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「幻の民コノイ族」藤木高嶺 (著)(あかね書房 1970年11月)

→目次など

■今から50年前、フィリピン南西部パラワン島の高地に、床下までの高さが 8メートルもある樹上住居を作る、焼畑農耕民コノイ族がいた。■

ニューギニア高地人』の調査などに同行した藤木カメラマンが隊長となった1967年の関西学院大学による調査に基づく一般向けの本です。

フィリピンの地図を見ると北部のルソン島からボルネオ島に向かって細長く伸びているのがパラワン島です。 本書の主人公コノイ族は、この島の南部、標高の高い地域に住む人々でした。

モロ族を中心とする回教系の諸族が一四世紀以降反復往来したのを恐れて、内陸部に逃げこんだのがパラワン族で、さらに隔絶した高地に入ったのがコノイ族とされている。(21ページ)

パラワン族と同族であると考える研究者もあり、コノイ族単独では当時でも100人ほどしかいないのではないかとされています。

経済活動を活発に行う民族ほど大きな組織を作って勢力を広げていき、これに押されて住みにくい土地に移住していくのが、焼畑農耕や狩猟採集を中心とし、巨大組織を作らない人々であるという構図は『ゾミア 脱国家の世界史』に描かれているとおりです。

コノイ族はパラワン族との間で交易を行い、アルマシガという木の樹脂や米を売って、山刀、布などを購入します。 他の民族とも交流を持ちながらも女性は山を降りることがないなど、隠れたような暮らしであることは確かです。 実際、調査隊もあきらめかけたところで日本人を父に持つオーシタ氏らとの巡り合いもあって運よく出会えただけなのでした。

調査のために同居した期間は1カ月ほどですが、豊富な写真や図もあって、暮らしぶりはよくわかります。

調査隊が出会って、同居を許された共同家屋の住人は10人で、最年長者の女性は推定45歳。
ここに死別した前夫との子ども3人(25歳娘、20歳娘、15歳息子)、
今の夫(30歳)と今の夫との間の息子(5歳)、
前夫との間の姉妹二人を妻にした一夫多妻制の義理の息子(25歳)。
最年長者の孫にあたり、25歳の娘が義理の息子との間にもうけた子ども3人(6歳息子、4歳息子、2歳娘)がいます。

義理の息子は、今は20歳の娘のほうに熱を上げていて、25歳の娘とは性交渉がないようだと記されており、しかし、姉は不満をみせず甲斐甲斐しく働き子育てをしていると書かれています。 最年長の女性からすると初孫は末息子よりも一歳上です。 新しい夫からすると妻とは15歳違いであるのに対し、義理の娘とは五歳しか違いません。

焼畑は2年ごとに新しく切り開く必要がありますが、自由に場所を選んでよいといいます。 財産といえるものはアルマシガの木の所有権くらいですが、かなり重要な財産のようです。 財産の相続権は夫婦にのみあるため、死別後は財産目当ての新しい配偶者を得やすいそうです。 同じコノイ族でも別の地域では、5歳くらいで10歳以上離れた夫と結婚し、そこで教育を受ける風習もあるそうです。

作物はキャッサバ(インカユ)が中心で、他にタロイモ、サツマイモ、バナナ、トウモロコシなどが作られ、米は交易用に作られます。 ヤブイノシシやセンザンコウをとって食べ、ニューギニア高地と比べると住民の健康状態はずっとよいそうです。 男はフンドシ、女は腰巻だけという姿で暮らしています。

驚くのは、身軽さ、足腰の強さで、子どもたちは枝もない10メートルもの高さの木に登り、トウにぶら下がって遊ぶことが好きで、暗くなっても遊んでいることもあるといいます。 女性たちも、険しい崖をするすると登っていきます。 コノイ族は身軽さをサルやハエにたとえられています。

コノイ族の生活は、病院もなければ学校もありません。政府機関もありません。 5歳の女の子を結婚させることを批判することもできるでしょう。電気もなければ水道もなく、アオハブのうようよいる山に血清もありません。 最年長者が45歳であることが示すように、体力が衰えたときが死ぬときだと言えるかもしれません。 おせっかいな人なら「この不幸な境遇におかれたコノイ族に医療や教育、電気や水道を提供しろ」といいだしかねません。

しかし、コノイ族の暮らしは、私たちの暮らしよりもずっと本来的であると感じます。 無用に生産・消費しない。貨幣に縛られない。 生物の宿命に従って生きる。体を動かして生きる。子ども時代に思いっきり遊ぶ。 家族を作って暮らす。 個人と社会の摩擦を避けるための知恵も組み込まれている。

本書に描かれていたコノイ族は、その後の歴史の中で次第にパラワン族などに吸収されていったと考えられます。 もう、かつてのような気ままで自立した暮らしはなくなったことでしょう。 パラワン島は、第二次大戦後フィリピン中部からの移住者による開拓で人口が激増しました。 欧米人向けのリゾートも多く成立して、2001年5月にはリゾートから20人が拉致される事件が起きました。

さまざまな本を読んで、文明の本質は人を動物としての本来の姿から遠ざけ、富を吸い上げるために労働を強いる徴税機関であると、私は考えるようになりました。 この本に描かれたコノイ族の暮らしぶりは、人類史の99%を占める人類本来の暮らし方である狩猟採集とは違い、財産や農耕という要素を持っているものの、この私の持論を支持する暮らしぶりでした。

二日後、私たちはバナリンガアン村に到着していた。久しぶりに夕焼け空が美しく、東の方にアリボボガン山の屋根型のシルエットがくっきりとのぞまれた。あの屋根型の頂上りょう線の右端にコノイ族が住んでいるのだ。下界にくらべると気温が快適だし、環境もすばらしい。豊富な農作物にも、動物性たんぱく源にもめぐまれている。しかもパラワン島でもっとも恐ろしいマラリヤの蚊も全くいない山上に住み、汚染や公害などの"文明のにごり"も知らず、素朴に健康的に生きる小さなコノイ族の世界――それは地球上に残された数少ない自然の楽園の一つに思えた。(186ページ)

便利さや長寿や福祉を求めて文明社会に組み込まれてしまえば、一番大切なものを失ってただ労働者としての暮らしが待っている。自然の楽園はないが、自然に囲まれた小さな世界には、本来の生き方・暮らし方はある。これが真実なのではないでしょうか。

内容の紹介


そのころのアリボボガンの気温は、最高が摂氏二五度、最低が十三度で、これは海岸の部落など低地の暑さにくらべたらはるかに快適で、めぐまれた環境といえる。 大人たちは、フンドシか腰まきだけの格好で寝るが、子どもは樹皮をたたいてこしらえた"タゴップ"(パルプのようなもの)にくるまって寝る。 イロリの火は夜通し燃えているわけでもなく、ましてすき間だらけの家の中が、暖房されるはずがない。 私たちは寝袋に入って寝たが、明け方の摂氏十三度くらいの気温の中で、ハダカのまま熟睡しているのを見ておどろいた。 - 68ページ


サナの焼畑は家の西側のがけを一五〇メートル下ったところにあり、オルネオの焼畑は東側にだらだらとくだった水場の近くで、ものの五分とはかからない。 サリダの焼畑はもっと遠く、北へ一時間ほどいったところの、クライアン川の支流の上流にあった。 - 95ページ

畑まで一時間かかるということはかなり、遠いと感じます。


ある日の山の人の献立を紹介しよう。
〔朝食〕午前七時。インカユをナベで煮たものだけ。午前九時ごろ、子どもたちは朝食の残りをふたたび食べる。
〔昼食〕正午。インカユを薪の上にのせて焼いたものとタロイモの葉を似たもの。 味付けは一切なし。 インカユは煮るより焼いたほうがうまい。 タロイモの葉は少しにが味があるが、案外おいしい。
〔おやつ〕午後四時。 スワ(夏みかんのような果実)の食べ放題。 甘みが少なく、すっぱいので私は半個しか食べられなかった。
〔夕食〕午後七時。インカユを煮たもの。 マタビョック(野ブタ)のくん製を煮たもの。 くんせいは古くて、くさりかけているのか、悪臭が鼻をついた。 - 99-100ページ

一日三食になったのは、エジソンがトースターを売るためだという話がありますが、ここでも一日三食です。 このときは、三食ともインカユを食べていて、農耕によって食生活は安定したかもしれないが、ほとんど摂取する必要のない炭水化物中心の食生活になって、健康状態が悪化したことを示すような食事でもあります。 別の箇所に、野山の果実や野草が豊富なことや、ヒゲイノシシを取り逃がしてたいへん落胆する様子が描かれており、そのような食物も多く取り入れているのではないかと思います。 また、子どもがインカユをいれた背負いかごを焼畑から運ぶときの写真が掲載されており、5、6歳頃から重い荷物の運搬を手伝っていることや、その際に手に持つのではなく背負うのであることもわかります。


これらの動物は、山の人の食料として、重要なタンパク源となるものが多い。 特に山の人が好んで食べるものは、ヒゲイノシシを筆頭に、センザンコウ、サル、モモンガ、リス、ネズミ、コウモリ、ハトなどだ。 カタツムリ、ハチの巣も山の人の大好物である。 - 103ページ

サルはどこでも人気のある食べ物です。


山の人の狩猟法はワナがいちばん多く、毒をぬった吹矢、ヤリも使う。 リスやモモンガをとるときは、木の穴に煙をたき、いぶしだして出てくるところを捕獲する。 しかし、わざわざ狩猟に出かけなくても、ワナにかかってくれる動物だけで十分なのが実情で、ニューギニア高地人が知ったら、さぞ羨ましく思うことだろう。 - 104ページ

狩猟と聞くと、子どもの頃に見た絵の影響で、マンモスを囲んでヤリを持った男たちの姿を想像してしまいます。 実際の狩猟は、ワナや毒が大活躍する世界のようです。


ある朝、カーミンドンが「サリ(ヘビ)だ」と言って、私の手をひっぱるので、彼について外に出てみた。 するとサリダだ、木の枝に一匹のヘビをのせて持っていた。 「このヘビはなにもしないよ。毒ヘビじゃない」と言うので、私は安心してカメラを持ちだし、ヘビにすれすれまで近づいて、アップで写真をとった。 頭が毒ヘビ特有の格好をしているのに、おかしいなと思ったが、サリダは平気な顔をして、ヘビを腕の上にのぼらせたり、しっぽや首をつかんだりした。 写真をとり終わると、サリダは枝に乗ったままのヘビを遠くへ投げ捨て、「あのヘビにかまれたら、いちころだ」と倒れて死ぬまねをした。 知らぬが仏とはこの事だ。 これが猛毒のアオハブだと知っていたら、あんなに近づいて写真をとるなんて、おても出来たものではない。 サリダはヘビの習性をよく知っているから、あのように危険なことも平気でしたのだと思われる。 アオハブは樹上にいて、しかも緑色の保護色をしているからわかりにくいが、見なれてくると、ジャングルにはうようよいるのに気がついた。 - 110-111ページ


モヨック、セイネ、レイヨンの三人の女も、もちろんタバコが好きだが、いつも口をむしゃむしゃさせているので、はじめ私はチューイングタバコをしがんでいるものと思った。 しかしかれらはチューイングタバコをかむ習慣がないので、変だなと思っていると、赤いツバをペッペッとはきちらした。 私は南米のインディオがしがんでいたコカの葉や、ベトナムの女がかむビンロウジュを思い出した。 やはりこれも同じようなもので、イバルトという麻薬の一種だった。 男も好むが、女の方がより多く用い、子どもは絶対に口にしてはんらないということだ。
  イバルトはカタツムリの殻とコラカップという草の葉でつくる。 カタツムリは中味を食べたあと、殻を強火で焼いて灰にする。 その白い灰を竹べらで拾い集め、葉に包んだ上からもんで粉にする。 この粉をコラカップの葉に包んで、口に入れてしがむ。 赤いツバを吐きながらしがみつづけると、酒に酔ったような一種の軽い陶酔状態になる。 麻薬といっても、体をむしばむほどきついものではない。 ほかにママアンという木の実もあって、これも口の中でしがむ麻薬の一種だ。 - 141ページ


結婚は売買婚の形をとっている。 つまり男は妻を買うのだ。 もちろんここではタオトダラムのような貨幣の流通がないから、品物によって行われる。 結婚する時は、男が女の親に贈り物をして許されると、女にも贈り物をする習慣だ。 一夫多妻制があることは、サリダが二人の奥さんを持っていることでも分るが、サリダから聞きだした従兄弟の話でも立証された。
  関学隊の報告によるとタオトダラムでは、十五歳と十〇歳、一三歳と七歳、十三歳と四歳という組み合わせの幼い夫婦が存在し、そこではだいたい女は五歳くらいで結婚し、夫によって一人前に育てられるということだ。 予約結婚というのか、幼児婚というのか、いずれにしても珍しい習慣だ。 なかには四五歳の男性と四歳の妻という組み合わせもあったとか。 しかしアリボボガンではそのようなケースはなかったり、サナやサリダの話から、親戚知人の間にもそのような例はないということだった。 だから幼児婚がコノイ族としての習慣なのか、タオトダラムの特殊性なのか、そこのところは不明だ。 - 158-159ページ


サリダとともにマリボンの樹上家屋へ泊りに行った時、インカユ(キャッサバ)を煮た夕食をすまし、イロリばたで雑談しているとサリダが屋根裏に差しこんであって竹笛をとりだした。 振ると中から数十匹のイプス(アブラムシ)がぞろぞろ出てきたのにはおどろいた。 サリダはそんなことは一向に気にもとめず、その竹笛を吹きはじめた。 もの悲しいメロディーが静かに流れ、日本の昔をしのばせる不思議なふんい気をかもしだした。 甲冑をまとった武士が馬にまたがり、戦場から疲れて帰ってくる情景がまぶたにうかんだ。 そばにいた森田隊員も、まったく同じ事を考えていたと告白した。 - 172-173ページ

焼畑、フンドシと腰巻きだけの姿、山の幸、竹笛、どれも日本と共通する要素であり、幻の民というよりも、日本の山間地に最近まで存在していた暮らしに近い印象を受けました。



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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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