るびりん書林 別館



こちらは旧サイトです。
関連書評などの機能の追加されている新サイト(https://rubyring-books.site/)に順次移行中です。
ぜひ、新サイトをご利用ください。

「★織田信長 最後の茶会〜「本能寺の変」前日に何が起きたか〜」小島 毅 (著)(光文社 2009年7月)

→目次など

■「従来の研究・叙述のほとんどが、視野を日本国内に限定していることに対して長いこと違和感を懐き続けてきた」という東アジアの思想文化を専業とする学者によって描かれた信長像■

本書を外れて、ざっと事実関係を確認しておこう。

1582年信長が数えの49歳の年に本能寺の変はおきた。明智光秀は55歳、秀吉は 46、7歳、家康は41歳。ザビエルの来日は1549年、本能寺の変の33年前にあたり、 信長16歳のときである。

今(2016年)から33年前と言えば、1983年。東京ディズニーランドが開園した年にあたる。 ディズニー教の信者が増える様子を信長はどのような気持ちで受け止めていただ ろうか。

私自身、これまで日本史に興味を持つことのないまま過ごしてきたため、本能寺の 変や信長に関する従来の研究・著述について一切知識を持ち合わせていない。ただ、 本書は低評価が多いようである。この評価が、逆に、本書に示された視点の独自性 の高さを示していると考えることができなくもない。

著者は、東アジアの思想文化の専門家であり、従って、明との関係で信長を捉えな おし、安土桃山城の設計も中華風であれば、信長自身も南蛮かぶれの野心家として ではなく、明との関係を重視する政治家の姿として描かれている。

さらに重要な点は、おそらくは、著者の意図を越えて、500年前の出来事と現代の 出来事の間に、強い関連性が浮き彫りになっている点である。

永楽銭に関する記述は通貨発行権の重要性に通じるものを思わせる。

暦に関する記述は、暦を定めるものこそが、真の権力者なのだという暦の象徴性を 思い出させる。

石見銀山に関する記述は、現代の石油などの資源を思わせるものがある。現代社会 では、資源のあるところに紛争が起き、独立国が誕生し、多国籍企業が利益を得る 体制ができていっている。

倭寇や、環伊勢海政権に関する記述は、現在まで支配の血脈を続けているというフェニキ ア人たちの活躍と重なってみえ、貿易の重要性を思い出させるものである。

もっと言えば、茶の湯自体がキリスト教の影響をうかがわせる存在 (http://members.ctknet.ne.jp/verdure/Christmas/Christmas_6.html) であり、血なまぐさい政治と密接に結びついた存在なのである。

このように、当時の信長を取り巻く要素を拾い上げていけば、国内情勢にばかり目 を向けていては、信長暗殺の黒幕は見えてこないであろうということがわかってく る。つまり、信長は、当時の中川昭一であり、フセインであり、J.F.ケネディであ ったかもしれないのである。

このような視点から読むとき、本書は刺激に満ちた本となる。

(司馬遼太郎の影響力に苦言を呈した箇所が三カ所あり、胸のすく思いがし ました。)
関連書籍:『ユダヤの日本侵略450年の秘密―ザビエルの日本上陸から自民党崩壊まで ここまで進んでいる日本民族抹殺計画』

内容の紹介


現在流布(るふ)している公家たちの日記には、本能寺の変の前後が欠けているものが少なくない。 たとえば、プロローグで紹介した山科(やましな)言継(ときつぐ)の日記も、現在写本では六月四日の次が十三日になっており、その間八日分に相当する箇所に約五行分の空白があるという(『大日本古記録』の注記による)。 それが単なる偶然なのか、それとも本能寺の変となんらかの因果関係があるのか、つまり、明智光秀敗北後になってかれ記述を抹消したのか、軽率に判断することは慎みたい。
だが、吉田神社の神官であった吉田兼見(かねみ)の日記には、天正十年前半部分に正本と別本があり、こちらは本能寺の変のあと「不都合な真実」を隠蔽(いんぺい)しようと書き直したことが明らかである。 - 51-52ページ


前久が二度の長期「下向」までして守ろうとしたもの、それは朝廷と摂関家の権威であった。 その象徴が「公事(くじ)」と呼ばれる年中行事、祝祭カレンダーである。 信長が彼らのよってたつ基盤を掘り崩そうとしたら、前久はそれに対して藤原氏のお家芸、先祖伝来の、陰謀という武器を使って立ち向かったことであろう。 - 70ページ


このように、信長が足利義昭を放逐して天下人となった時点で、ポルトガルはマカオに、スペインはマニラに確固とした拠点を持つようになっていた。 - 117ページ


織田信長の宗教政策といえば、比叡山の焼き討ちや石山本願寺との戦争に見られる仏教諸宗派との対立抗争と、イエズス会の宣教師たちを庇護して南蛮文化を取り入れたキリスト教びいきとが目立っている。
これがまた、近代において、封建体制を支えた仏教への批判と西洋文明摂取とに暗々裏に照合されて、信長の先進性・近代性を証する事例と目されているのだ。
だが、信長は大友宗麟とは違ってキリスト教に入信することはなかった。 むしろ、晩年においては、ルイス・フロイスらとの仲が険悪になっていたようにも見受けられる。 「仏教を敵視し、キリスト教を厚遇した」とする信長評価は、再検討する必要があるように思われる。 - 230ページ


織田信長は十六世紀の南蛮文化渡来に積極的に取り込んだ政治家だったが、その基本は従前からの中国文明を尊重するものだった。 横浜開港から百五十年という節目の年である今年(二〇〇九年)、明治以来の「文明開化」を反省的に回顧するためにも、信長について私たちはもう一度考え直してみるべきなのではなかろうか。 横浜を(天皇の許可無く)開港し、それゆえ非業の最期を遂げた大老井伊直弼の業績を再評価するためにも。 - 255ページ

Yahoo知恵袋に直弼に関する質問(井伊直弼が勅許無く、外国と不平等条約を締結したことに孝明天皇は激怒したのですか?それとも、孝明天皇自身はそもそも攘夷自体が不可能だと考えていたのでしょうか?)があります。 回答を抜粋すると次のようにあります。

それを、幕府が井伊直弼のときに反幕府的行為と決め付け、安政の大獄で厳しく取り締まり、独り占めしようとしたことで、西洋が日本での内乱を起こし、朝廷にキリスト教を浸透させて、傀儡政権をつくるために、薩長を唆して、攘夷が討幕にかわるわけです。そして明治帝により革命を起こして、長州による英国の傀儡政権ができるわけです。明治帝がガーター騎士になったわけです。 - 142ページ


この回答は信長の死に関しても通じるものがあるかもしれません。フロイスは、信長はデウスの怒りに触れて横死したと記述しているそうです。 「死んで欲しい相手」であったことは間違いないようです。


トップへ

お問い合わせ:

お気軽にお問い合わせください。

サイト内検索:

るびりん

「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

neko to hon

書評

書評

書評

書評

書評

書評

書評