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「出産と生殖観の歴史」新村 拓著
(法政大学出版局 1996年1月)

■人間の生殖活動は時代によって変化していない■

失礼ながらこの本はほとんど読み飛ばしてしまい、目に付いた箇所を部分的にひろい読みしたような形になってしましました。

このような読み方をして感じたことは、人間の生理は、昔も今も殆ど変わっていないということでした。
現在は、環境汚染やホルモン剤の影響で生理が早まったり、精子が弱くなったりしていますが、これは、人間が変わったわけではないと考えることができるでしょう。
その上で、生殖活動について考えると、経済的・文化的な状況によって、結婚する年齢や出産間隔、出産数が変わっているようです。
逆に言うと、最も自然な状態に近い、狩猟採集生活における生殖活動が、人間にとって最も生物的に自然は状態であると思われます。
本書の本来の目的とは異なるでしょうが、私は以上のような感想を持ちました。

特に面白いなと思った部分

古代日本の医療行政および医学教育は宮内省が所轄する典薬寮において行われていたが、そこで用いられていたテキストのすべては中国の医薬書であり、そのいくつかは今日でも用いられているもである。なかでも漢代に編纂された『黄帝内経素問』は中国医学の基礎理論を説くものとして最も重用された医学書である。 - 9ページ

(『黄帝内経素問』は重要な書のようです)

『黄帝内経素問』巻一の第一「上古天真論篇」には、人が老齢化するに従って子が産めなくなる理由について、次のように述べている。

すなわち女子は七歳になれば、腎気が活発となって歯も生えかわり髪も長くなる。十四歳になると天癸(てんき)(経水)は充実し、任脈・太衝脈は貫通増進する。月事(月経)も周期的に下るようになって受胎が可能となる。四十九歳になると任脈・太衝脈は衰弱し、天癸は枯れて閉経する。それゆえ身体機能は衰え、受胎は不可能となる。他方、男子については、八歳で腎気は充ちて、髪は長くなり歯も生えかわる。十六歳になると腎気はいよいよ充実し、天癸(経水)も成長して精気(精液)を外に洩らすことができるようになり、女子と交わって子を為すことが可能となる。六十四歳になると歯も髪も抜け落ちる。腎は(しん)液(体液)をつかさどり、五臓六腑の精を受け入れて内に貯える機能を有するものである。五臓が盛んになれば、よく精気を外に洩らすことができる。が、今や五臓のすべてが衰えて筋骨は力を失い、天癸も枯れてしまったために、髪は白くなり、身体は重く感じられ、歩行も不自由となって、子を為すことができないとある。

つまり、女子については生理の始まる十四歳から四十九歳までを妊娠可能な期間とし、男子については射精の始まる十六歳から六十四歳までを生殖可能な期間と考えているのである。そして、受胎にとって必要なことは腎の気を充実させ、生殖にかかわる任脈・太衝脈内の血気の流通を活発にさせ、経水(精液と経血)を充満させておくことであるとしている。 - 13-14ページ

(生殖可能な期間は現在と大差ないようです)

ところで、腎が担っていた生命の座という象徴的な意味は、近世中期に解剖が始まり、腎本来の尿の排泄機能が明らかにされるにつれて薄められてゆくことになる。 - 17ページ

(逆に腎機能の衰えが心臓にも肝臓にも影響を与えるとわかってきて、かえって昔のほうが本質をとらえていた部分があるようにも思えます。)

厚生省の『人口動態統計』によれば、妊産婦の死亡率(出生10万人対)は明治三十二年(1899)に449.9とあり、それの半減を見るのが昭和十五年(1940)のことである。ちなみに平成四年のそれは9.2であるから、戦前までの死亡率の高さがうかがわれる。 - 138ページ

出産にともなう死亡が多かったせいで、近代社会での女性の死亡年齢は男性のそれに比して低く、服部敏良使用によれば、平安貴族の死亡年齢が60.04歳であるのに対して、同女性のそれは52.3歳とあり、また梅村恵子氏によれば、平安後期の歴史物語である『大鏡』に登場する人物の死亡年齢は、男性が56.5歳であるのに対して、女性は48.8歳とある。 - 138ページ

(妊産婦死亡率の高かった頃は女性の平均寿命のほうが短かった)

前にみた『北野天神縁起』の出産の場面には、巫女や陰陽師による祈祷や祓いの姿が描かれていたが、出産は彼らにとっても、また僧にとっても大きな収入源となっていたのである。さらに吉田社祠官である吉田兼見の日記『兼見卿記』天正十二年(1584)九月五日条によれば、兼見は依頼によって平産のための祈祷や祓いをし「産生札」を送ったとあるから、神官にとっても出産は収入源となっていたのである。 - 146ページ

(人の不安が金になるのは今も昔も同じ)

さらに近世から近代には、『日本産育習俗資料修正』十四「妊産婦の死亡」の項にみられる、産死者(ウブメ)に対する画一的な供養法、すなわち川施餓鬼(せがき)(流れ灌頂(かんじょう))が全国的に行われている。これは川端に竹または杉の柱を四本たて、それに白晒木綿の布または赤布をつるし、通行人に水をかけてもらうもので、赤布のをつるし、通行人に水をかけてもらうもので、赤布の色があせるまでとか、あるいは布にかかれた南無阿弥陀仏の字が消えるまで続け、それがすんではじめて産死者は成仏できるとされている。 - 150-151ページ

(他者に期待するありかたに人情を感じました)

農民の妻は直前まで働くから出産が軽いのだという話は、貞享・享保期(1648-1735)の儒医蘆川桂州が著した『病名彙解(いげ)』という病名語彙辞典でも取り上げられている。 - 158ページ

(おそらく、狩猟採集的な生活でも出産は軽くなるでしょう)

出産には特別な場所が用意される。それは外部からの危険や汚れを避けるという現実的な意味もあるが、出産は一つの身体でありながら二つの生命をもった、いわば境界域におかれていた妊婦が、その状態を打ち破って新しい人間関係、神と人との関係を打ちたてなければならないときであると同時に、これまでの平衡関係や秩序を乱したことから生ずる穢れをはらい、清めが求められるときでもある。 - 164ページ

(狩猟採集民にとって出産はもっと日常的な行為のように思えます)

十六世紀の著名な医師曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が著した『延寿撮要』でも、婚姻は生殖適齢の範囲内において考えるべきものであると、「房事篇」第二にみられる。すなわち「男子は十六にして精通すといえとも、必三十にして娶、女子は十四にして月水至といへとも、必二十にして嫁す」とあり、精通や初潮というものを基準にして男は十六から三十、女は十四から二十の間に結婚をすべきであるとしている。 - 200ページ

(女性の結婚適齢期が14歳からというのは早すぎるかもしれませんが、特に女性の初婚年齢の現状は生物的に不自然であり、現在の社会哲学が誤っていることを示していると思います。)

近世における嬰児殺害、間引きがあまり罪障感をもたずに行われていたのは、嬰児の生命は神霊の世界から送り込まれたものであり、しかも、七歳以前のそれは人間社会への仲間入りをしていない存在であるから、その生命を奪うことは殺人ではなく、その元の世界にお返しする行為と意識されていたからであるという。 - 253ページ

(この捉え方はヤノマミと共通しており、一定の合理性を備えた価値観であると思います。)





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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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