。偶然、西気賀の駅でレストランをやっている夫婦と遭遇。40年前に仕事場を開設した時に、別荘地のレストランでその人が料理をしていた。やがて独立して西気賀の駅で開業した。ぼくらと同世代の人で、店を畳んだとのこと。スーパーで会ったのはまったくの偶然だが、その店の三ヶ日牛を使ったビーフシチューは絶品だった。

03/28/金
浜松に一泊すると、午前中に浜松の仕事場に到着できるので丸一日を過ごすことができる。夜中に雨が降った。かなりの雨量だった。朝方には雨が上がったので、都田テクノにあるカインズホームに行く。ここは浜松市街地の北にあって、工業団地として造成されたところだが、一部は住宅地になっている。カインズホームの隣接したところに広大な公園があって、桜が満開だった。人はまばら。上野公園の雑踏とはえらい違いだ。ハンバーガーを買って公園に入り、ベンチに座ると、視界の全体が桜でおおわれる。風が爽やかだ。花粉が舞っているはずだが、穴にワセリンをぬっているのだ大丈夫。目は帰ってから洗浄液で洗う。今週は毎日会議をやっている感じだが、本日は休み。隣の人が引っ越しの挨拶に来た。ぼくはこの別荘地の開設当初から仕事場としているのだが、隣は4回くらい代替わりしている。のんびりとした一日。カインズではビール1ケースとウイスキーの4リットルボトルを買った。夕方、妻がZOOMの操作について質問してきたので、何かと思ったら、名古屋の孫の高校生が、物理学会賞というものの優秀賞を貰ったとのことで、表彰式がZOOMで見られるということだった。家族のラインのなかで示されたアドレスでは反応しなかったので、それをコピーして自分あてのメールに添付させ、届いたメールの情報をタッチするという作業で、表彰式に参加することができた。受賞の挨拶は短めで的確でよかった。夏に思い装置をもってぼくらの自宅に来たことがあった。ぼくが住んでいる高層住宅は20階がロビーになっている。そこで装置を使って重力を測定して、地球の半径と、建物の重力を計算したらしい。何だかよくわからないが、そういうことが好きみたいだ。レゴブロックで造形するのと同じ乗りでやっているのだろう。

03/29/土
週末になったが、日本歴史時代作家協会の合評会。夜の6時からというので早めに夕食。6人から12作品が寄せられて、熱意にあふれた議論の展開があった。いい催しだと思う。歴史時代小説というのは、いまはなかなか盛んで、読者も多く、大きな書店に行けば、幅の広い棚が用意されている。ただ時代小説の好きな高齢者が年金生活になっているので、文庫本しか売れないという傾向が強くなっている。書き下ろし時代文庫というものが隆盛だが、500円の本が1万部売れたとしても、50万円の収入で、これではいまの大学新卒の初任給の二ヵ月分にも満たない。1冊書くのに二ヵ月かけると初任給に負けてしまう。作家というのは儲かる商売ではなくなっているので、作家専業になるのも難しいかなと思われる。それでも毎年、多くの新人が現れる。本が世に出るだけでもありがたいことで、何とかみんな頑張ってほしいと思う。

03/30/日
天気はいいが寒くて風が強い。何事もなし。浜名湖の眺めがうるわしい。そのためにこの仕事場に通ってくる。御茶ノ水の自宅からは、大手町のビル群が見えるだけだ。午後、妻に命じられて、庭の整備にあたる。まだ冬なので、雑草は伸びていない。ただ灌木の類が不揃いになっているので、床屋さんのように、ハサミできっちり均していく。集合住宅に住んで12年になる。地面に足がつかない生活に慣れてしまったので、この築40年の仕事場に来ると、土とか植木といったものが、珍しく感じられる。緑があってありがたいと思う反面、わずらわしいところもあって、重労働させられた気分になる。そもそも後期高齢者の身であるから、自分の体を移動させるだけでも、足もとが危うい感じなので、手に長いハサミとか、高枝切りをもっているというのは、とても危なっかしいことなのだ。作業が終わってパソコンに向かうと、手がふるえている。『垂仁天皇』の入力作業も、いよいよ大詰めにさしかかっている。

03/31/月
月末。朝10時半から、ABSCのネット会議。読書バリアフリー法によって制定された視覚障害者等の本を読む権利を守るために、書協などが推進している協議会。英語の本ならキンドルなどの端末で簡単に音声朗読が聞けるのだが、日本語の電子書籍はガードがかかっていて、たやすくは音声化けできない。さらに科学技術書など、図形やグラフの多い本をどのように音声化するのかのノウハウも充分ではない。ぼくのような高齢者も、いずれは紙の本を読むのが難しくなるだろう。この技術は日本人なら誰もが必要とするものだ。ただ日本語の本は流出への恐れからガードがかかっていて、テキスト文書を取り出すことが難しく、ふつうの読み上げソフトでは読めないようになっている。流出を防ぎながら読み上げソフトに対応する技術を開発するとともに、出版社の協力が必要になる。実のところ前途はまだ厳しい状況だと感じられる。さて、明日には東京に戻るので、本日は庭の植木に肥料をやる作業があると思っていたのだが、ぼくがネット会議に対応している間に、妻がすべてをすませてしまったので、ぼくは黄砂をかぶった車のウインドを洗っただけ。3月も今日で終わる。楽しく作業を続けてきた。入力作業はまだ2巻目の最後のところで、3巻目の完了と、プリントのチェックが終わるのはまだ先だが、3巻目の入力が終わった段階で、4巻目に取りかかりたい。4巻目というのは、まだ半分までの草稿が打ち込まれているだけなので、最初からチェックしないといけない。とりあえずその半分だけの原稿をプリントして読んでみるということをやっていみる必要があるだろう。今年の初めから作業を続けているが、まだ先は長い。一年がかりの仕事になりそうだ。


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