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「食の考古学」佐原 真(著)(東京大学出版会 1996年10月)

→目次など

■分かりやすく面白い考古学を提唱した佐原真さんによる、我々の生活に密接している「食」を扱った考古学専門書■

1996年の本ですが、もっと古い本のような印象を受けます。本書に現代日本の食生活として描かれている習慣(ホルモンを食べない、米を毎食2杯食べるなど)が随分前のことのように思えるからです。それほど食の変化が激しいのでしょう。

本書からいくつかの話題を拾ってみましょう。

マツタケが盛んに食べられるようになったのは、照葉樹の伐採が進み、二次林としてアカマツ林が形成されるようになったからで(44ページ)、その時期は京都付近では13世紀ころとされています。不作の年にかつては山に食糧を求めていた人々が都市にすがるようになったとされる時期と重なっており興味深く感じます。

日本の在来種のカブにはアジア型と西洋型があるそうです。そして西日本にはアジア型品種が、東日本には西洋型品種が分布しています。西洋型が渡来したのは縄紋時代の後・晩期ころと推測されています(57ページ)。照葉樹と落葉広葉樹の分布や、またぎとサンカの分布もそうですが、日本の東西(南北)の違いは、あえて強調されてはいませんが、もっと着目してよさそうに思えます。

沖縄県は長寿県ですが、豚肉を盛んに食べてきました。血や内臓も食べました。このため、沖縄では老人になっても食が淡泊にならず肉を食べることができます。

こうした話題が次々と登場する濃い内容に消化不良を起こしそうになるほどです。アイヌが住んでいたと思われる時期の東北地方にすでに稲作が伝わっていたり、江戸期の骨に栄養不良の跡が見られるのは、縄紋時代と違って栄養不良でも生きることができる社会になったいたからかもしれないなど、新しい見解を知ることもできます。

米の話では、水田耕作を日本の文化・社会の基本に据える従来の見方は「支配する人々の立場から見たときに「事実」であっても、庶民にとっては決して真実とはいいがたい」とする網野善彦氏らの稲作偏重文化論批判を紹介しながらも、飛騨地方の食生活などを引きながら、行き過ぎた批判であり、稲作を捨てる方向へと安易に進んではいけないと結ばれています。

面白さと同時に、この情報はどの程度まで正しいのかという警戒心を起こさせる本でもありました。

内容の紹介


ブタの始まり
大分県下郡桑苗で弥生時代のブタの存在を確かめた、という西本豊弘さん(国立歴史民俗博物館)からの知らせを受けた時は驚いた。
  食用家畜を欠くことこそ、弥生時代以来の日本農業の特質であることは常識であったし、私はそれを声を大にして強調してきた。だからこそ、大きな衝撃が私を襲った。
  当時、奈良にいた私は、佐倉の国立歴史民俗博物館を訪ねた機会に、資料を前にして西本さんから説明を受けた。なるほど頭骨を上から見おろすとイノシシのほうがすらりとしていてブタは丸い。ただし門外漢の目には、その差は微妙はものである。一番よく分かったのは、歯槽膿漏の有無である。一〇〇頭ものイノシシを見た西本さんは、歯槽膿漏を見出したためしがないと言う。ブタにはあるのだ。
  大分のブタの歯が、縄紋イノシシの歯よりも大きい、という事実も重要である。西本さんによると、縄紋イノシシの歯は、時期が下がるものほど小さくなる傾向にあるという。 - 18ページ

この短い部分だけでも、詳しく知りたい内容がいくつも含まれています。本当に日本には食用家畜はいなかったのか。縄紋イノシシの歯が小さくなっていったのはなぜなのか。大分のブタの歯が大きいのはなぜなのかなどです。最後の点については、大陸で家畜化されたブタを日本に連れてきた可能性が続く部分に記されています。


(コメ/農耕について)
私は古く、イギリスの考古学者ゴードン=チャイルドが農業開始を産業革命とも比べられる革命である(農業革命=新石器革命)ととらえたことにならって、弥生文化を農業革命ととらえたのだった[佐原 一九七五]。しかし、佐々木高明さんに、農業開始は、出来事ではなく過程だと批判され、また、考古学研究者が、食料採集か農耕かと二者択一で考える誤りを指摘された。南アメリカのゲー族が食料採集と農耕とを合わせておこない、今年は農産物がよいからそれでいこう、今年はおもわしくないから、採集でいこう、という生活をしている実例を教えられた。縄紋時代後期・晩期の西日本は、あるいは、そのような状況であったのか。ただし、佐々木高明さんは、雑穀(アワ・キビ・ヒエ)・根栽(イモ)型の焼畑農耕をその時期に考える。これは、考古学的には未確認である。 - 71ページ

カラハリ砂漠のブッシュマンは、ヤギを飼い、スイカを栽培しますが、狩猟採集民です。ピダハンは、イモを栽培しますが、農耕民的な特徴は少ないようです。『ゾミア』では焼畑農耕民たちが権力の巨大化を防ぐ様子が記されています。


かつて、日本の稲作は、太平洋岸では名古屋、日本海岸では京都府の丹後半島まで、まずひろがって農村が生まれ、以東、以北、東北地方にまで伝わるのは、何十年か何百年以上もあとだった、とみられていた。しかし、西日本の弥生時代I期中ごろの土器の制作技術に共通する特徴が数多くみとめられることによって、山形、秋田、青森県の日本海岸および、青森県の太平洋岸の稲作が、I期中ごろに始まっていたことが予想できるようになった[佐原 一九八七A]。はたして、この時期の水田跡が弘前市砂沢遺跡で見出された[村越ほか 一九九〇]。なお、私がI期中ごろととらえたことを若い研究者たちも認めてくれている[石川 一九八八][設楽 一九九五]。 - 72ページ

数年前に読んだのは、稲作は尾張地方までは一気に広がり、三河地方以東へはなかなか広まらず、また三河以東は稲作よりも養蚕が盛んであったという説でした。こんなに早く稲作が広まっていたとすると、それはどのような人たちで、どれ程浸透していたのかが気になります。


面白いことに、先史時代にヨーロッパ・アジア・アメリカを通じて、およそ北緯三〇度以北の食料採集民が用いた鍋は、深鍋(図1)が主であって、それより南の地帯を中心に発達した世界各地の農耕文化の土器は、深くても半球形で、むしろ浅い形のもの、つまり鍋・浅鍋が一般的である(図2)ことと対照をなしている[佐原 一九八二]。 - 84ページ

深鍋は長い炎が適し、煮込みやスープに適しているということです。


(稲作文化過大評価批判)
芋と雑穀の重視 早く批判の論陣に加わったのが、坪井洋文さんとと、民族学の佐々木高明さんだった。アワ・キビ・ヒエなどの雑穀や芋などの畑作持つを作り、芋で正月を祝った集団がいた日本に、おくれて水田耕作をおこなう「餅正月」を祝う集団が到来した可能性を坪井さんは説いた[坪井 一九七九]。佐々木高明さんは、およそ三〇〇〇年前(炭素14年代)縄紋時代の後期末〜晩期の西日本で、焼畑による雑穀や芋の栽培が始まり、その地盤に水田稲作文化が到来して弥生時代を迎えた、と考えている[佐々木 一九七一]。 - 228ページ

『日本語とタミル語』を読むと、アゼ、ハタ、ウネなどの単語がタミル語と共通しているそうです。私は陸稲を栽培していた集団がいて、スリランカと日本に稲作を伝えたのではないかと考えています。その時期は日本では縄文時代にあたり、特に畑作の用語として残っているのではないでしょうか。



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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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